芸能界と将棋界の違い

将棋世界1982年1月号、内藤國雄九段と福本和生さんの新春放談「晴耕雨読が夢」より。

福本「おゆき」、正直いってあんなにヒットするとは思えなかったですね。ボクは。

編集部 何十万でしょ。才能というより運。

福本 運もあるし、才能ももちろんあった。

内藤 おゆきの場合、全部新人でやったんです。作曲家、作詞家、編曲者、そしてぼく。普通本職が別にあるものはああいったキャンペーンは馬鹿々々しくてやりませんが、ぼくは2年間、全力をあげてやりました。将棋仲間もよく言いますが、バカには勝てぬという言葉があります。この場合のバカは、言い換えれば一途ということです。新人のキャンペーンというのは、ノーギャラとしたものでね。頭下げてタダで歌って、そのうえヤジられることがある。よく腹が立ってね、なんべんマイクほかそうと思ったかわからない。なんでこんなバカなことせなあかんのや。でもやりかけたことはやり通さなきゃ。で、しゃかりきになってやった。つまりバカになってがんばったわけですわ。歌詞、メロディ、編曲と全部よく、また本人がバカになってやった。この四拍子がそろったからヒットしたんで、このどれが欠けてもダメですね。おゆき以上にいい作品をその後に出しているんですが、ぼくはキャンペーンをやらないからやはりヒットしません。 

福本 すべてがそろったわけですね。

内藤 1日3回飛行機に乗ったことが何回もありますよ。福岡で朝のテレビに出て、昼には広島で2、3本のラジオに出て夜大阪のテレビに出る。そのまま夜行で東京へ行って朝一番のテレビに出演。それで旅費はほとんど出ませんからね。実際大変でした。

福本 芸能界はシビアだから。

(中略)

福本 内藤さんは芸能界に5年いてどういうことを感じましたか。

内藤 勝負の世界はたしかにきびしい。百点か0点しかない。単純であってきびしい。でも対人関係に一切気を使わなくていい。人の名前を覚える必要はない。ところが芸能界はそうはいかない。一般のサラリーマン社会もそう。今サラリーマン4人に1人ぐらいの割合で胃潰瘍になりかかっている人がいる。これは対人関係に気を使うからです。将棋の棋士はそういうことがないからありがたい。相手を倒すことは大変だけど、物を売るということも大変です。自分の評価を人様にしてもらうということは神経を使うことです。

福本 なるほど、それから…。

内藤 人と力を合わせる喜びを感じました。キャンペーンに行って調子よく歌えて拍手が多いと関係者が喜ぶんです。「よかったねえ」と。将棋の棋士は盤の上では自陣の駒が力を合わせるよう心がけるけれど、日常生活ではそういう気持ちは薄い。将棋に負けても困るのは極端に言えば自分と女房だけ。ところが芸能界は自分がいい加減やるとまわりの人がいっぱい迷惑する。つまり歌手は将棋の駒なんです。銀か桂かわからないが力を合わせなきゃいけない。それに比べ棋士は対局中好きなものが食べれて、ファンといえども観戦拒否ができる。棋士は感謝しなければいけません。

福本 長生きできそうですね。

内藤 それと棋士はお金をもらうとき頭を下げない。支払う方がありがとうございますといってお金を払う。受け取る方は、やあどうもてなもんです。稽古に行ってもそう、対局の時もそう、これは楽ですわ。

福本 プロは17、8歳で先生ですものね。

内藤 ただ付き合っている人の範囲が狭い。小さな温室で育っている。だから狭いということを自覚せにゃいかん。ただし修行中の者は違う。将棋ばっかりやってると狭くなるとか、人物がこまかくなると思うのはもってのほか。将棋の強いのが一番えらいんだと思ってがんばらにゃいけません。まだ三段や四段の者がいろんなものを身につけようとしてはいけない。ある程度バカにならなきゃ。

(以下略)

—————–

「おゆき」が大ヒットしたのは1976年から1977年にかけて。

内藤國雄九段が36歳の時の歌手デビューだった。

現在の年齢でいえば、山崎隆之八段が突然歌手デビューするような雰囲気。

—————–

「おゆき」の作曲は弦哲也さんで、作曲家としてのデビュー作。

弦哲也さんは1965年に歌手デビューしていたが、ヒットに恵まれず、地方公演で一緒だった北島三郎さんに「作曲をやってみたら」と勧められて作曲を始めた。

「おゆき」の後には、川中美幸「ふたり酒」、石川さゆり「天城越え」などの作曲をしている。

「おゆき」の作詞は関根浩子さんで、これは松倉久雄さんの筆名。松倉久雄さんは村田英雄「二代目無法松」の作詞をしている。

—————–

棋士の場合は、たしかに負けても経済的に影響があるのは家族だけだが、歌手となると、作詞家や作曲家、レコード会社(当時)などにも経済的な影響を与えてしまう。

ある意味では、棋士と歌手は真逆な世界とも言える。

この両方の世界を経験しているのだから、内藤國雄九段の言葉には重みがある。