担当記者が綴る王将戦秘話

将棋世界2004年3月号、毎日新聞の山村英樹記者の「担当記者が綴る 王将戦秘話」より。

 1990年の第39期、米長邦雄九段が挑戦者に名乗りを上げ、これまでの若手同士の戦いから雰囲気が一変した。

 確か、挑戦者決定プレーオフに勝った翌日に挑戦者の抱負を聞く取材を行ったが、多忙な米長九段のこと、午前9時か10時に自宅へスポーツニッポンの記者とうかがったと記憶している。すると、高級な日本酒が出てきて「まあ、これを飲みながら」ということになった。そこで出てきた言葉が有名な「横歩も取れない男に負けては、ご先祖さまに申し訳ない」。もちろん、「横歩も……」は南王将を指すのが明らかで、これまでの同世代対決で語られたコメントと違い、刺激的だった。

 米長九段の真意は、自身にもカツを入れて七番勝負を盛り上げることがあったのだろうが、南王将も燃えた。第2局で堂々と横歩を取って勝ち、第4局を終えて3勝1敗として防衛へあと1勝へ迫ったのだ。

 ところが、第5局以降の米長九段は、さすがに修羅場の数々をくぐり抜けてきた勝負師。駒がどんどん前に進んできて、米長将棋の真髄を発揮した。最終第7局は山形県天童市の「紅の庄」。1勝3敗から3連勝を飾って王将に復帰した米長が打ち上げの席で歓喜の踊りを披露したことは有名だが、筆者には南王将が珍しく「飲みに行きましょう」と言って、関係者数人で温泉街の酒場へ繰り出したことも強い記憶が残っている。翌年の第40期、南がリターンマッチに成功したことも記しておく。

 第41期は、谷川浩司竜王が初めて王将戦へ登場してきた。この期のリーグ戦は4勝2敗で4人が並ぶ大混戦になり、多忙なスケジュールを調整して大晦日の12月31日に谷川-中原戦のプレーオフが行われた。中原の通算1000勝なるか、谷川の通算600勝なるかという歴史的な意味合いもあった。結局筆者を含む関係者の一部は将棋会館で年を越し、明け方に鳩森神社へ初詣に出かけた。

 谷川竜王は「今回は全局違う戦法で戦いたい」と宣言。第5局では後手番の初手3二金戦法まで登場させた。日ごろから「プロの将棋は同じような戦型ばかりで面白くない」と言われる声を意識していたのだろう。しかし、それをタイトル戦で実行するのは勇気が要る。谷川竜王は見事に有限実行の形で初の王将を手にした。

 谷川の初防衛戦となった第42期に村山聖六段が挑戦してきたのも、王将戦を語る上で逃せない出来事だった。

 村山六段は、リーグ戦、プレーオフで羽生善治竜王を連破、挑戦者決定戦では米長九段を破り、タイトル戦初出場を決めた。行きがあった。だが、体調は万全ではなかった。ある対局場で、自室は1階、対局室は2階という設定があったが、階段は手すりにもたれるようにしてやっと登ることができるほどだった。しかし、決して弱音は吐かなかった。盤上では村山六段らしい冴えを見せ、何度も勝つチャンスがあったが、得意の終盤で失速し、結果は4連敗に終わった。関係者一同、体調の復帰とその後の活躍を祈ったが、残念ながら若くして帰らぬ人になってしまった。

 谷川王将の3期目は中原誠前名人が挑戦者になった。この期の「事件」は第5局、青森県三沢市の「古牧第3グランドホテル」への往路で起こった。大阪から空路三沢空港へ飛んだ谷川王将は、立会の有吉道夫らとともに無事に到着したが、そのわずか後に到着予定だった、中原前名人らを乗せた東京発の飛行機が天候不良のため着陸できず、三沢空港上空を何度か旋回したあとに東京へ引き返すことになってしまったのだ。

 羽田空港で副立会の西村一義八段、三沢で有吉九段、そして将棋連盟渉外部と電話で連絡を取りながら協議し、第5局に限り、王将戦史上初の1日制対局とすることが決まった。

 筆者は中原前名人と同じ便に乗っていたが、羽田空港での相談で「翌日は新幹線から在来線に乗り継いで移動」と決まり、翌日同じメンバーが東京駅に集まって新幹線に乗った時にはほっとした。谷川王将も驚き、気がもめた面もあったかもしれないが、そんな素振りも見せずに対局に臨んでくれた。

 この対局は中原前名人が制したが、次の第6局で谷川王将が勝ち、3連破を飾った。

 王将戦七番勝負は1月から3月にかけての時期で、冬場のために天候が気になることが多いが、これほどのトラブルに遭ったことはなかった。1日制対局はこれが最後になりますように……。 

 翌第44期は、リーグ戦、プレーオフを制した羽生善治名人が初めて挑戦者に名乗りを挙げ、羽生が王将以外の六冠をすべて保持していたために「史上初の七冠獲得なるかどうか」が注目の的となった。しかし、設営側としてはそれ以上に大変なことが開幕直後に起こった。95年1月17日の阪神・淡路大震災である。

