1996年2月14日、羽生善治七冠誕生

将棋マガジン1996年4月号、鈴木宏彦さんの「羽生善治、七冠へ翔ぶか」より。

対局終了後の共同会見。将棋世界1996年4月号より、撮影は弦巻勝さん。

 驚いた。羽生がどうにも負けなくなってしまったのだ。王将戦だけではない。棋王戦も勝ち、全日本プロも勝ち、NHK杯も勝ち、早指し戦も勝ち……。

(中略)

 昨年の11月8日、竜王戦第3局で佐藤康光七段に敗れて以降、この2月10日の棋王戦第1局までの成績が17勝1敗!もし王将リーグで中原永世十段に勝っていれば、18連勝していたというものすごさ。羽生の連勝はこれまで何度も見ているが、こんなに注目される中、強敵ばかりを相手に9連勝、10連勝と勝ち星を積み上げていく様子は空恐ろしささえ感じさせる。

 王将戦七番勝負が始まってから、テレビや新聞は連日のように、羽生の七冠なるかで大騒ぎである。一つ勝てば「マジック3」。二つ勝てば「七冠確率100%」。報道の仕方はとても公正とはいえないが、今回の王将戦は、もはや単なる将棋界のイベントからかけ離れたものになっている。

(中略)

 2月13日。王将戦第4局が行われたのは、山口県豊浦町の「マリンピアくろいホテル」だ。マリンピアくろいは、下関から少し日本海よりに向かったところにある総合海洋レジャー施設である。

 第2局、第3局と、やや控え目だったマスコミの報道陣が(といっても、50人以上は集まっていた)今日から大幅に増えてくることは当然予想された。

 前期の王将戦と今期の王将戦ではマスコミの報道姿勢も微妙に違う。羽生が畠田さんとの結婚式を控えているという事情もあって注目度はさらに上がった感じだ。前回はただ周りの騒ぎにつられて取材に来たというマスコミも多かったが、今回はある程度七冠王の価値を認識した上で取材に来ているところが多い。将棋界の知名度アップを考えた時、羽生フィーバーの果たした役割は計り知れないほど大きい。

 13日朝の衛星放送を見て、それから現地に向かう。羽生は前日38度の熱を出し、予定より遅れて現地入りしたという。10日に松山で行われた棋王戦第1局の時に風邪をひいたらしい。テレビを見ると、だるそうな顔の羽生がしきりに鼻をかむ様子が映る。戦型は横歩取り△3三角。なにやら波乱含みの立ち上がりである。

(中略)

 夕刻が近づき、形勢ははっきり傾いた。5図の△3三香がほとんど最後の決め手である。

 控え室には内藤國雄九段と青野照市九段も現れた。テレビカメラにつかまった内藤九段が七冠の価値について聞かれ、「今後二度と出ないということ。自分が生きている間に見られるとは思わなかった」と答える。関係者も改めて納得する。

 ついにその時は来た。午後5時6分。谷川が投了し、史上初の七冠王が誕生したのである。

 対局室に入る。青白い顔で髪の毛がぼさぼさの羽生と、少し赤い顔をしながら、それでもきちんと居ずまいをただした谷川がそこにいた。羽生の声は鼻声だが、しっかりしている。谷川も悪びれずに丁寧な検討を行う。しばらくすると何十人ものカメラマンが入ってきて、それこそ戦争のような騒ぎが始まった。

 最後に両対局者の感想をまとめておく。

 羽生「急戦調になったんですが、お互いに動かす駒が難しかった。風邪をひいたのは自分の不注意です。2日目はかなり楽になりました。シリーズを通して自分自身の力はかなり出せたと思っています。七冠は一つの大きな目標だったので、達成できて嬉しい」

谷川「▲6九玉型は研究会で一度やったこともあって試してみたんですが、▲2五桂が急ぎすぎというかまずかった。今シリーズは全体に内容が悪すぎました。せっかく注目してもらったのに、ファンの方にも羽生さんにも申し訳ないと思っています。(不調ですかと聞かれ)、不調といわれている間になんとかしないと」

(以下略)

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「驚いた。羽生がどうにも負けなくなってしまったのだ。王将戦だけではない。棋王戦も勝ち、全日本プロも勝ち、NHK杯も勝ち、早指し戦も勝ち……」

羽生善治六冠(当時)は、七冠を獲得するとともに、NHK杯戦、早指し戦で優勝することとなる。

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「昨年の11月8日、竜王戦第3局で佐藤康光七段に敗れて以降、この2月10日の棋王戦第1局までの成績が17勝1敗!もし王将リーグで中原永世十段に勝っていれば、18連勝していたというものすごさ」

この王将戦第4局直前までの1995年度の羽生六冠の戦績は39勝7敗(.848)。(「将棋連盟 棋士別成績一覧」のデータによる)

