森信雄五段(当時)「また来たんか」

将棋世界1984年10月号、神吉宏充四段(当時)の「関西若手はどないじゃい 森信雄五段の巻」より。

また来たんか

 ”また来たんか”森五段のこの合言葉でゲームが始まる。そう!夜ごと奨励会員達を自分のマンションに引き込み、バンカースゲームに興じる。これぞ関西3大ゲームセンターの一つといわれている”バンカースノブちゃん”の実体である。

 森五段は(いや、これからは親しみをこめてノブちゃんと呼ぼう)ノブちゃんは、その人当たりのよさと世話好きな所から、奨励会員達の兄貴的存在である。だからいつノブちゃん宅へ行っても誰かが寝泊まりしている。この事について逸話がある。これはノブちゃんに直接聞いたのだが、再現してみよう。

お帰りなさい事件

 ノブちゃんはその日から2、3日東京へ行く仕事があり、「研究会で使う時だけ使いやー」と鍵を奨励会員にわたした。まずこれがつまずきのもと。東京への往復切符を買い、大阪から電車に乗ったが、そこまではよかった。東京について駅で切っていない切符の方をわたし、東京へのりこんだ。3日後仕事を終えて東京駅の改札に行くと「もしもし」と呼びとめられ、「その切符では入れませんよ」の駅員の声に「わしゃー間違えたんやー」としぶしぶ切符を買いなおした。そこへ”大阪行き最終発車します”のアナウンスに驚いたノブちゃん、電車に飛び乗ったが、体がやけに軽い。気がつくとカバンやら何やら皆東京駅に置いて来たのであった。

「わしゃー今日はついとらん」と嘆きながら無一文で自宅へ帰ると、中からテレビの音が聞こえる。「ありゃーつけっ放しで行ったんかなー」とあわてて部屋に入るとコタツに座ってラーメンを食べている奨励会員が居た。「お帰りなさい」と彼は言いながら、勝手にフトンを敷いて寝てしまうのであった。「いつからおったんや」とノブちゃんが聞くと、「3日前から」

 それ以来、森邸は奨励会員の宿泊施設となってしまった。気の毒なノブちゃん。

きめ打ちノブちゃん

 森信雄五段。昭和27年生まれの32歳、血液型はB型。51年に四段になり今年五段に昇段。55年、新人王戦で島五段(当時四段)を破り優勝したのは記憶に新しい。感覚的将棋で、相手の心理状態をヨミ取るのがうまい。

 1図は新鋭森下四段との昇降級リーグ戦。先手が▲8六角と上がったのに対しノブちゃんが△4五歩と突いた局面。

森森下

 実戦では以下▲7七桂△4二角▲6五歩と進んだが、△4五歩に対して▲4六歩とされると以下△同歩▲同銀と進み、どう応じても先手よしであった。このことをあとでノブちゃんに聞くと、「先手は▲8六角と上がった所、角筋が恐いので必ず▲7七桂と来ると思った」との答え。このきめ打ちを我々は”きめ打ちノブちゃん”と呼ぶ。

簡単や1・2・3

 また、ノブちゃんは詰将棋創作がうまい。週刊将棋の詰将棋コーナーを担当しているほどである。森五段の詰将棋は形がよく、適度に紛れがあり、好作が多い。その中から一作見ていただこう。2図は週刊将棋に出題された作品で、初級コースとのこと。短手数ではあるが、盲点に入ると仲々やっかいだ(解答は最後に)。ノブちゃんは作るのも早いが、解くのも早い。

森森下2

 しかし、たまに詰まない時などはすぐにわかる。それは「なんや簡単やー」と言った時で、手数を数えだしたら全くわからない時である。

 ある時、誰かがむずかしい詰将棋を棋士室で出していると、そこへ現れたノブちゃん、図をチラッと見て「詰んだ!」と叫んだ。皆、驚いて「森先生、一体何手で詰むんですか?」と聞くと、「1・2・3」と数えだす。しばらくして「まてよ!2・4・6・8あれ?おかしいな」こう言いながら1時間以上手数を数えている。これを”ノブちゃんの一人言”という。

大勢力!森研究会

 関西には4大研究会があるが、その一つに”モリケン”と呼ばれる森研究会がある。メンバーは福崎七段、南六段、東六段、森五段、浦野四段、野田三段、神崎、森本両二段、谷川、平藤、野間各初段の総勢11名の大所帯である。毎月、第2、第4土曜日、森邸で行われているが、皆仲良くやって、有意義な会になっているようだ。ここに集まっている人達も森五段のいや、ノブちゃんの人柄に惹かれているらしい。この東、森幹事がいる限り関西奨励会はこれからも、素晴らしい人材を輩出するに違いない。

〔詰将棋解答〕

▲3三金△2四玉▲2二金△4二飛▲2三角成まで5手詰め

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現在の自動改札であれば、森信雄五段(当時)は未使用の切符を失わなくても済んでいたかもしれない。

それにしても、切符と忘れ物の二重の衝撃、「一難去ってまた一難」あるいは「 弱り目に祟り目」という言葉がピッタリくるような局面。

かなり昔のことではあるけれども、本当に森信雄五段が気の毒だ。

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村山聖少年は、この年の4月までは師匠の森信雄五段の部屋に一緒に住んでいたが、この頃は、広島の実家から奨励会に通っていた時期。

入退院を繰り返す村山少年を心配し、森信雄五段と住友病院の山本医師が話し合って決めたことだったと「聖の青春」には書かれている。

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当時の村山聖5級の奨励会での勝敗記録を見ると、

12月前半 ◯◯◯
12月後半   休
1月       休
2月前半    休◯●●
2月後半3月 休◯●●◯◯●
4月まで  ●●◯◯●◯●◯◯●●◯◯●
5月まで  ◯●◯◯●●◯◯●◯◯◯◯●◯

初めての例会では3連勝したものの、その後に入院。病院から例会に通うことも多かった。

森信雄五段と山本医師の判断は正しく、広島に戻って以降、村山5級は調子を上げ、6月に4級、8月に3級、9月に2級とスピード昇級。村山少年が大阪に戻るのを決意するのは、この翌年の暮のこととなる。