真夜中に来た真剣師(前編)

小池重明が最も苦手としていた真剣師。

その当時、将棋ジャーナル編集長だった湯川博士さんと、奥様で観戦記者の湯川恵子さんの二人の文章から浮かび上がる1979年の真剣師の世界。

ジュディ・オング「魅せられて」、松坂慶子「愛の水中花」、ピンクレディー「ピンク・タイフーン」、山口百恵「愛の嵐」、八代亜紀「舟歌」などが流行っていた頃の真剣師のノンフィクション物語。

近代将棋1997年5月号、湯川博士さんの「アマ強豪伝① 安嶋正敏」より。

 西武新宿駅前の路地にあった、将棋スナック・リスボンは、アマプロの棋客が集まる店で、毎晩にぎわっていた。私も週に二、三回は通っていた。将棋ジャーナルの編集という仕事柄、半分くらいの必然性があった。

 7月の終わりの暑い朝、取材のためリスボンへ行った。いつもはネオンの夜に行くので感じないが、朝の歌舞伎町は薄汚い。リスボンの狭く急な階段の入口には、まだ片付けていないゴミの袋があって、少々匂った。

 この日は小池重明と安嶋正敏の五番勝負。小池は二年ほど前に新宿に流れつき将棋渡世で凌いでいる仕事人。このときはまだ読売日本一戦で準優勝する前だったが、将棋連盟主催のアマプロ戦に出場し、プロを破って有名になっていた。しかしまだ彼の将棋の本質は一般には知られていなかった。

 安嶋にしても、よく全国大会で活躍する茨城のアマ強豪としか認識されていない。

 ところが一皮剥ぐと、ゾクッとする背景がある。この日の十日ほど前だったか編集室に安嶋がブラリと入ってきて、尻上がりの茨城弁でポツリと言った・・・。

 「オレ、小池さんと指したいんだけど~」

 話を聞いていた雑誌オーナーのセキさんは同郷の後輩のすべてを察したらしく、

 「そうかい・・・それで安嶋クン◯◯はどういうことになってんの。あ、そう。で、時間は指しきりかい・・・番勝負?」

 私はレイアウトをしながら聞き耳を立てていたが、試合の条件を聞いているようだった。

 なにしろアノ小池と将棋を指したいなんて穏やかじゃない。真剣の喧嘩を売りにきたようなもの。安嶋というのは、まん丸い童顔に眠そうな細い目がついた、朴訥な茨城弁をしゃべるお兄ちゃんで、イメージが狂った。

 小池と将棋を指したいといっても、そのへんの無邪気な将棋ファンが言うのとは訳が違う。一局一万円でもどうか。以前に小池と因縁のある安嶋が相手ともなれば、◯十万円と積まないと場が立たないかもしれない。そんな金を安嶋が持っているのか。私にはそこが、よく見えてこなかった。これはどうも安嶋一人の仕掛けではなさそうだな・・・。

 その晩、編集の仕事を終えてからセキさんとリスボンに行った。すでに連絡がつけられ真剣の関係者が揃っていた。

 「だってさ、一局いくらじゃたいしたことにならないでしょ。五番勝負で勝ち越したら、二十とか・・・さ」

 「安嶋にそんな金あるわけねえ」

 「例のジョージさんじゃないの」

 「たぶんそうだよ。最近、東北のほうを回って、皆ペロペロだったつうもの」

 カウンターの隅で、ジョッキを呷っていた小池がふいにしゃべりだす。

 「ジョージさんと安嶋クンか・・・どっちもオレの天敵なんだよな~アハハハ」

 一年前まで、小さな出版社に勤める身だった私は、裏社会の事情も少しは呑み込めてきたが、それもせいぜいリスボン周辺のみであまり詳しくない。事情を聞いてみるとここ数年、安嶋はジョージという得体の知れない男とつるみ、北関東から東北一帯を流して歩いているらしい。各地の仲間から、リスボンに事情が入ってくるそうだ。

 その流し具合だが、まず全国的に有名な安嶋が、地方の有力者のところへ行って、地元の強豪と手合わせをする。これは比較的簡単。

 「安嶋さんが相手じゃあ、倍層(千円対二千円のハンデ)にしてくださいよ」

 「三段と言っても私は弱いですから、飛車落ちか一丁半くらいでいかがですか?」

 そんなふうに納得づくでハンデを決めていく。それでも将棋は上手が有利に出来ているが、お客さんは一応満足できる。おそらく最悪でも分かれ(儲けなし)、良ければ安嶋が八-二くらいは勝つだろう。

 ところが本番は違うことにある。一見、安嶋の付き添いのようなジョージという男が 

 「観ていてもしょうがないから、一局指しますか?」

 と観客に持ちかける。こちらはまったくの無名だから、ハンデはあまり振らない。少額からだんだんエスカレートしていって、一局万単位になることもある。全国の将棋旦那の住所を持っていて、それを頼りに回っているというのだ。

