将棋世界1993年8月号、東公平さんの巻頭エッセイ「生みの親より育ての親」より。
せがまれて 蝉を伏せけり 夏帽子
揺られゐる梢の鳥や青嵐 木村義雄
昭和14年夏の句会で滝井孝作が「夏帽子の句は子煩悩の人柄がみえる」とほめて採った二句。せがんだ子は義徳さん(現八段)だったのかな。名人は昭和27年8月に「公式戦は指さないが生涯現役」の条件で十四世名人に推挙され、実際に特別企画で対局し、大山康晴名人、坂口允彦八段らに勝っている。芦田均首相らの後援により銀座に事務所「将棋文化社」を構え、出版、講演など普及に大活躍した。参議院選挙出馬のチャンスもあったが、もし実現していれば小菅剣之介名誉名人(衆議院)に次ぐ二人目の棋士議員誕生だったろうにと惜しまれる。その知名度は抜群。筆者は谷川名人時代に旅先で老ファンと話した折「名人は今も木村さんか」と問われ。返事にまごついたことがある。
8月はアマチュア将棋の季節。各地の「将棋まつり」の元祖は昭和42年に白木屋で開かれた「将棋400年展」だ。越智信義さんが、当時の店長と友人だった縁で持ち込んだ企画である。”生みの親”はデパートでも連盟でもなかった。
このデパートで昭和46年8月に開かれた「よい子日本一決定戦」に神戸から遠征して来た兄弟が中学生の部、小学生の部でそろって優勝した。谷川俊明、浩司である。ところが有史以前の出来事のため、将棋手帳などの歴代小、中学生名人のリストには記載されない。
プロ棋戦にも同じことがある。たとえば、読売の全日本選手権(通称九段戦)は第1期の前に第1回と第2回があった。昭和24年、その第2回の優勝者は明治37年生まれの萩原淳八段。決勝3人リーグで木村義雄、升田幸三をねじ伏せ、萩原にしてみれば生涯最高の栄冠をかち得たのに、翌年から「タイトル戦とし、優勝者は九段」と決められ、早い話が、萩原のすごい戦績は歴史に残らなかった。「俺も九段にしてくれ」と口うるさく理事を困らせていたのを思い出す。引退後10年たってようやく昇段した。
よく似たケースは王座戦にもあるが、まさか、さかのぼって「小堀清一九段もタイトル獲得者と認定する」などはできない相談。
人間は、時代とともにしか生きられない。
あれは実はこうだった・・・と”真実”を発掘する悪い癖のある私は自己満足に浸っているバカか。将棋界に、マイナスの貢献をし続けて来たのかなあ。
「将棋400年展」の時、関白秀次愛用と伝えられる駒を見ながら笑顔の大山さんが面白いアイデアを語った。
「東さんね、今のうちに天皇陛下ご愛用の駒作って倉庫に隠しとこうか。100年も経ったら誰にもわかりゃしないよ」
生みの親より育ての親。この格言には「真相は誰もわからない」という意味が隠されているんじゃないかと思う。
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私が小学校低学年の頃(1960年代後半)、母が「将棋には、木村名人と大山名人という偉い人がいる」と教えてくれた。
私の母は特に将棋のことを知っていた訳ではないので、当時の日本人にとって木村名人と大山名人の知名度は非常に高かったということになる。
特に木村義雄十四世名人は引退してから15年以上経っていた頃であり、本当にすごいことだと思う。
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私が小学校4年の頃、仙台のデパートで将棋まつりが開催された。
席上対局は大友昇七段(仙台市出身)-中原誠五段(塩釜市出身)戦。
会場にはいろいろな棋士の写真が展示されていた。
その中で、ヒゲを生やして長髪でいかにも将棋が強そうに見える人の写真が私はとても気になった。
母に「この人は誰?」と聞いてみたら、母は知らなかった。
後に、その写真の棋士は升田幸三九段だったと知ることになるのだが、当時の主婦は、「木村・大山は知っているけれども、升田は知らない」ということだったのだろう。
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百貨店での「将棋まつり」というものを世の中に創り出したのが越智信義さんだったということは私も知らなかった。
白木屋は、今はなくなってしまったが、東急百貨店日本橋店のこと。
私が小学校4年の仙台のデパートでの将棋まつりも、その動きに触発されたものだったのかもしれない。
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九段戦の萩原淳八段(当時)のこと。
たしかに、現在の日本将棋連盟のホームページの「九段戦」の項にも萩原八段の名前は載っていない。
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王座戦は、1953年から1969年までは優勝を争うトーナメント戦、1970年から1982年までは前年度優勝者とトーナメント勝ち抜き者による三番勝負、1983年からタイトル戦となった。
小堀清一九段が優勝したのは1957年のことだった。
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それにしても、大山康晴十五世名人の超現実的な考え方が見事すぎる。