黒星は、名人戦(対森下卓八段)の1敗、王位戦(対郷田真隆六段)の2敗、竜王戦(対佐藤康光七段)の2敗、日本シリーズ(対森内俊之八段)の1敗、王将リーグ戦(対中原誠永世十段)の1敗だけ。

勝ち星は名人戦の4勝、棋聖戦の3勝、王位戦の4勝、王座戦の3勝、竜王戦の4勝、王将戦の3勝、棋王戦の1勝。(タイトル戦で22勝)

王将リーグ戦で5勝、全日本プロで3勝、NHK杯戦で3勝、早指し戦で5勝、勝ち抜き戦で1勝。(タイトル戦以外で17勝)

タイトル戦では22勝5敗(.815)、タイトル戦以外では17勝1敗(.944)

七冠を獲得するには、勝率の圧倒的な勢いの良さが必要であることがわかる。

あらためて計算してみたわけだが、すごい。

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「前期の王将戦と今期の王将戦ではマスコミの報道姿勢も微妙に違う。羽生が畠田さんとの結婚式を控えているという事情もあって注目度はさらに上がった感じだ」

団鬼六さんも、近代将棋1996年4月号で、

 そして、今回、遂に念願を達成、来月、挙式を迎える事となると、むしろ、昨年、七冠王を逃し、今期、宿願を達成させた事の方がドラマチックで結婚式に見事な華を添えた事になる。わずか25歳で彼のような幸運に恵まれた人間というものはほかに例を知らない。羽生という百年に一人の天賦の才能は神の作ったものであり、その神の作った運命変化表の幸運の部分に現在、針がぴったり合致したのじゃないかと思われる。

と書いている。

1995年に直線的に七冠を達成しているよりも、1996年の七冠達成のほうがいかに劇的であったかが分かる。

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「将棋界の知名度アップを考えた時、羽生フィーバーの果たした役割は計り知れないほど大きい」

将棋界の知名度アップという点では、羽生七冠誕生は、将棋の歴史420年の中で見ても1番のニュースだったと思う。

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「羽生は前日38度の熱を出し、予定より遅れて現地入りしたという。10日に松山で行われた棋王戦第1局の時に風邪をひいたらしい。テレビを見ると、だるそうな顔の羽生がしきりに鼻をかむ様子が映る」

多くの取材陣が集まり、世の中が注目している大勝負の中の38度の熱。

このような環境下で勝ったのだから、やはりすごい。

当時の写真を見ると、1日目の体調が良くなさそうな雰囲気が現れている。

将棋世界1996年4月号より、撮影は弦巻勝さん。

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「今シリーズは全体に内容が悪すぎました。せっかく注目してもらったのに、ファンの方にも羽生さんにも申し訳ないと思っています」

谷川浩司九段には、勝負が終わった直後の名言が多いが、この言葉も心を打つ名言。

谷川九段は、この翌期から復活の狼煙を上げはじめ竜王位を奪取、さらにその翌期には名人位を奪取し、十七世名人の資格を得ている。

竜王戦第4局。将棋世界1996年4月号より、撮影は弦巻勝さん。

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将棋マガジン1996年4月号、中野隆義さんの「七冠王誕生の瞬間」より。

 東京将棋会館の3階事務所にある手合課には、王将戦第4局の棋譜が現地から逐一送られてきます。また、4階の「桂の間」には衛星放送が入っていて、そこには自然に棋士の輪が生まれます。

 輪の中心は、中原永世十段と村山八段。忌憚のない意見をびしびし言ってくれますので取材をする側は大助かりです。

 谷川が▲6九玉から▲5九金という、いわゆる中原流と呼ばれている王様の囲い方をしたのには驚きました。なにしろ本家本元の中原永世十段が隣にいるのですから、どんな意見が聞けるのかと記者は耳をそばだてました。

 谷川の▲1七桂から攻めを目指した構想は「ここで▲1七桂はさすがにボクでも跳ねないよ(中原)」と、残念ながらはなはだ評判が宜しくありません。桂使いの名手である中原流のお墨付きをもらえないのではマズイのかなと思っていると、実際、局面が進むに従って谷川側が徐々に苦しくなって行きます。

「△6四桂を見落としたんでしょう(村山)」という。▲2五飛の一手が出て、谷川の非勢は決定的になってしまいました。

「これじゃ、ボクの戦法が悪い指し方だと思われちゃうよね(中原)」

 終局は、午後5時6分。桂の間に居合わせた棋士や記者らは、谷川投了の場面を衛星放送の画面で見つめながら、谷川の将棋のできが悪かったことを残念がっていました。

 午後6時半から始まった連盟2階道場での大盤解説会には、それこそ道場の床が抜けるのではないかと思うほどファンの皆さんが集まってくれました。その数、215名。勝負の結果はニュースなどで既にご存知のはずですが、皆さん熱心に石田九段の解説に聞き入っていました。

