羽生善治竜王(当時)の観戦記(前編)

将棋マガジン1990年7月号、羽生善治竜王(当時)の第48期名人戦〔中原誠棋聖-谷川浩司名人〕第3局観戦記「突然の失速」より。

 春は名人戦の季節。

 多くの棋士がのんびりと過ごすこの時期に選ばれた二人の男が死力を尽くして戦う。

 「名人」という地位の為に。

 棋士を目指す人々の最終的な目標は?と問えば、ほとんどの人が「名人」と答えるだろう。

 事実、私もそうだった。(当然、そのころは竜王はなかった)

 「名人」への棋士の思い入れはすさまじいものがあり、オールオアナッシングと言っても過言ではないだろう。

 そして、それが幾多の歴史をつくり、数々のドラマを生んできた。

 しかし、時代は動いている。

 一昨年、「名人」と同格の「竜王」というタイトルができた。

 これから棋士を目指す人々は「名人」への思い入れは希薄になるだろうし、自分自身も30代以上の人と比較すれば、そういう思いは少ない。

 「名人になれれば死んでもいい」

 と思う人はこれからはいなくなるだろう。

  「名人」と「竜王」はどちらが上か?という問題はこれから出て来ると思うが、これは名人戦、竜王戦でどれ程人を引きつけられるものが出来るかという事になって来ると思う。だから、今回の名人戦は、「自分がこれ以上素晴らしいものが出来るか?」

 という自分自身への問いかけの答でもある。

(つづく)

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よくよく考えてみると、羽生善治四冠による観戦記は歴史的に見て非常に数少ないのではないかと思う。

そういった意味でも貴重な観戦記。

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当時の羽生竜王の考えや思いが凝縮された序章がとても印象的だ。

この序章の序・中盤は、「竜王」の立場で書くと少し挑発的に受け取られそうな内容でもあるが、これは最後の、

「自分がこれ以上素晴らしいものが出来るか?」という自分自身への問いかけの答でもある。

に係っている形容詞のような位置づけ。

「竜王」の立場だからこそ書けることだとも言えるだろう。

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この対局は、宮城県の松島で行われた。

松島は中原誠十六世名人の故郷である塩釜市の隣。

1992年の先崎学五段(当時)の著書「一葉の写真」に収録されている「敗因がわからない―第48期名人戦第3局」より。

 僕たちは二日目の夕方、NHKの衛星放送に出演した。僕たちとは三人。僕の隣には『将棋マガジン』誌の取材で来た羽生が、まるでガリ勉の高校生のように、いつものとおり青白い顔で座っていた。その向こうには、甲子園を夢見る腕白な野球高校生を思わせる、スポーツ刈りの森内が、少し顔を赤らめ、俺はここにいるんだぞ、という感じで、でんと構えていた。いつもながら好対照の二人だなと思った。

羽生竜王の取材のタイミングに合わせての先崎学四段(当時)、森内俊之四段(当時)の観戦旅行。

立会は森けい二九段と青野照市八段(当時)。

この当時の羽生世代の棋士はバックギャモンに熱中していた頃で、バックギャモンの師である森けい二九段が立会人であったことも、松島行きの大きな原動力になっていたようだ。

 観戦旅行の目的はというと(当然将棋の勉強が主なのだが、それだけではツマラナイでしょう)、バックギャモンをすることである。(中略)とにかく、ところかまわず、なのである。二つ折りにしてコンパクトになるため持ち運びが便利で、電車のなかから駅のホームなど、場所などまったく関係なく四つのサイコロを振りまくる。森けい二九段が指南役で、先崎、羽生、郷田の三人組が同じくらいの実力なのだが、みんな自分が一番うまいと思っているらしく、また、三人とも負けず嫌いのため、その負けたときの口惜しがりようは大変なものである(羽生の顔がゆがむのは、見ていてじつにおもしろいですよ)。

森内四段の名前が出てこない。「先崎、羽生、郷田の三人組が同じくらいの実力なのだが」と書かれているので、バックギャモンについてこの頃の森内四段は決して強くなかったのかもしれない。