 「オレは安嶋クンにスッキリ勝てないけどジョージさんはもっと嫌だなあ」

 裏の真剣社会で無敵を誇った小池だが、この二人には苦手意識を持っていた。

 関係者の雁首が揃ったころ、スナックのドアが開いて、安嶋が顔を見せた。ヤア、とか小さく呟き、チラと後ろを振り返る。一瞬間があってヌーッと男が入ってきた。黒い顔に、ニッと歯を見せ、精一杯の愛敬を振るった男が、噂のジョージだった。

 ここに集まっているのは、小池の後見人のフルさん、従兄の不動産屋のカッちゃん、観戦記担当のムラマツチャン、将棋浪人のミヤチャンなど、いずれもふつうの社会人よりは真剣の場慣れした連中だが、ジョージの不気味な笑顔には、一同ゾッとしたという。

 (安嶋クンよくあんな奴とつるんでるなあ)

 私は記録の用意をしながら、おせっかいにも安嶋の親友なる男を観察していた。

 ジョージは小池と条件について盛んに交渉している。ジョージ主張の一局いくらは止めることになり、小池主張の五番勝負取りきりに決まる。持ち時間だが、小池は五局トータルで五時間切れ負けを主張するが、ジョージは一局ずつ一時間で秒読み付きを主張し、これは絶対譲れない構え。

 真剣勝負の前哨戦だが、これも自分の土俵に持ち込む大事な戦いだ。結局、雑誌掲載上からも、ジョージ主張の条件で落ち着いた。記録係の私だが、誌面づくり上一局ずつの持ち時間がいいし、切れ負けでは棋譜が汚くなるので、ひとこと希望を述べた。そのとき、ジョージが私を見てニッと笑ったような気がした。なかなかのマネージャーぶりで、なるほど安嶋の信頼が厚いわけだ。

(つづく)

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その数日後の深夜の出来事。

将棋天国1979年10月号、湯川恵子さんの「将棋隊来客簿 真夜中に来た真剣師」より。

文中、必至=湯川博士さん、山田隆二郎=安嶋正敏さん、藤川=ジョージ(故・吉田穣児さん)。

 「真剣師」ということばを初めて耳にした時、何か知らない大人の世界をチラッと覗いたような不思議な刺激を受けたものだった。

 「振飛車英五郎」、「くすぶりの龍」などの真剣師を主人公にした小説を漁っては読んだ。そのたびに、金額のところなど(まっさかァ・・・)とは思いつつ、ヘンな興味に取りつかれていくのが自分でもよくわかった。

 そして、賭け将棋で日を暮らす人間が実際にいることを知ったのは、それから間もなくのことだった。

 Mさんは真剣師になり切らないで、この頃はプロ棋士の出版の代書をやっているような、将棋浪人である。いつか、彼に聞いてみた。

 「真剣師って、今、全国で何人ぐらいいるんでしょうか」

 大阪で7、8人、関東で12、3人、

 「僕が知ってるだけで、20人はいます」

 ひとりひとり名を上げて、Mさんは、その筋にかなりくわしいところを見せてくれた。この時、彼が関東のほうで数えた名前、山田隆二郎のことは、私も名前とその強さだけは何度もひとの話に聞いて知っていた。山田は近々東京で、某強豪と勝負をするらしいという噂がある。

   

 隅田川の花火を1週間後にひかえた晩、わが将棋隊のメンバー・大平柾目君の奥方はきていた。彼女、直子さんが浴衣の縫い方を教えてちょうだいと言ってわが家に通い始めたのはひと月前。毎度、縫い物半分、将棋半分でのんびりやっていたが、いよいよ花火が近づいたとあって、ぜひ間に合わせたい。この夜ばかりはまじめに針を動かしていた。風のある涼しい夜で、ウソのように時間が過ぎていく。12時も過ぎ、もう終電も出ちゃったからとあきらめて、徹夜で仕上げてしまうことにした。

 例によって必至隊長は、どこで飲んだくれているものか。まだ帰らない。

 夏の夜の空は、午前3時ともなるとうっすらと明けてくる。直子さんの浴衣が、あと衿つけだけ、という時、突然玄関の戸が騒々しく開いた。

 「あのサ、子供が寝てるから、ネ、シイーッ、シイーッ」

 と、必至の声。自分では声をひそめているつもりらしいが、酔っ払っているから、いつものことで家中にひびく。

 また誰か連れてきたんだわ、と、直子さんと目を見合わせていたら、ガタガタと部屋になだれ込んできた必至のうしろから、一見エチオピアのマラソン選手のような男がぬっと素足を踏み入れてきた。そのあとに、もう一人、ずんぐりとした重たそうな男が黙って立っていた。

