羽生善治名人に対する森下卓八段(当時)絶妙の急戦向かい飛車封じ

将棋世界1995年6月号、中野隆義さんの第53期名人戦〔森下卓八段-羽生善治名人〕第2局観戦記「心の読みを取り戻せ」より。

将棋世界同じ号より、撮影は中野英伴さん。

 どんな優勢な将棋でも一手でひっくり返ってしまうことがある。羽生の名人初防衛戦であり、森下の名人戦初挑戦でもある今期名人戦七番勝負は、第1局で森下に信じられないような終盤の失着が出て土壇場で勝負がひっくり返るという波乱の幕開けとなった。

 控え室の見立てによって森下勝ちとばかり思っていたカメラマンらは、終局と同時に対局室になだれこむや羽生の背中側に回り、森下に向けて一斉にシャッターを切ってしまったという。この珍無類なる出来事が笑い話となるのは数年後のことになろう。今はまだ、苦味の方が強く残る。

 ある棋士は、「あんな負け方をしては森下君眠れないだろうな……」と思いながら床に就いたところ、森下の無念を察するあまり、なんと自分が寝付けなくなってしまったという。ホテルの冷蔵庫の中にあったアルコール類をあらかた片づけて疑問に立ち向かおうとする理性を酔いに包み込み、漸く眠りについたのは明け方近くだったそうである。

(中略)

急戦向かい飛車

 玉将の玉に名人の名と書いて玉名。玉名市は将棋との縁を感じる地名である。

 市内を歩くと至る所に羽生対森下の名人戦ポスターが貼られていて、市を挙げて名人戦対局を歓迎している空気が伝わって来る。

 1日目の昼過ぎに対局場である「蓮華院誕生寺奥之院」に入ると、局面は向かい飛車に振った羽生が△3二金(1図)と上がって次に△2四府の急戦を見せたところであった。森下が居飛車穴熊の気配を示したのに対する機敏な反応である。

 67分考えて指した森下の次の一手に、記者は早くも驚かされた。

森下名人戦第2局1

1図以下の指し手
▲6八角△5四銀▲7七桂△4五歩(2図)

序盤の勝負手

 1図では後手からの仕掛けが見えているので、まずは決戦に備える意味で▲7八銀とでも締まっておこうか、というのが常識的なところであろう。またそれで先手も十分に戦える将棋である。

 相手に好きにさせても悪くなるわけでなければ、相手の手に乗って戦っていくのもまたよし、というのが昨今のプロ間で一つの相場となっている考え方でもある。

 ▲6八角とは強情な手があったものである。これを、後手の狙う△2四歩を抑えた受けの手である、と見るのは甘い。なんとなれば、▲6八角には、後手が一手前に指した△3二金を咎めてやろうではないかという向こうっ気があるからである。

 しかし、それにしても角を引いた瞬間の気持ち悪さは半端ではない。後手から△4五歩や△5四銀と激しく動いて来る手が見え見えである。

 案の定、△5四銀と出られて次の△6五銀を防ぐために▲7七桂がやむを得ない。これはちょっとした悪形である。桂馬の頭がいかにも薄い。しかも続いて△4五歩と突かれ、△6五銀の狙いを強調されてみると、それを姿良く受ける形がないように思える。

 まあ、森下だからうまくやるのだろうが、自分が先手側を持って指すことになったら忽ち潰されてしまうだろう、なぞと愚にもつかないことを思いながら盤上の推移を見守った。

森下名人戦第2局2

2図以下の指し手
▲8九玉△8二玉▲7八金△6四歩▲8八銀△9二香▲8六歩△9一玉▲9六歩△8二銀(3図)

米長の予言

 ▲8九玉は△6五銀を防ぐ臨機の処置だが、明らかな手損になっている。あまりにも早く桂跳ねを決めてしまっているマイナスと相俟って、ここでの控え室での評判は先手がはなはだ宜しくなかった。

