「佐藤康光という男」

将棋世界1990年9月号、鈴木宏彦さんのインタビュー「漂う大物感 佐藤康光という男」より。

 19歳の羽生が竜王に就いたのは、昨年12月。18歳の屋敷が棋聖戦で2期連続挑戦という快挙を見せたのが、今年の6月。

 チャイルドブランド達の勢いは止まらない。いや、むしろこれからが彼らの活躍の本番だという声もある。

 6月29日。第31期王位戦の挑戦者として、20歳の佐藤康光五段が名乗りをあげた。名乗りをあげただけではない。7月12、13日に行われた第1局では、その佐藤が谷川王位に対し、快勝してしまったのだ。

 居飛車一筋。定跡を丹念に掘り下げて行く序盤戦。長考を好み、また秒読みを苦にしない集中力。佐藤将棋のイメージは、他のチャイルドブランド達とはかなり違っている。

 王位戦第2局を6日後に控えた7月17日、いま注目の佐藤康光五段にインタビュー。

―初めてのタイトル戦。1局目の印象はいかがでした。

佐藤 緊張しました。すごい歓迎をされて、自分が偉くなったような錯覚をしました。

―その緊張感の中で、いきなり快勝。

佐藤 いえ、将棋は谷川先生の変調に助けられたというか・・・。でも、1勝できたので、とりあえずほっとしました。

―食べ物とか、お酒は。

佐藤 食べ物はなんでも大丈夫です。へびでもなんでも(笑)。お酒は、対局の前には飲まないと決めました。対局が終われば、少しだけ。

(中略)

 小柄、物腰が柔らかく、もの静か。それでいて、いざとなったときの意志表示ははっきりしている。自分に対しても将棋に対しても、妥協はしない。米長王将はその風采を「塚田正夫先生の若いころに似ている」といった。どこかに、大物の風格が漂う・・・。

 佐藤康光五段は、昭和44年10月1日、名古屋市の生まれ。当時、一家は東京の調布に住んでいたが、母親の節子さんが、名古屋で里帰り出産をしたのだ。

 佐藤五段が6歳のときに父親の秀夫さんの転勤で一家そろって京都に移り、中学2年のときに、再び東京に戻ってきた。将棋年鑑に「京都生まれ」となっているのは、「京都出身」とする方が正しいようだ。

 現在は両親と弟(高校3年生)、妹(中学1年生)の5人で、東京の多摩市に住んでいる。

―将棋を覚えたのは。

佐藤 京都に移ってからですね。小学校1年生のとき。友達が指していたのを見て、自然に覚えたらしい。家族はほとんど指さないんです。近所の公民館で少し指したりしていて、小学4年のとき、田中魁秀先生のところに初めて行きました。京都の八幡市から大阪の枚方まで、わりと近いんです。初めて田中先生のところに行ったときに、福崎先生に教わった。確か二枚落ちで負かされて「4級くらいやな」といわれました。福崎先生は四段になったばかり。それから奨励会にはいるまで、毎週土、日に教室に通いました。

―佐藤さんのご両親は「小さいときは、なんでもやりたいことをやらす」という方針なんですよね。

佐藤 母親がそうなんです。でも、やったのは、結局バイオリンと将棋だけ。バイオリンは4歳から中学1年まで習ってました。それだけやれば、何か弾けるだろうといわれるんですけど、本当にへたなんです。将棋と違って、あまり好きじゃなかったから。妹が習ってるんで、最近、また練習してますけど、妹の方がずっとうまい。

(中略)

「将棋が好きだから、なんとなく入ってみた」というのが、佐藤の奨励会生活のスタートだった。あまり好きでなかったバイオリンの練習から離れるため、という理由もあったかもしれない。だが、のんびりムードで入った奨励会は、佐藤少年が考えていたような甘い世界ではなかった。

佐藤 みんなすごく真剣に戦っているから驚きました。関西の奨励会は礼儀作法にも厳しかった。プロ意識というか、競争心が目覚めたのは奨励会に入ってからですね。奨励会2級のときに、父の転勤で東京に戻ることになって、関東奨励会に移ったんですが、こっちでは、記録の奨励会員が対局前に盤や駒を磨かないんでびっくりしました。