「これほど早く時代の波が押し寄せるとは正直思わなかった。しかし、谷川さんは今回負けたけれども、ここから巻き返すことができれば大したものです」と、石田九段。

 ファンの皆さんも、七冠達成後の羽生のますますの活躍はもちろん、谷川の巻き返しにも期待しているに違いありません。

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午後5時6分に終局し、午後6時半から開始された大盤解説会。

号外などで結果を既に知っていた人もかなりの割合でいただろうが、七冠誕生となると、対局が終わっていてもいなくても、この日の大盤解説会には多くの人が集まるのは自然な流れだと思う。

このような歴史的な時に、将棋連盟の解説会場にいるということは、本当に良い思い出になったことだろう。

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「ここで▲1七桂はさすがにボクでも跳ねないよ」

桂使いの名人である中原誠十六世名人。

「これじゃ、ボクの戦法が悪い指し方だと思われちゃうよね」

これは中原囲いのこと。中原十六世名人らしいユーモア溢れる発言だ。

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将棋世界1996年4月号、羽生善治七冠(当時)の第45期王将戦七番勝負第4局自戦記〔対 谷川浩司王将〕「七冠を決めた一局」より。

 昨年の12月18日、王将リーグ最終日に挑戦が決まったのは、非常にうれしいことでした。というのは、ちょうど10年前の12月18日が、四段に昇段した日だからです。

 再び大きな節目の七冠に挑戦できることになりましたが、昨年と違ってかなり期間があったので疲れもとれ、いい状態で第1局に臨めました。

 先手番の将棋を落とさないようにと考えていたので、振り駒で先手になったときは、この1局目が非常に大きいと感じました。その意味で、一番指し慣れている矢倉を選びました。第2局は、後手番なので思い切って、勝率はそれほどよくない四間飛車に。振り飛車は必ずどこかで指そうと思っていました。そして第3局は、リードしたので矢倉で、とも考えましたが、守りの姿勢にならないようにひねり飛車で大きな逆転勝ち。

 予想外の3連勝で、第4局を迎えました。

 本局は、横歩取りを選びました。最近はあまり指していないのですが、小学生の頃にも数多く指していた、一手一手が激しい、一番好きな戦法です。

(中略)

 5図辺りから勝ちを意識しましたが、終局までは、一秒一秒がかなり長く感じられました。

 本局は、手数は短いのですが、封じ手の△3四飛から△2四歩までの20手くらいが一番の勝負所でした。

 ▲2五飛か▲2四飛か、あるいは▲4五角か▲4五桂かという様々な選択の中で、本譜は先手がよくない手順を選んでしまいました。

 しかし、▲2五桂で▲2四歩なら逆に先手の会心譜が生まれ、空中戦に対する先手の決定版になる可能性もあります。指す手が非常に限定されているので、後手が工夫するのは難しいのです。もしかすると、この一局以降、空中戦が指されなくなるかもしれません。

 七冠は、この3年くらいの目標でした。もっとも、現実になるとはほとんど思っていませんでしたが。この王将位が七冠目ですが、19歳のときから6年をかけて一つ一つタイトルを取ってきて、今、七冠という一つの形になりました。ここまできたんだな、というのが今の正直な気持ちです。

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「王将リーグ最終日に挑戦が決まったのは、非常にうれしいことでした。というのは、ちょうど10年前の12月18日が、四段に昇段した日だからです」

なるほど、誕生日以外のこのような記念日があるのはとても素晴らしいことで、人生の枠が広がるような感じがする。

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「七冠は、この3年くらいの目標でした。もっとも、現実になるとはほとんど思っていませんでしたが。この王将位が七冠目ですが、19歳のときから6年をかけて一つ一つタイトルを取ってきて、今、七冠という一つの形になりました。ここまできたんだな、というのが今の正直な気持ちです」

ギラギラと燃え上がるのではなく、明鏡止水という言葉を思わせるような、七冠を達成しての羽生七冠の率直な気持ち。

ひとつひとつ非常に険しい山を登って、7つ目の山を登りきった時の、羽生七冠にしか見ることのできない光景が、目の前に広がっていたのだろう。

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☆羽生七冠インタビュー

羽生善治七冠(当時)「一局二局やるとこっちの調子の悪いのが相手にうつるんじゃないかという気がしているんです」

羽生善治七冠(当時)「自分は負ける時は大差になることが多いので後遺症がないということが大きいかもしれませんね」

羽生善治七冠(当時)「15歳ぐらいの私なら経験の差で、何とかあしらえると思うんですけど(笑)」