「先崎君、この間、中原名人のボトルを飲んで”大山が飲みました”ってマジックで書いたのよ」

近代将棋1989年11月号、木屋太二さんの第12回若獅子戦準決勝〔先崎学四段-羽生善治六段〕観戦記「横歩取りの世界」より。

 対局室に入ると感想戦が始まっていた。桐谷広人五段と小倉久史四段の勝ち抜き戦。この棋戦は持ち時間が各1時間だから、昼過ぎには終わる。

 検討の輪の中に羽生と先崎もいた。ドッと笑い声が起こる。先崎が独特な感覚で「こうやったらどうですか」と奇手をいい、それを受けて桐谷が得意の早口で「そうそう、そう指せば私が優勢だったんだけど、気が変わってこうやっちゃったんですね。このあと私に見落としがあって」とまくしたてる。解説が妙に論理的なのがおかしい。それが集まった棋士たちの笑いを誘う。

 先崎は検討の主役になって口を出し、羽生は観客になってよく笑った。家でテレビのコミックショーを見ている時もこんなふうに屈託がないのだろうか。ふと、そんなことを思う。

 勝負している時とそうでない時の羽生はまったくちがう。ことに終盤は別人だ。

 対局開始の午後1時が近づいた。羽生が検討の輪を抜け出し、先崎も腰を上げた。今、もっとも強い棋士と評判の羽生、きょうも、あの妖気を盤上盤外に振りまくか。

(中略)

 羽生の振り歩先で記録の田村3級が駒を振ると、歩が2枚、とが3枚。先崎が先手をつかんだ。

先崎「おねがいします」

羽生「おねがいしまーす」

 羽生ののばした声が終わると同時に先崎▲7六歩。羽生もすぐに△3四歩と応じて、以下飛先を突く進行に。横歩取らせは羽生が時折り見せる作戦だ。ただし△2三歩はめずらしい。

羽生「いつもは△8六歩▲同歩△同飛▲3四飛から空中戦にして指す。△2三歩と打つ横歩取りはこれが初めてです」

 勝者が決勝へ進むという、いってみれば大一番。その大一番に初体験の戦法で挑む。ふつうなら矢倉とか四間飛車とか自分の一番得意とする戦法でぶつかるものだが、羽生の場合はちがう。横歩取りに限らず、矢倉のスズメ刺し、角換わり棒銀、ひねり飛車etcと何でも指しこなす。この間は四間飛車も指していた。

 谷川名人が「羽生君はレパートリーが広い」と感心していたが、考えてみるとこれもすごいことだ。オールラウンドプレーヤーなのは、将棋は戦型がすべてじゃない、要は終盤力と羽生が思っているからだ。そして、そのとおり羽生は勝ってみせる。ここが鬼才の鬼才たるゆえんだ。

 先崎の▲3四飛は気合の一手だった。あとで聞いた話では「昔から横歩を取って勝ったためしなし」とのこと。きょうはどうしてその気になったのか。”気合”としかいい表せないところが将棋というゲームの不思議さだ。

 先崎もレパートリーの広さでは羽生に負けていない。特に谷川名人相手に見せた初手▲3六歩にはテレビ将棋のファンがやんやの喝采を送った。いかにも米長九段の弟子らしい茶目っ気と才気が先崎にはある。

「先崎君、この間、中原名人のボトルを飲んで”大山が飲みました”ってマジックで書いたのよ。あのいたずらごころが彼の面白いところねェ」

 新宿二丁目の将棋酒場”あり”の耀子ママがおかしそうに話していたのを思い出す。ともかく盤上は二人のチャレンジ精神で横歩取りに。羽生△2五角。長い指先にぐぐっと力がこもっている。

(以下略)

近代将棋同じ号掲載の写真。

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「先崎の▲3四飛は気合の一手だった。あとで聞いた話では『昔から横歩を取って勝ったためしなし』とのこと」

この時の横歩取りは、先手の飛先の歩交換後、後手が△2三歩と打ち、先手が▲3四飛と横歩を取る展開。

△8八角成▲同銀△2五角▲3二飛成と進んでいる。

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「きょうはどうしてその気になったのか。”気合”としかいい表せないところが将棋というゲームの不思議さだ」

棋士は気合い負けを嫌う。

取ってみろと言われて横歩を取らないのは、ある意味では典型的な気合い負けと言っても良いだろう。

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「先崎君、この間、中原名人のボトルを飲んで”大山が飲みました”ってマジックで書いたのよ。あのいたずらごころが彼の面白いところねェ」

新宿二丁目にあった酒場「あり」。

先崎学四段(当時)は、「あり」では師匠の米長邦雄九段のボトルを飲むことが多かったという。

中原誠十六世名人のボトルを飲んだということは、中原門下の小倉久史四段(当時)と一緒に飲んでいた可能性が高い。

「大山が飲みました」はなかなかの傑作だ。

ボトルと師弟関係

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先崎学八段(当時)と佐藤康光棋聖(当時)の間でのボトルに関するエピソードもある。

佐藤康光棋聖(当時)「先崎はダメですからね、先崎は」

 

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