藤井猛竜王(当時)「どうせわかんないから、無責任になんでも喋れる」

将棋ペンクラブ会報2001年春号、笹川進さんの「A級順位戦最終局裏レポート 控え室編」より。

▲検討陣の主役は中川七段、真田六段、深浦六段、勝又五段ら若手。「羽生さんの2三金は悪手」「ここはもう終わっている」と、歯ぎれがいい。

△NHKに出演する藤井竜王が、振り飛車が1局もないのを見て、「興味がない将棋が5つ並んでる。どうせわかんないから、無責任になんでも喋れる(笑)」

▲会館の大盤解説担当の鈴木大介六段。「昨日必死で『8五飛戦法』を読んだけど、途中で寝ちゃった」。周囲爆笑。

△テレビ中継が休憩に入り、村上アナウンサーと矢内女流三段が顔を出す。村上アナ「美少女の矢内さんが出ると視聴者が喜ぶから次もいこう」。矢内「もう美少女って年でもないんですよねェ(嘆息)」

▲その他検討陣・・・高橋九段、森九段、石田九段、井上八段、日浦七段、富岡七段、石川六段、植山六段、野月五段、中井女流五段、高橋和女流二段、囲碁の武宮九段、作家の渡辺淳一さんも顔をのぞかせた。

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振り飛車党の棋士にとって、相居飛車の序・中盤の解説は避けて通りたいところ。

藤井猛九段の名言を借りれば、老舗鰻屋の店主が銀座の店で懐石料理を作るような感覚なのかもしれない。

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控え室の歴史についても見てみたい。

近代将棋1991年1月号、鈴木宏彦さんの「プロ将棋はこう見ろ」より。

 昭和12年に行われた南禅寺の決戦(阪田三吉と木村義雄の戦い)では読売新聞の菅谷北斗星が7日間の対局につきっきりで泊り込み、31日間の実況中継観戦記を書いている。対局者以外は南禅寺に入れなかったが、関係者用の控え室はもちろん用意されていた。これなど控え室の走りといっていいだろう。

 昭和10年に実力制名人戦が創設されて以来、名人戦は全国の旅館や料亭で対局が行われるようになる。対局者はもちろん、立合いにも一流棋士が招かれ、新聞用の解説をしたり、対局中の検討をしたりするようになった。これが現在も続いている控え室の検討である。

 名人戦の朝日新聞時代(昭和25年から昭和51年)、控え室の検討の中心人物は升田幸三だった(もちろん升田が対局者の時は別だが)。筆者はその光景を見ていないが、升田は突っ立ったままぶっきらぼうに検討に口を出すのが常だったという。当時の名人戦控え室には梅原龍三郎、藤沢恒夫、山本有三といった著名作家がよく顔を出し、そうした客に将棋を見せるための盤駒があった。控え室はそうした名士と大豪棋士が顔を合わせる場所で、今のように、若手棋士が気軽に顔を出して口を出すような空気ではなかった。

 東京の若手棋士が控え室に集まるようになったのは昭和51年に現在の将棋会館ができて以来である。会館の控え室には特別対局室の対局を中継するテレビがある。対局を観戦検討するのにこれほど便利なシステムはない。というわけで研究熱心な棋士が自然に会館の控え室に集まるようになったのだ。それ以前(中野時代)では、棋士が対局中の将棋を並べる習慣はなかった。控え室がなかったからである。

(中略)

 現在の将棋会館の控え室には「桂の間と「記者室」という2つの名前がある。押入も床の間もない殺風景14畳の和室。元々の記者室は布団の入った押入があって、遅くなった奨励会員や棋士が泊まれるようになっていたが、棋士が増えて他の対局室が手狭になったので改装された。つまり普段は控え室だが、いざとなれば対局室にも変身するというわけだ。

 現在の記者室の使われ方は、奨励会員が将棋を指し、その隣で対局中の棋士がつかの間の休息をとるためにごろ寝、その隣で棋士や観戦記者が囲碁を打ち、特別対局室の対局を中継しているテレビの前では棋士や観戦記者がその様子を眺め、さらに昼食時や夕食時は対局者の食事部屋、さらにたまには担当記者が仕事もするという、なんでもありのごちゃまぜ部屋になっている。

 夕方5時頃、重要な対局がある日は多くの棋士が控え室に現れる。頭書の主役は桐谷広人、室岡克彦、以前は羽生善治、佐藤康光、森内俊之らもよく来た。最近では中川大輔、勝又清和、豊川孝弘、石川陽生、日浦市郎ら。亡くなった村山聖九段も東京時代は完全に控え室の主だった。

(以下略)

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ネット中継に代表されるように、控え室の存在が、将棋を観る楽しみを何倍にも引き上げている。

控え室がなければ、河口俊彦七段の「対局日誌」も全く違った形になっていたかもしれない。

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ちなみに、この頃、矢内理絵子女流二段(当時)は21歳。

「21歳の美少女」もありだと思うが、”美少女”という言葉が適切なのは何歳が上限なのだろう。