 直子さんが、サッと身を隠すような仕草で反物を片づけ始めた。

 「珍客、珍客、オイ、お前知ってるだろ、こっちの人、ホラ」

 立っている男を引っ張りこむようにして、必至が一人ではしゃいでいる。男はまぁるい顔に黒ぶちの眼鏡をかけて、肥った腰のバンドの上にサラシの腹巻がのぞいて見える。この男も素足で、それはだんごのようにふくらんでいる。

 必至に引っ張りこまれて、ニコリともせずに口の中で「どうも」とつぶやいたまま立っている男を見て、私はいつもの連中とは違った匂い、を感じた。

 口先だけ愛想良く、こんばんはと言ってよぉーく見上げたが、初めての顔である。

 「だって、お前、一度でいいから真剣師とやってみたいって、そう言ってたじゃないか」

 シンケンシ、と聞いて、ギョッとした。一瞬、直子さんの手が止まったのがわかった。

 先に座ってあぐらをかいている男のほうは、齢は40ぐらいだろうか。いや、案外若いかもしれないけど、やせているが頑丈そうな体格で地黒なのか、垢じみているのか、おそらくその両方なのだろう、とにかく全体にうすら暗い。顔の表情がつかめない。ずんぐりのほうは両手をぶらりと下げて手ぶらだが、こっちのほうはひざの上で新書版の薄べったい本を一冊つかんでいる。この本のカバーも、茶色だか黒だか、ひどく汚れて湿っているように見える。

 二人とも、他に荷物らしいものは何も持っていない。

 一度でいいから真剣師と指してみたい、と、私は確かにそう思っていた。それはまず、将棋が強そうだからという気持ちと、何かもうひとつ、スカッとしたものを感じていたからである。

 私の思いえがいていた真剣師とは、振飛車英五郎のように「ボストンバッグひとつで・・・」旅を続けるようなカッコイイ男で、くすぶり龍のように、たった一人の年上の女に情熱を燃やす、そういう男であった。

 ところが今、目の前にいる二人の男は―。タオル一本も持たず、着のみ着のままどこからかやってきた。どこぞに大切な彼女がいるなどとはおよそ思えない。何より男二人連れというのが一番気味が悪い。

 二人の男を目の前にして、真剣師―と聞いた時、はじめて私は、真剣師ということばはそんなに良いことばではないんだなと思った。

 そうしてみると、彼等だって自分のことを面と向かって「真剣師」というように紹介されたのは、今がはじめてではなかろうか。私はヒヤッとして男達の顔色を伺ったが、二人とも苦笑だに見せる気配がなかった。

 「な、ほら、いつも言ってる人だよ」

 山田隆二郎―私はすぐにこの名を思い浮かべたが、目の前のだんごのような体つきと山田の名とが、どうしても現実に一緒にならなかった。が、東京で有名な強豪と勝負をするらしいとの噂を思い出し、あきらめるような気分になって言った。

 「じゃ、あの、山田さん・・・ですか」

 「そ、これがあの、鬼の山田。この人」

 必至は私の反応を楽しむように、オニの山田、オニ、とくり返した。

 直子さんはその場から逃れるように、お茶の支度を始めていた。

 「お前、やってみな。せっかくのチャンスなんだから、一局教えて頂きなさいよ。あのね、山田さんは大事な勝負をひかえているんだから、こっちの藤川さんに教えてもらいな。ま、二枚落ちってとこかしら、ね、藤川さん」

 藤川、という名には思いあたるものはなかった。

 「でも。もう夜が明けますから・・・」

 私が言うと、藤川と呼ばれた男がはじめて口をきいた。

 「いやぁ、かまいませんよ。しかし、ウワサによると奥さんも相当な指し手らしいから、二枚じゃこっちが悪いでしょうねェ」

 夜が明けますからと言ったのを、遠慮しているとでも感違いしたのかも知れない。意外に高い声で、ちょっと聞き慣れないなまりがあった。

 いったい、どこから来たどういう男なのか。

 彼等の寝る場所や、朝の食事のことやで私は非常にうっとうしい気分になっていたが、目の前に盤が置かれ、藤川が慣れ切った仕草で飛車と角を引いた時には、エイどうにでもなれと座り直した。直子さんはひっそりと私に隠れるようにして、きっと始発電車の時刻を心待ちにしているに違いない。この時のことを彼女は、あとで、「私、恐かった。ああいう種類の人を見たの、はじめて。何しにお宅へ来たの」

 と言ったものだ。何をしに来たのか、わからなかったから、私だって恐かった。

   

