将棋世界1993年3月号、産経新聞論説委員の石井英夫さんのエッセイ「夜のライバル名人戦」より。
中原名人と米長九段といえば、現代最高のライバル棋士であることは衆目の一致するところ、その二人が昨年暮れのある夕べ、同じ盤上ならぬ壇上で激突したことがある。
ときは1992年12月10日、ところは東京・大手町のサンケイホール。
じつは、私が執筆している産経新聞のコラム「産経抄」が、思いがけなくも第40回菊池寛賞を頂戴した。まさに青天のヘキレキ、寝耳に水の珍事だが、それはともかく、日ごろご支援いただいた方々をお招きして「感謝の夕べ」を催した。中原、米長両先生がそれにご出席下さったのである。
自分でいうのもナンだが、会場は500人近い方の盛況で、山本夏彦、秋山ちえ子、石原慎太郎、堺屋太一、加藤芳郎・・・といった各氏がスピーチをされ、中原・米長両先生には同時に壇上に上がっていただいた。
中原名人はこんなぐあいである。「石井さんは将棋好きらしく、論説委員室では原稿を書いていない時は将棋を指しているらしい。ところが私はこの人が将棋を指しているところは見たことがない。見ているのは新宿のさる酒場で酔っぱらっているところだけです」。
くさるなァと思わせて、さすがに中原名人は情に細やかな人格者らしくフォローを入れた。
「考えてみれば菊池寛という方は、すこぶる将棋がお好きだった。むろん年代からして私はお会いしたことはありませんが、その菊池寛ゆかりの賞を頂いたのだから、私にとってもまことにうれしいことであります」。
名人はみごとな”寄せ”で、救って下さった。
そう、『父帰る』や『忠直卿行状記』などで知られ、芥川賞・直木賞の生みの親である菊池寛の将棋好きは有名である。
明治末期の京大生時代、孤独の唯一のなぐさみが将棋だったのだそうだ。というのも、高松中学時代の仲間で、同じ京大法科に進んだ綾部健太郎(のちの鉄建公団総裁)と指して一度も勝てなかったために発憤し、定跡の本を買って研究した。出町橋東詰の将棋好きの床屋(佐野春松氏)に出入りして腕を磨いたともいう。
のちに文藝春秋の社長になったとき、これでは仕事の能率が上がらないからと、社内の将棋盤とピンポン台をぜんぶ片づけさせた。ところがそれで一番困ったのがほかならぬ菊池寛自身で、たちまち元通りにさせたというエピソードが残っている。
中原名人はそのことをいったのだった。
一方、米長九段のスピーチは、例によって爽やかにして、辛らつなのである。
「新聞の将棋欄というところは、ぼくら棋士が疑問手を指すとまるでボロクソにいうんです。ところが新聞は、自分の過ちはなかなか認めたがらない悪いクセがある。王様が詰んでいるのに”負けました”といわないのであります。10年前の夏、教科書誤報騒動というのがおき、”侵略”を”進出”と書き改めさせたというキャンペーンをして、全国のあらゆる新聞が間違いを書いた。そのときどきの新聞もその誤報を”負けました”と謝らなかったが、ひとり産経だけは”間違っていました”といった。どうかその姿勢をこれからも貫いてほしいものであります」。
まことにワサビの効いた鋭い新聞批判に、会場はわっとわき、そしてしゅんとなった。
そこまではよかった。それからである、ハプニングが起きたのは。そこで司会者(ニッポン放送の塚越アナ)が「ありがとうございました」と締めようとしたので「ちょっと、待ってくれ」。私は米長九段ノマイクを奪って、いどぎ申し上げた。
「えー、来春の名人戦でお二人はたぶん死闘を演じられるでありましょう。しかしご両者はいまもう一つの激しい戦いをたたかっている。それはさきほど中原名人のお話にも出てまいりました新宿のさる酒場の美人ママをめぐる激闘であります」。
実をいうと会場にはその酒場「A」のママ「Y子」さんもお招きしてあった。むろん三人ともに何も話してない。
「Aのママさん、いらっしゃいますか。ご足労ですがどうかここへ来て頂けませんか。どちらを選ばれるか、告白して頂きたい」。
ママY子さんは真っ赤な顔で壇の近くまで現れたが、とっさに花束を手にしてきたのはプロというべきだろう。
「ひどいじゃない、いきなり、こんなことってある!?」。ママは美しい顔を上気させて抗議したが、知ったことか。
そのとき中原、米長両先生の目は険しく輝き、敵意と競争心をむきだしに光り出したことは言うまでもない。
さて、ママが手にした花束は壇上でお二人のうちのどちらの腕に渡されたか。それはあえて明かさない。つまびらかにしない。私だってウラミは買いたくないからである。
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新宿の酒場「A」は、新宿2丁目にあった「あり」のことで、「ママのY子さん」は、「あり」の初代ママのこと。
私が「あり」へ行き始めたのは1996年のことなので、この出来事の3年後。
このパーティーの話は聞いたことがなかったが、ママならどちらに花を渡したか、私には分かるような感じがする。
・・・が、それは明かせない。