森下卓少年の入門将棋

将棋マガジン1990年2月号、森下卓六段(当時)の「リレーエッセイ 忘れ得ぬ局面 忘れたい局面」より。

 昭和53年、1978年、いまを遡ること12年の昔です。

 昭和41年に北九州は小倉に誕生して、昭和53年までの12年間、小倉の田舎で平凡な子供時代を過ごしていた私に、大転換期が訪れました。

 私の子供時代は北九州市小倉南区下曽根という、海近し、山近し、その他諸々の自然にも恵まれているという、実に素晴らしい土地で、楽しく自由に伸び伸びと育ちました。

 いま思い返してみても、最高の子供時代だったと、運の良さに感謝する思いです。

 また周囲の人々や友達にもこの上なく恵まれ全く最高の環境でした。

 もっとも、あまりにも恵まれ過ぎていたので現在に至ってすっかり人間が甘くなってしまった、のかもしれません。

 こうして恵まれた子供時代を送っていた私が将棋を覚えたのは、昭和52年の正月、曽根小学校4年のときでした。

 父から手ほどきを受けたのがキッカケで、弟も一緒に覚えました。

 弟はあまり興味を示さなかったのですが、私は友達と指して遊んでいました。 そうこうしているうちに、近くに将棋クラブを見つけたので、ものは試しと行ってみることにしました。

 しかし子供一人、行った私も私ですが、行かせた親も親でした。

 もっとも私は、六つ、七つの頃から小倉の繁華街によく一人で遊びに行ったりして、なかなか要領の良い子だったので、そういった安心感はあったかもしれません。

 とにかく父から将棋の手ほどきを受け、この曽根将棋クラブに通ったことから、それまでの子供時代に別れをつげる大転機となったのでした。

 この曽根将棋クラブの席主が下村穣先生で、最高の先生でした。下村先生に基本をミッチリと仕込まれたお蔭で、いまの私があると思っています。

 ここでも要所、要所で人に恵まれるという、私の幸運に、全くついていると思います。

 ここで腕を磨いて、そうこうしているうち、昭和53年4月に上京して、小学生名人戦に出場しました。

 予選はくぐり抜けたのですが、一回戦で吉田圭吾君に負けて敗退。吉田君はこのときの名人になりました。この吉田君とは後日談があり、奨励会入会試験の一局で当たったのです。さて結果は?

 じつは小学生名人戦で、四位以内、すなわちテレビ出演ができなければ将棋をやめるという約束だったのですが、うやむやになってしまいました。機縁とは面白いものです。

 しかし、この小学生名人戦で負けて、新幹線で小倉に帰るときの気持ちは、いまでもハッキリと覚えています。

 この小学生名人戦のあとは、福岡の子供名人戦に出場しました。

 この大会ではスイスイと勝って決勝戦までゆき、優勝だと思っていたところ、林葉直子五年生、現在の林葉直子女流王将に負けてしまいました。

 これがケチのつきはじめか、以来準優勝ばかり。困ったものです。

 昭和53年から12年、年男の今年こそは優勝したいものです。

 さて、またそうこうしているうち、奨励会に入ればどうかという意見が回りから出ました。両親も私も将棋にプロがいるということさえ知らなかったのです。

 しかし、これもなんだかんだで入会試験を受けてみようということになりました。

 まずは師匠ということで、花村元司先生に頼むことになりました。ここでも最高の師匠に恵まれるという幸運にあったわけです。

 入門試験を広島市の高木達夫さん宅で指すことになりました。高木さんは将棋界に幅広く貢献された方で、私も大変お世話になった恩人です。

 さて、試験将棋は当然駒落ちと思っていたところ、平手だったのでビックリ。

 図を見て下さい。

森下入門将棋1

上図から駒を繰り替えた局面が下図です。

森下入門将棋2

 結果はもちろん私の負けですが、図の後手陣、花村先生の陣立てが実に印象に残りました。これは良い戦法だ、使えるなと。なかなか敏い子供でもあったようです。

 そしていよいよ入会試験。第一局目の相手はなんとあの吉田圭吾君。図の花村流作戦で快勝。忘れられないゆえんです。

 結局5勝1敗で入会試験に合格。

 めでたし、めでたしというところですが、両親はビックリ。実はこの試験を受けて将棋をやめるという約束がまたあり、受かるなどということは考えてもいなかったのです。

 それが受かったというので大さわぎです。上京して棋士への道を進むべきか、どうすべきかさんざんもめたようです。

 結局、祖母が後見人として一緒に上京してくれることになり、棋士を目指すことになったのです。

 祖母はこのときすでに70歳。安楽に老後を過ごしていた日々を捨て、一緒に上京してくれた心意気には、頭の下がる思いです。

 当の私といえば、奨励会に入会できたことよりも、上京できたことのほうが嬉しかったのですから、困ったものです。

 子供のときから小倉の繁華街に遊びに行っていた私は、いつかは東京に、というのが夢でした。それが将棋で夢がかない、全く嬉しい限りでした。

 しかし、そんな浮いた気持ちも長くは続かず入会一日目でいきなり3連敗。5勝1敗の好成績で入っただけに、ショックも大。半年は全く勝てませんでした。

 両親ははやくやめて帰ってこいと思っていたようですが、当然でしょう。負けてばかりなのですから。しかし、花村先生や祖母、周囲の方々のお蔭で続けることができ、昭和58年9月21日に四段になることができました。以来、棋士になって今年で7年。大転機であった昭和53年から一周して12年。そして今年は年男と区切りの年です。

 しかも昨年は平成元年、本年は1990年と時代の変わり目でもあります。

 この面白そうな一年、タップリと楽しんでみたいと思っています。

 果たしてどうなることやら?楽しみです。

—–

故・花村元司九段が森下卓九段の少年時代に1000番以上の稽古を付けたことはあまりにも有名な話だ。

弟子入り直前とはいえ、第1局目がここで紹介されている一局。

花村九段の振り飛車は、左金が▲6七(△4三)に上がっていることが多かった。

花村門下では、窪田義行六段の振り飛車の妖しげな金の動きなどが、”妖刀”と呼ばれた花村九段の雰囲気を伝えている。

—–

上図の花村九段の囲いは銀冠付き片美濃。固いことこの上ない。

銀冠付き美濃囲いを初めに指したのは、振り飛車名人の故・大野源一九段。

昭和20年代の対塚田正夫八段戦(当時)でこの囲いが現れている。

銀冠付き木村美濃(=銀冠)ではなく銀冠付き美濃囲いであるところが、美濃囲い好きな大野九段らしい。

—–

森下少年が入門将棋を指したのが、広島の高木達夫さん宅。

この高木達夫さんこそ、戦後、広島で大親分だった故・高木達夫さんだ。(この頃は既に親分を引退していた)

私とバトルロイヤル風間さんが2009年の将棋ペンクラブ大賞文芸部門優秀賞を受賞した『広島の親分』の主人公となる人。

やや長編ですが、お時間のある時にご覧ください。

広島の親分