 将棋は、上手が5五歩位取りできた。二枚落ちには下手二歩突き定跡と銀多伝とあるが、そのどちらにも組ませたくない時、上手は早くに5五歩とつき出して位を取ってくる。これが下手にとって一番難しいと言われている。私は、たぶんそうくるだろうと思っていたから、ふるえなかった。(ヘン、小細工しやがって、二枚落ちだったら、私しゃホントはあんたなんかも思いつかないほど指してんだから、そんな歩、ちゃあんと取り方知ってんだから。)

 無事に終盤を迎えていた。正直言って、下手必勝形だったのである。どうやっても勝てるところまでいった。ところが、

 「ウーン、こんなところを放っといたら、とても危なくって指せないわ、これ」

 そう言って、藤川が虎の子の銀をベッタリと受けに使った時、その時から、どうも私はおかしくなった。

 直子さんはいつも間にかいなくなっていた。必至は勝手なもので、そこでゴロンと寝ている。山田は体を横にして、頭だけ盤上に向けて、時々しきりに首をかしげている。

 こんなところを放っておかなくたって、ダメなはずなのだ。こんな銀打ち、受けになっちゃいない。私は、プロ棋士とは数えきれないほど指している。しかし、この銀はまさに「プロなら指さない手」なのであった。

 私はダマされた。それ以後、完全に将棋の流れが変わっていったのが自分でもよくわかった。

 すっかり外が明るくなって、皆眠った。

   

 「きょうは何かご予定があるんですか」

 昼頃、食事中に必至が聞いた。

 「イヤ、別に・・・」

 藤川がおかわりの茶わんを差し出しながら、こともなげにそう言った。彼は起きた時のままのクシャクシャのステテコ姿である。

 山田は黙って食べている。しゃべるのはいつも藤川のほうで、藤川が山田を連れて歩ってる様子。

 (イヤ別にって―)私はこの時、改めてゾッとした。

 こういう話がある。

 某県のT氏という人は将棋も強いが大変太っ腹な世話好きで、旅の真剣師がしょっ中T氏宅に身を寄せる。そして、ある真剣師がある日ぶらりとT宅へやってきて、家が広いせいもあるが、だまって10日泊まって、またぶらりとどこかへ出ていった、と。

 この話を聞いた時、真剣師も真剣師であるが、T氏もT氏であるよと、必至と二人で笑ったものだった。しかし、このたびは笑っちゃいられない。同じような事件がわが身にふりかかろうとしている。確かにその気配がある。しかし、まさか、帰って下さいって言えるわけもない。

 「それじゃ、あしたの勝負までどうぞゆっくり過ごして下さい。なんだったら、隣町にも連盟の支部がありますから、そこの人に連絡して呼んでみましょうか」

 必至はサービスのつもりで気を使ったのかもしれないが、藤川は大しておもしろくもなさそうにうなずいた。私は、この上まだ誰か来るというやっかいな気分より、この男達はどうやら夕べと今夜の二晩限りらしいとわかって、ずい分安心したものだ。

 必至と藤川の話の様子から、いろいろ事情が飲み込めた。今回の目的は、山田とK氏の五番勝負で、藤川は、早い話が、山田の後見人(金主)なのであった。

 東京のK氏というのは、このところ負け知らずを誇る評判の強豪で、名を出せば多くの読者がうなずくことだろう。

 それにしても、ブカブカの半そでシャツ、垢じみたステテコからにょきっと骨ばった浅黒い手足を出して御飯を食べている藤川を見ると、ただの道楽金主ではないな、と私は思った。

(つづく)

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将棋ジャーナルは、日本アマチュア将棋連盟の機関誌で、アマ強豪同士の対戦、アマプロ戦などの尖った企画で、アマ強豪に強く支持された月刊誌だった。

私も20代前半の頃、書店で将棋ジャーナルを立ち読みしたことがあるのだが、めまいがするほどマニュアックな内容で、誌面からは妖しげなオーラが発散されていた。

将棋天国は、青森県上北郡おいらせ町にある将棋天国社が発行していた季刊誌。社主は後に大山将棋記念館を開設する棋道師範の中戸俊洋さん。

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真剣師は、1対1の勝負でお金を稼ぐこともあったが、最も大金が動くのは、それぞれに金主がつくケース。

旦那筋が、どちらが勝つかに賭けるものだ。

”小池重明が勝つ”に5万円を賭ける人が5人いた場合、”安嶋正敏が勝つ”に25万円用意しないと場が立たないということになる。

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将棋浪人のMさんというのは、後に「修羅の棋士―実録裏将棋界」や「真剣師小池重明疾風三十一番勝負」(団鬼六さんとの共著)を書く宮崎国夫さん。

宮崎さんは近代将棋で”新宿闇太郎”というペンネームも使っていた。

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湯川恵子さんは、この出来事の3年前の1976年に女流アマ名人になっている。その後、1981年、1984年、1987年、1988年にも女流アマ名人となり、女流アマ名人獲得回数5回は、女流アマ名人戦史上の最高記録となっている。