森信雄六段(当時)と山崎隆之少年

将棋世界2004年6月号、朝日新聞記者の佐藤圭司さんの「棋士たちの真情 プロであることの誇り 森信雄六段」より。

 森信雄六段(52)―。2000年2月に出版された『聖の青春』(大崎善生著)で、故・村山聖九段の師匠として、将棋界以外でもすっかり有名になった。写真撮影の腕前がプロ級であること、詰将棋創作の名手であることも、本誌の愛読者はきっとご存じだろう。熱心なファンは「第11期(1980年度)の新人王」「第16期竜王ランキング戦(2003年度)で5組に昇級したばかり」と指摘されるかもしれない。そんなモリノブさんに今年の春、新しい肩書(?)が加わった。初の東大生棋士・片上大輔(22)の師匠という立場だ。第22回朝日オープン将棋選手権で挑戦者決定戦に駆け上がり、順位戦ではC級1組に昇級を決めた、関西のホープ山崎隆之五段(23)の師匠としても、改めて注目されている。

(中略)

 編集部からは「片上・山崎の師匠としての森六段を」との注文を頂いた。3月28日に関西将棋会館近くのホテル阪神でインタビューした内容に、過去の取材も交えてお届けする(文中・一部敬称略)

『出会い』

 1992年春、全国支部将棋対抗戦(日本将棋連盟主催)の西地区大会が舞子ビラ神戸であり、理事だった森六段も出席した。

森「広島代表で子供が3人おったんですよ」

 そのうちの2人が山崎少年、片上少年だった。

 村山九段を森六段に託した、広島将棋センター席主の本多冨治さん(故人・2003年9月に逝去)が引率していた。

森「本多さんから『この子たちのこと、お願いします』と言われた」「小学生で強かったから、生意気でうるさい印象しかなかったねえ。例えば、大人と対局しても、自分が勝って当たり前みたいな感じで。この子らを預かるのは大変だな、と思ったね」

―村山君の経験があって、なお、大変でしたか?

森「村山君は、そんな、うるさいというタイプじゃない。将棋に関してはカラいけど。それ以外の態度とかは、まあ静かな方なんでねえ。あの、将棋の手つきだけは、きついけど。片上、山崎はやんちゃな、わんぱく坊主でした。

 山崎少年は、この年夏の奨励会試験に6級で合格。片上少年も翌年に6級で合格した。

『内弟子』

―現在の山崎五段はとにかく優しいイメージ。初心者が多く参加したリレー将棋の解説で、困った顔の少女に「もう王手した?1回王手するまで頑張ろうね」と助け船を出したり。生意気な少年時代は想像しにくい。

森「変身したんですよ」

 きっかけは1995年1月17日の阪神大震災だったという。

 山崎少年は最初、大阪市内で母親と2人暮らしをしながら、奨励会に通ったが、森六段が「学校に行ってないんじゃないか?生活が崩れてはいけない」と心配し、1993年春から同市内の森六段宅で内弟子生活を始めた。ところが同年11月、森六段が恵美子夫人と結婚し、宝塚市に転居する。新婚家庭に内弟子が同居することになった。

森「やっぱり大変だった。山崎君が悪いわけじゃなく、もともと無理があった」

 ただの内弟子ではない。「なにより将棋が大事」と思い定めた山崎少年だ。

「山崎君は、将棋のことしか考えてないタイプでね。将棋の勉強はそんなにしてなかったけど、気持ちがすごい。『将棋が一番、将棋以外は無い』という感じだった」

 だから、初めこそうまくいっていたが、途中から「山崎君の将棋が一番という、きつさ」が他の家族とぶつかるようになったらしい。森六段が恵美子夫人と公園に行き、悩みを話し合う夜もあった。

『阪神大震災』

 こんな時、阪神大震災が起きた。森六段宅も住めなくなり、一家は関西将棋会館、小林健二九段の将棋教室用のマンション、村山九段の研究用のマンションを転々とした。内弟子を抱えるのは物理的に無理になったのだが、精神的にも限界だったようだ。

森「山崎君が自分のことしか考えてないんで、ボクがキレてしまって……。奨励会は続けさせようと思ったけど、師匠は誰かと代わるつもりでした。本気でした」

―何がそこまで?

