「林葉さん、あんたが心配だから、もう一度、握手してあげようと思ったの。早く元気出して、しっかりしなさいよ」

将棋世界1992年10月号、林葉直子女流五段(当時)の大山名人の想い出・追悼文「握手」より。

 8月7日、夢を見た。

 どこかのパーティー会場に、私は紛れ込んだようだった。

 知らない人、ばかりだった。

 なんで、私はこのパーティーに出席したのか、夢の中で必死に考えた。

 きっと、誰か知ってる人がいるはずだ。

 私は、その会場を見渡した。

 すると、白いスーツ姿に白いネクタイ姿の―見慣れた顔があった。

 その人を見つけたとき、私は息が詰まりそうになった。

 大山先生・・・・・・。

 本物か、どうか、遠くから目を皿のようにして見ていると、その人物は、私に気付きツカツカと歩み寄ってきた。

 間違いない、大山先生だ。

 死んでなかったんだ。

 私が涙声で、

 「先生、生きてたんですね!」

 というと、少しがっかりしたような困った顔で、

 「林葉さん、あんたが心配だから、もう一度、握手してあげようと思ったの。早く元気出して、しっかりしなさいよ」

 と、大山先生は、両手で包むようにして私の手を握りしめてくれた・・・。

 時間にしてどれぐらいだったのだろうか。

 私は、ここでハッとして目が覚めた。

 ベットの上で天井に手を向け、握手をする格好をしていた私・・・。

 夢だったのだ。

 でも―。

 私は、もう一度、自分の手を見直し、なぜだか、その手にぬくもりを感じられずにはいれなかった。

 大山先生が他界された、現実を認めたくない私の儚い夢。

 仕方のない事、そんな言葉で済ませられなかった。

 私にできることがあれば、何とかしてあげたかった。

 もしも生命を売買できるのなら、私の寿命を縮めてでも先生に長生きしてほしいと思った。

 たくさん、たくさん、将棋界のためにがんばってこられた大山先生。

 雲の上の手に届かぬ存在のお方だと知りつつ、キャアキャアいって、大山先生のお側に行き、握手して下さい、というとニコニコしながら握手してくれた。

 大山先生の袖飛車が好きなんです!というと、すぐ対局で使って、私を喜ばせてくれた。

 書き出すと、キリがない・・・。

 そして、涙も止まらない。

 大好きだった大山先生。

 7月に再入院された、ということを耳にし、すぐにお見舞いに行った。一度目は、4、5人の女流棋士と。そして二度目は、その三日後に岡山で買ったお花とお水をお見舞いに私、ひとりで行った。

 柏のがんセンターに移動される直前で病室では先生ひとりベッドの上に足を投げ出した格好でワイシャツのボタンを止めていた。

 「こんにちは」

 と、私が入って行くとニコリと微笑み、

 「あ、どうも、今から病院を変わることになったんだけど・・・」

 少し声が嗄れ、痩せていた。

 私がお見舞いの品の説明をすると、

 「ちっともよくならなくてネ。1週間なんにも食べてないの。お水ばっかり飲んでてね。どうもありがとう」

 大山先生はそれだけいうと、またワイシャツのボタンに手をかけた。

 私は、ちっともよくならない・・・という大山先生の声を聞き、目に涙が浮かんだ。大山先生の前だから、泣いちゃダメだと言い聞かせた私の唇はふるえた。

 「先生、頑張って下さい」

 精一杯、私が言える言葉だった。

 すると大山先生は私のほうを向き、

 「そうねぇ」

 と静かにうなずいた後、黙って何も言わずに、手を差し出して下さったのだった。

 最後の最後まで、私に握手をして喜ばせてくれよう、としてくれたのだ。

 「大山先生に握手していただくと、次の対局は勝てるんですよ!」

 そう言ってた私の事を想って下さったのである。

 忘れられない、一生忘れられない最後の握手となってしまった。

 大山先生ほど偉大で、素晴らしいお方にべぐり会え、一瞬でも、同じ空気を吸え一緒に仕事できたことを嬉しく思う。

 私は未だにお亡くなりになられたなんて信じられない。でも―。

 いつもせわしなく、将棋ファンのために動き回っていた大山先生は、今は、天国という別の世界に行ってお仕事しているのだと、思えてならない。

 今頃きっと、天国の高い所で、数人並べて指導対局してらっしゃることだろう。

 私もがんばります。大山先生。

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林葉直子女流五段(当時)はこの当時、1981年度に初タイトルを獲得して以来、初めての無冠となっていた。

しかし、1993年に創設された大山名人杯倉敷藤花戦で優勝、初代倉敷藤花の栄冠に輝いた。

倉敷藤花戦は、倉敷市出身の大山康晴十五世名人の功績をたたえ生まれた棋戦。

林葉直子女流五段の倉敷藤花戦に対する思いは、格別のものがあっただろう。

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将棋世界の前の号、大崎善生編集長(当時)の編集後記より。

 大山十五世名人が亡くなられた。7月26日、午後10時45分、肝臓癌による肝不全であった。

 今月の日本シリーズ女流観戦記の原稿は、林葉五段に依頼していた。当日、岡山の会場から編集部に電話が入り、とても書く気力が湧かないという。これは、責任感の強い彼女にとっては異例中の異例のことである。岡山へ行く前日、名人の所へお見舞いに行き、その容体の悪さに、強いショックを受けたらしい。明日、仕事で岡山へ行くというと、あの名人がとてもうらやましそうにしていたと、彼女は涙声であった。

 体に流れる燃えたぎるような勝負師の血は、一歩一歩確実に忍びよってくる死に対してさえも、勇猛に対峙し、一歩もひるむことはなかった。それは、将棋という一つのものを貫き通すことによって培われたものであることに、我々は深い感銘と誇りを与えられた。

 二度目の手術を乗り越えた名人は、A級順位戦最終盤で、高橋、米長を打ち砕き、そして最終戦で挑戦最右翼と目された谷川に、全盛時を思わせる指し回しで快勝してみせた。肝臓に病魔を抱えた手術間もない体、68歳の老齢で、あの強豪三人を三タテにする、その勝負への執念に、背筋が凍りつくような興奮を覚えた。今思えば、命を削りながら作りあげた、最後の、そして最高の伝説だったのかもしれない。

 7月11日、名人の病室を訪ねた。うとうとされていた名人は、気配に気づき「今までで一番キツイよ」と、それでも笑顔を見せた。私は大山道場の休載の件、沢山のファンが再開を待っていること、そしてそうではあるけれど将棋世界のことは御心配されずに、ゆっくりと休養して下さいと伝えた。「どうも、ありがとうございます」と名人ははっきりとそうお答えになった。

 病室には夕陽がさしこんでいた。

 林葉さんが置いていったハゲ頭の和尚さんのぬいぐるみが、足許に転がっていた。看病中の夫人が、ほらこうするとそっくりよ、と名人の顔の横にもっていってほがらかに笑うと、名人も楽しそうに、小さな笑顔を見せていた。

 「どうも、ありがとうございます」 そのはっきりとした言葉が耳にこびりついて離れない。それは、私にではなく、将棋世界を通したその向こうにある、棋界を支えてくれている大勢の方々への伝言に思えてならない。

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文章を打っているうちに涙が流れてきてしまった・・・

     

林葉直子さんが15年振りに復活した2010年7月の日レスインビテーションカップ(対 中倉彰子女流初段戦)、林葉さんが対局で使っていた扇子は、大山康晴十五世名人の「夢」だった。