―それとライバルが多いのにも驚いた。

佐藤 そうですね。羽生、森内、小倉、先崎、郷田・・・。みんな強いし、刺激を受けました。

 佐藤が関西奨励会から関東奨励会に移るとき、当時関西奨励会幹事だった東六段と森五段が「将来の名人候補が東京に行ってしまう」と嘆いた話は有名だ。

 礼儀作法にはうるさいが、家族的ムードの関西奨励会。自由はあるが、弱者は厳しく切り捨てられる関東奨励会。東、森両幹事の嘆きももっともだが、両方の奨励会生活を経験したことは、棋士・佐藤にとって、大きなプラスになったに違いない。

―東京に移ってきて、勉強方法や生活が変わりましたか。

佐藤 研究会に参加して、実戦を指す機会が増えました。関西では研究会はあまりやらないんです。最初は秋山君、羽生君、小倉君と。それから室岡さんに誘われて、先崎君や、郷田君と。室岡さんには随分長く教わっているし、理詰めな考え方など、影響を受けているかも知れません。今は一人でも研究しますが、奨励会のときは研究会がほとんどでしたね。詰将棋はそこそこ。図巧・無双は図巧の方だけ詰ませました。研究会、今も行っていますよ。月に5、6回は。島先生のところ。それから塚田先生、青野先生、米長道場、室岡さん、櫛田さん・・・。

(中略)

「佐藤君の将棋は、有吉先生や青野八段のような学究肌」というのは、羽生や佐藤、森内らを奨励会のころから目をつけて研究会を行なっていた島前竜王。

 居飛車一筋。自ら「序盤作戦を考えるのが好き」といい、序盤の長考や終盤の秒読みを苦にしない佐藤は、勝負師タイプの多いチャイルドブランドの中にあって、珍しい正統派である。

 羽生の強さを「恐るべき勝負術」とするなら、佐藤の強さは、「恐るべき正確さ」。佐藤を負かすには、正面から佐藤に読み勝つしかない。みんな、彼と対戦するのは「疲れる」という。

(中略)

 嫌だ、嫌だと思っていると、その嫌なことがしつこく追いかけ回して来ることがある。僕にとっては、学生時代の数学の試験がそうだった。あの苦しみから15年以上たつのに、いまだにときどき夢を見てうなされる。

 自分と谷川王位のレベルを同じように考えてはいけないが、ひょっとしたら、王位も最近夢でうなされることがあるんじゃないかと思う。

 谷川王位の嫌いなものといえば、一に子供、二に入玉、三、四がなくて、五にエビカニだ。

 この前の名人戦第3局。谷川は入玉好きの中原に入玉をちらつかされて逆転負けを食った。

 あの一番が名人戦全体の流れに及ぼした影響は、決して小さくはなかっただろう。

 そして、今度の王位戦。挑戦者には、弱冠20歳の新鋭、佐藤康光五段の登場だ。前門の入玉、後門の子供。なんだか少しも怖くなさそうな敵なのだが、谷川にとってはそうではない。

「羽生の次は佐藤」という声はかなり以前からあった。今度の王位戦でも、谷川の防衛を「予想」する声よりも「期待」する声の方が多くなっているような気がする。谷川にとって、これはもはや必死の戦いである。

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この期の王位戦は、谷川浩司王位(当時)が4勝3敗で防衛している。

谷川王位の嫌いなもの、「一に子供、二に入玉、三、四がなくて、五にエビカニ」の”子供”とは、当時のチャイルドブランドのこと。

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佐藤康光王将が京都府八幡市出身であることはよく知られているが、名古屋で生まれて5歳まで東京で育ったことは、私もこのインタビューを見て初めて知った。

「食べ物はなんでも大丈夫です。へびでもなんでも」というのは、羽生善治竜王(当時)を意識してのことかもしれない。

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佐藤康光王将の奨励会時代に関する過去のブログ記事。

佐藤康光九段の入門時代

佐藤康光九段を語った名文