森「震災後に奨励会の予定があったんですが、普通、休みですよね。ところが、山崎君は、他の被災者の方と一緒に行列をつくって公衆電話から問い合わせたらしいんです。そんな、将棋のことしか頭に無い言動がいっぱいあってね」

 森六段宅近くのアパートで一人暮らしをしていた同じ森門下の船越隆文さん(当時17)が、建物の下敷きになって亡くなってもいた。「こんな辛い思いをするなら、もう弟子はとらない」。森六段は泣いていた。

森「船越君の死は、山崎君も子供心にショックだったでしょう。どう受け止めていいのかわからない不安定さはあったと思う」

 でも、一度、生じた感情のほころびは、広がるばかり。

「一家で連盟に避難した時も、山崎君がちょっとニコニコしているような感じだったんでね。緊張のせいだと思うけど船越君が亡くなっているし……。『もう、そういう態度はやめろ』って言ったんです」

『荒治療で変身』

 数日後、森六段は山崎少年の両親を呼び、故郷・広島に連れて帰らせた。

「こういう人間性では、もう、ちょっと、引き取れない」と告げた森六段に、父親は「ウチの子は、そんな子じゃない」、山崎少年は「親は悪くない」。かばい合ったが、森六段の心は変わらなかった。

森「将棋が強いだけではイヤだった。思いやりも欲しかった」

 しばらくして、広島に戻った山崎少年から森六段に手紙が届いた。

森「自分が悪いんで、親は悪くない、という内容でした」

 山崎少年が急に変身したのは、この時期からだという。

森「全然、人間が変わったような感じになって。最初は、将棋辞めたくないから、猫かぶっている、と思ったんですけどね」

 具体的には、どんな場合でも自分のことより周囲を気遣うようになったという。

森「その後、何回か会ったが、本当に良くなった。すごく人間味がでてきた。『うそでなかったらスゴイ。何が起きたのかなあ』という感じ」

 現在は、逆に、他人に気を遣いすぎることが、師匠の心配の種になった。

森「お人好しとまではいかんけど、優しい面がすごい極端に出るようになりましたね」

「将棋が強いだけではなく、人間的に幅が出来たのがすごくうれしいですね」

 今や、山崎五段への信頼は厚い。

『あふれる愛情』

 余談だが、森家は毎年12月第3日曜に「ディナーショー」を催す。午前10時から研究会をして、夕方から恵美子夫人がおでんや春巻きを食卓に並べ、余興も飛び出す。

「地方から出てきて一人暮らしをしている弟子やその仲間に、食事を楽しんでもらえたら」と始め、もう10年になる。

「最近の子は、昔ほど喜ばんね」と森六段は苦笑する。

しかし、今の世の中、だれが他人の子に対し、ここまで出来るだろうか。森六段は、(口が悪い時もあるが)愛情に満ちている。

 そうそう、こんなこともあった。2003年の話だ。2人で夜道を歩いていると、モリノブさんが突然、僕に「山崎君がちゃんと食事を摂ってるか心配だ」と言い始めた。そして「あの子には、少し年上で将棋界以外の話し相手が必要だ」と続け、「佐藤さん、彼を食事に連れていってやってください。おカネなら、なんぼでも出します」と言った。

