将棋世界2003年8月号、作家の常盤新平さんの「名人閑話 ―羽生善治竜王・名人にきく」より。
羽生さんとは写真家の岡村啓嗣氏の紹介で知り合った。いっしょにニューヨークへ行ったこともある岡村さんがあるとき何げなく「羽生さんに会ってみませんか」と言ったので、私はそれにとびついた。岡村さんは羽生さんをデビューまもないころから撮りつづけてきたのである。将来の将棋界を背負って立つ天才と信じていた。
羽生さんが七冠王になる二年ほど前のことだから、今から九年前である。赤坂の和風のステーキ屋ではじめて羽生さんに会ったとき、この若さでこの落ち着きと私はこの若き棋士にすぐ敬意を払った。
羽生さんはまた、ごく普通の青年にも見えた。どこででも見かける若者であるが、しかし、彼らとは違っていた。すこぶる感じがいいし、まったく構えたところがない。相手に気を遣いながら、ごく自然に自分の世界を持っている。それは私にとってははじめての経験だった。そのときも私はすでに老骨だったけれども、長生きはするものだとしみじみ思ったものだ。
羽生さんは私が勝手に思い描いてきた棋士のイメージとは違っていた。猛々しいところはみじんもないし、といってソフトなところもない。羽生さんはごく普通の顔で私に接してくださった。棋士として大きな存在であるが、人間としてもスケールが大きい。
平成八年羽生さんが史上初の七冠を制したとき、私は王座戦第一局の観戦記を書かないかと言われて、簡単に引き受けた。それまで新聞の観戦記を楽しんではきたが、観戦記を書いたこともなかったので、これは軽はずみなことである。観戦記は青野照市九段の指導を受けて、なんとか書くことができたけれど、まことに図々しいことだ。身のほど知らずとはこのことである。
王座戦を対局室で観戦できるというのは特権で、緊張はするが、願ってもない体験だ。終局に近づくと、対局室は息づまるような雰囲気に包まれる。控室で「大詰だね」と言う声を聞いてきたので、私にもそれがわかった。
羽生さんの顔が青白い。扇子を開いたり閉じたり、天井を見たりしている。だが私にはまだ形勢がわからない。羽生さんの負けかと思っていると、それから数手すすんで、相手が「負けました」といさぎよく言う。恥ずかしいことであるが、このことを羽生さんに話してみた。大笑いになった。
羽生 でも、自分で自分の表情は、テレビを見ないからわからないんですけど、負けと思って、それで割り切れたときのほうが明るい表情になって、ふっきれて、あとは気楽に(笑)、負けは負けだと。逆にちょっと優勢で、一手の小さなミスで逆転されてしまうくらいの有利な局面では、表情がこわばっていると思いますね。そのときの表情は慎重になっているでしょうね。つまらないミスで負けたくないと、いっそう慎重になりますから。
名人戦第四局の話も直接聞いてきたかった。五月二十日、熱海のホテルで行われた第四局は午後七時五十九分に千日手が成立して、一時間後に指し直し局がはじまり、二十一日の午前一時三十八分、八十二手で羽生さんが勝って名人位を奪取した。残り時間、羽生さんは七分、森内さん一分。この対対局のあとのことを伺った。
羽生 打ち上げが五時に終わって、新幹線に乗ったのが九時半くらいでしたから、泊まった気はあまりしなかった。もうちょっと休みたかったですね。一日制だと、夜中までかかるんですが、二日制九時間でしたから、そういう意味で思い出に残る一局でした。二日制なら大体十時か十一時には終わりますから。
立会人が丸田先生で、八十いくつでしょうか、感想戦が終わったのが三時半で、いや、ほんとうに申しわけなかった(笑)。立ち会いだから、いなきゃいけないんです。
「いや、これぐらいまで起きていたのは久しぶりだ」とおっしゃって、お元気なんですよ。
丸田九段は「朝ごはんは何時からだ」と聞かれたそうである。
羽生 鍛え方が違うんですね。四時ぐらいにはさすがに「申しわけないけど、先に失礼する」とおっしゃって。
部屋に戻ってからは、片づけをして、時間は短かったけれど、すぐに眠りました。熟睡でした。対局の前でもあとでも、あまり眠れないということはないですね。
たくさんの対局をやっていくんで、いっしょうけんめいやるという気持ちは変わりませんが、一回一回の緊張感が年々うすくなっていくというか(笑)、あまりピリピリすることがないんです。だから逆にそういうことがあったほうがいいんじゃないか、気持ちがたかぶる状態がいいんじゃないかと思うことがありますね。
(つづく)
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表情がこわばっている時ほど優勢な時、ということになるのだろう。
「自分たちが来たからにはもう大丈夫、ミスさえしなければこの爆発物は絶対に分解できる」、そのような気概を持った爆発物処理班が作業を行なっている時のような表情、と思えばいいのかもしれない。
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ところで、午前5時に終わった打ち上げ。
名人を失った森内俊之九段(当時)は、その後、すぐに帰っている。
将棋世界2003年7月号、島朗八段(当時)の名人戦(森内俊之名人-羽生善治竜王)観戦記「ベスト&ブライテスト」より。
△2四角と打ったとき、羽生の指が震えていた。それは彼が勝利を確信したときに時折見られる。敗戦の恐怖感から解放された時の何よりの証であった。羽生ほど勝ち慣れた(ように見える)棋士でも、やはり勝ちが読めたときは歓喜と興奮に包まれて、それを隠し切れない。
深夜、名人戦史上でも歴史に残る一戦に控え室も、取材陣も、解説場のファンも憑かれたようにその場から動けなかった。二日制でのこの時刻の戦いは、もうこれから先にもおそらくないだろう。午前一時半を過ぎ、森内名人が投了。過酷な条件の中で、名人より挑戦者がベストを出しきれた結果である。
感想戦は深夜でもあり、普段の二人のペースよりは簡潔に進められたが、それでも終わったときは午前三時半になろうとしていた。二人にとっては、短時間で勝負のついた指し直し局よりも、千日手の中盤の読みあいに興味があるかのようだった。
午前六時。一睡もしないままホテルをチェックアウトした森内は、朝一番の新幹線に乗り込んだ。スーツではなく、コットンシャツに、やわらかなベスト。東京まではわずかの時間でしかないが 、彼はすんなりと座席で睡魔に襲われた。数十分なのに、ここ数ヵ月でいちばん安らかな気持ちのまま彼は微動だにせず、穏やかに眠っていた。
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羽生名人(当時)の9:30の新幹線と森内九段の朝一番の新幹線。
時間にして3時間だけの違いだが、その様子は大きく異る。
あまりにも厳しい勝負の世界だ。