 ただ一人、特別立会兼新聞の観戦記担当の米長だけが「森下は世界で一番序盤がうまい男。この将棋は20手ほど進んだのち先手の作戦勝ちになるであろう」との見解を示していた。その時は、まさかそんなことはないだろう、おそらく羽生が局面の主導権を握ったまま、作戦勝ちどころかはっきりした優位を築いていくに違いないと思っていたが、今にしてみれば▲6八角が密やかに語る主張をしかとくみ取った米長の慧眼い恐れ入る。

 定刻の5時半に手番の森下が33手目を封じて一日目が暮れた。

森下名人戦第2局3

3図以下の指し手
▲3六歩△7一金▲5九金△7四歩▲6九金△4二金▲7九金寄△5二金▲9五歩△6二金寄▲5七銀△7二金寄▲8七銀△6五歩▲5九角△2四歩(4図)

目立たぬ好手

 羽生が穴熊を目指したのは、先手の最大の弱点である桂頭を攻めるために将来△7四歩と突くことになるのを想定し、この時の自玉への響きを緩和しておこうという意味がある。局面の流れに乗ったプロ好みのする駒運びである。

 3図からの後手の理想形は、後手の手順のみ示すと(中略)と進める形である。(参考A図)

森下名人戦第2局4

 次に△6四銀として△7五歩を見せれば攻防ともに申し分がない。

 森下の封じ手▲3六歩は、△4三金なら▲3七桂として後手が次に指したい △6三銀を許さないという意味が含まれた目立たぬ妙手であった。実にさりげなく相手の理想形を阻止している。▲3六歩を見た瞬間は、不急の一手ではないのかとさえ記者の目には映ったものだが、NHK衛星放送解説役の青野の解説を聞いて本当に森下は序盤の天才であると再認識させられたひとコマであった。

 △4三金とする路線を阻まれた羽生は△4二金から△5二金と固めて待つ指し方を余儀なくされた。2図で▲8九玉とした所では先手が一手手損をしていたのに、後手が金の動きで二手損をしたため、ここでは逆に先手の一手得になっている。盤上には、森下が▲6八角と引いた時に描いた△3二金を咎める構想が着々と築かれていった。

 ▲9五歩と端を伸ばし、先手からはいつでも▲8五桂の攻めが見込めるようになった。「こうなると、7七桂がかえっていい形になって来ました」と青野。

 米長の予言は的中した。

森下名人戦第2局5

4図以下の指し手
▲2六角△6二金寄▲2四歩△同飛▲3七桂△3五歩▲2五歩△3四飛▲3五歩△4四飛(5図)

森下名人戦第2局6

勢いのある手

 「久しぶりに勢いのある手を見たよ」と米長。森下の指した▲2六角を言っている。△6二金寄とマイナスの手を指させて▲3七桂と活用し、まさに先手絶好調を思わせるコマさばきではないか。

 羽生も負けじと△3五歩から△3四飛の好手を繰り出す。△3四飛は▲3五歩と先手で取られてつまらないようだが、飛車を第一線に留め置く好着想である。流石は羽生の声が控え室に上がる。

 しかし、これより双方の主力が激突する大決戦が展開されるぞと期待に沸き返る取材陣は森下の次の一手に一様に首をひねることになる。

(つづく)

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△3二金型向かい飛車は、居飛車穴熊対策として効果的だが、△3二金型にしたこと自体をとがめようという森下卓八段(当時)の戦略的な構想。

本当にプロ的な、森下流の大局観が現れている絶妙の手順だ。

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冒頭に出てくるこの期の名人戦第1局は、森下八段痛恨の△8三桂として知られる一局。

盤上を多くの虫が覆ってしまったことも語り継がれている。

森下卓八段(当時)痛恨の△8三桂 =第53期名人戦=

名人戦、盤上を覆う虫たち

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この第2局は、ここから波乱が巻き起きる。