 こんな人がいるのか―。心底、驚いた。そして、この人を味方につけた山崎隆之の運の強さを思った。

『指定に修羅場あり』

 閑話休題。

 師弟間にはヤマ場が一回はある―。森六段の持論だ。

森「どんな弟子でも長所と欠点があってね。何年か一緒におると、将棋の強さとはまた別の、人間性みたいな部分で対決せざるをえん時があるんですよ。必ず」

 師匠が弟子に「一晩考えて、意を決して、嫌なことを言う」修羅場ともいえる。

 故・村山九段の場合は、谷川浩司竜王・王位(当時)との天王戦・決勝(1991年11月)に出場するかどうかが、そうだった。

森「都合の良い時は出て、都合の悪い時は休むではダメだと思った。本当に病気で寝込んではいたが、無理やり行かせました」

―師匠は大変ですね。

森「まあ、ちょっと、結構しんどいですよ。みんな、すんなり強くなってくれたらいいけど、そんなことは、まずない」

 将棋が強くならない、勝てない、そして人間性の問題……。

森「強くて、魅力のある棋士になって欲しい。だから、本当は言いたくないけど、頭を振り絞って言うんです。

『例外の片上新四段』

 例外的に、修羅場がまったく無かったのが片上・新四段だという。

森「山崎君とは、まったく反対」

 片上少年は広島から奨励会に通い続け、夏休みに森六段の自宅での研究会に参加した程度。東大進学後は、森六段が東京対局の時に一緒に食事をしたり。

森「弟子の中では、直接会ってる時間は一番少ないかもしれない」

 手のかからない弟子だったという。

森「小さいころから自立していた。まあ、しっかりしている」

 2003年4月、天童市であった第21回朝日オープン将棋選手権五番勝負第1局。僕は社会面用に記事を書き、記録係が片上当時三段だった。底抜けに明るい鈴木大介八段が解説で、打ち上げの夜、若手(?)三人で近くの居酒屋に行った。山菜の天ぷらと日本酒が美味。グイグイいった。「新八段になったばかりだから」と言って、鈴木八段が勘定を済ませてくれた。

 後日、片上三段から僕にまで「天童ではお世話になりました」とハガキが届いた。そんなことは初めてだったので、驚いた。

森「しっかりしてるでしょ。四段に上がった時も、何も言わないのに、サッと宝塚の自宅にあいさつに来た。しっかりしてますわあ」

(中略)

『師匠のプロ』

 弟子に対し、なぜ、ここまで優しく、一生懸命になれるのだろう?

森「いや、優しくはないんだけどねえ、おせっかいかもしれんねえ」

 自分がかかわった以上は、その子をなんとかしたいという、「師匠としてのプロ意識」が働くのだそうだ。

森「プロという言葉が好きでね。たとえヘボでも僕は将棋のプロだからね。頼まれたらどんな仕事でもやろうと思ってる。ひょっとしたらタダでも。だけど、ボランティアはやらない」

 自分に誇りを持ち、生きる気概が伝わってくる。矜持という言葉がよく似合う。

『弟子への愛』

 村山、増田裕司五段、山崎、安用寺孝功四段、片上……。森(信)門下の棋士は5人になった。増田五段も安用寺四段も、控え室でたまに会うと、明るく話しかけてくれる。

 森六段が「基本的に、人と群れるな」という主義のせいもあってか、一緒に研究会をするわけではないが、4月25日、ホテル阪神での「片上大輔新四段、山崎隆之五段C1昇級『昇級昇段祝賀パーティー』は全員出席で盛り上げる。

 モリノブさんは、棋士でない元門下生にも優しい。

森「棋士になるならないは結果なんでね。しょうがないことなんでね。棋士にならないからと言って、ボクの弟子でなかったわけじゃないから、それは公平ですよ。棋士にならんで辞めた子に対しても、おんなじ気持ちを持ってるから。しっかり生きていって欲しいなあ、と思ってるから」

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「山崎君がちゃんと食事を摂ってるか心配だ」

「あの子には、少し年上で将棋界以外の話し相手が必要だ。佐藤さん、彼を食事に連れていってやってください。おカネなら、なんぼでも出します」

なんと愛情溢れる言葉なのだろう。森信雄七段の優しさが感動的だ。

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阪神・淡路大震災があった1995年1月17日、山崎隆之少年は13歳の中学2年生。

兄弟弟子の死というショックと将棋を強くなりたいという思いとが交錯する毎日。

本当に、大震災は起きてほしくない。

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昨日放送されたNHK Eテレ「将棋フォーカス」の特集は『「山崎隆之 今年にかける!」』で山崎隆之八段がゲストだった。

そこで、山崎八段が、昨年入籍したことを発表していた。

非常にさり気なく話していたのが山崎八段らしく面白いところだが、とてもおめでたいことだ。

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昨年の12月、山崎隆之八段が森信雄七段宅に年末の挨拶へ行った時の様子→山崎八段来訪 12、17水曜日(森信雄の日々あれこれ日記)

 

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