 震災は、神戸市に住む谷川に大きな打撃を与えた。事態が事態だけに、七番勝負はもちろん、他の対局も実現が危ぶまれたし、谷川自身から申し出があれば延期なども考えられたかもしれないが、谷川は災害からの復興へ自身の活躍が力になればと考え、直後のA級順位戦のために苦労して大阪へ移動、そして日程どおり栃木県日光での第2局へ臨んだ。

 谷川王将にとっては、もちろん生涯で初めて味わう種類の苦労だった。その後も夫人の実家のある名古屋市ほかあちことをベースにするなど落ち着かない生活が続いた。一方の羽生名人も、それまでは七冠ロードを驀進することだけを考えていればよかったのが、状況が変わって平常心で対局することが難しくなったのではないか。

 旅程一つをとっても、たとえば第4局が行われた山口県大島町へ向かうのに、山陽新幹線がまだ完全に復旧していなかったため、谷川王将は名古屋から福岡へ飛び、そこから新幹線で戻る行程。羽生名人も松山へ飛び、船で大島入りした。

 しかし、両者の複雑な心境があったにもかかわらず、将棋の内容は一進一退で、第44期のテーマとなった相矢倉戦の激闘が続いていた。外部の状況が深刻だっただけに、両者ともいっそう盤上に打ち込んだのだろう。第6局を羽生が勝ち、七冠へ初めてあと1勝と迫って、すべては青森県十和田町「奥入瀬渓流グランドホテル」の最終局へ持ち込まれた。

 史上初の七冠達成がなるかどうかとあって、将棋関係の報道陣はもちろん、ふだんはあまりお付き合いのないテレビ、雑誌など約50社150人が3月末とはいえまだ冬景色の土地を訪れた。対局はまたも相矢倉となったが、2日目の午後に千日手が成立した。筆者自身にとっても何年か担当していてタイトル戦初の千日手だったが、将棋にあまり関わりのない報道陣にとっては「千日手って何?」。また、この1局は急きょNHK衛星放送で中継されていたこともあり、いっそう緊迫感が増してきた。

 1時間後に先後を入れ替えて指し直し局が始まったが、40手目まで千日手局と同じ進行となり、両者の気迫が最高潮に達した。結局この1局は谷川が制し、王将を死守するとともに七冠達成を阻止した。谷川は後日、王将戦での思い出の1局として本局を挙げ、「震災に見舞われたが不思議と気持ちだけは前向きだった。何よりもまた将棋を指せることがうれしかった。勝てて本当によかったというその時の気持ちは忘れられません。しかし、本当の喜びは翌日神戸に戻ってからじわりと沸いてきました」(「王将戦50年の歩み」より)。

 翌第45期は再び羽生名人が挑戦した。しかも1年の間に六冠すべてを防衛し、再び七冠へ挑むという離れ業をやってのけて。

 そんな背景があっただけに、勢いが素晴らしかった。開幕から3連勝して迎えた第4局は山口県豊浦町の「マリンピアくろい」。2日目には50社222人の大報道陣が詰め掛けた。

 だが、今度は羽生名人をアクシデントが襲う。山口への出発日、風邪のため高熱が出、病院に寄ったために当初の航空機には乗ることができなくなった。

 連絡を受けた筆者も羽生名人に同行するため羽田空港で次の便を待ったが、その日は異様に飛行機が混んでいて、空席待ちをしながら時間が過ぎていき、やっと搭乗券が取れたのは4時間後。それから新幹線、車などを乗り継いで対局場へ到着したが、その間羽生名人は口を利くこともほとんどできず、かろうじてたどりつくことができた。

 対局が始まっても症状はなかなか治まらず、指すのがやっとの状態で、とても勝つまで想像できなかったが、不思議なもので次第に将棋は羽生ペースになり、4連勝で七冠目を獲得した。

 その後もいろいろな思い出があるが、ちょうど紙数が尽きた。今期七番勝負で羽生王将、森内俊之竜王が全力を尽くして戦うよう願いをこめ、ひとまず筆を置く。

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 米長邦雄王将(当時)の打ち上げの席で歓喜の踊りとは、裸踊りのこと。弟子の先崎学四段(当時)も一緒に踊らされることとなった。

米長邦雄王将はそれまでタイトルを17期保持しているが、やはりタイトルは何回獲得しても毎回毎回が無上の喜びとなるのだろう。

しかし、このままずっとそのタイトルを持ち続けていたいと思っても、1年後には必ず挑戦者が挑んでくる。

このようにタイトル戦史を見ていると、升田幸三実力制第四代名人の「笑えるうちに笑っておけ」という言葉の意味が実感できるとともに、米長王将はそれを実践したのだと考えられる。

1990年王将戦第7局の打ち上げ

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1995年と1996年の2年連続の谷川王将-羽生六冠戦は非常に印象的な七番勝負だった。

羽生善治七冠の誕生となった1996年王将戦第4局、羽生六冠(当時)が風邪をひいて対局に臨んだことは当時の記事で読んだことがあったが、ここまで体調が悪かったとは初めて知った。

歴史的な快挙が実現される時というのは、意外とこのようなタイミングだったりするものなのかもしれない。