佐藤康光名人(当時)「私の将棋は全面的に彼に認められていなかったと思う」

将棋世界1998年10月号、佐藤康光名人(当時)の村山聖九段追悼文「村山さんのこと」より。

 村山死す、の報は8月10日、連盟で所用を終え、お昼を食べに行こうとした時に知らされた。

 私は彼の病状を詳しく知らなかったが、気にしてはいなかった。そんな事がある訳がないと思っていた。彼と最後に会ったのは4月16日、羽生-森内の全日プロ決勝を観戦に行った時。普段と変わりなく熱心に検討する姿があった。あれからわずか4ヵ月。本当に突然であった。

 彼との最初の出会いはいつだったか。小学生の時対戦している筈だが覚えがない。私が東京に来たこともあり、彼の存在をはっきり知るようになったのは彼が四段になってから。程なく私もプロになった。

 順位戦参加は同じ昭和62年。彼は1期で昇った。以来、追いついては離されを繰り返した。

 彼とは2人で酒を飲んだり、遊んだりという事は一度もなかった。牽制しあう所があり、必ず誰かをはさんで行動していた。麻雀は何回か打った。

 彼がA級になり東京に出てきた頃、彼が泥酔した事があった。私と滝先生(誠一郎七段)が彼のマンションへ運んでいったのだが車中、ゲーゲーとやられて参った。私の新車なのである。しばらく匂いがとれず困ったことがあったが今となっては懐かしい。

 私の推測だが、私の将棋は全面的に彼に認められていなかったと思う。彼にとっては羽生さんしか眼中になかったかもしれないが。何げない一言や行動でそれを感じていた。彼は即興の将棋は嫌っていた。私の将棋は多少、そういう面を持っている。

 そうであれば仕方がない。手段は一つ。対局で盤を挟み、徹底的に叩きのめす他はない。私も燃えたぎっていた。

 図は彼との最後の将棋。1月13日全日プロ準々決勝。

村山佐藤

 ここから△8六桂▲8八香と進む。仲々迫力ある応酬と思う。以下数転したが私が幸いした。感想戦が終わり私が席を立ち、廊下から振り返ると彼がまだ座っていたのが印象に残っている。

 大舞台で当たる機会も多くなり、いよいよこれからしのぎを削ろうかという時。

 本当に残念でならない。

 合掌

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佐藤康光名人(当時)と村山聖八段(当時)の関係は、羽生善治四冠と村山聖八段の関係とは一味も二味も異なったものになっている。

佐藤康光新名人の誕生が6月18日、佐藤名人が村山聖九段の逝去を知ったのが8月10日、名人に就いてから1ヵ月と3週間後のこと。

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「聖の青春」で大崎善生さんは、「佐藤名人誕生の譜はおそらくは村山に希望と絶望の両方を与えたことだろう。自分よりもいつも後ろを歩いていた人間に追い越され名人を奪われた絶望、その人間が名人を奪ったことによる自分自身への希望」と書いている。

佐藤名人の側から見ても、これから幾度となく戦い、徹底的に叩きのめさなければと思い続けていた時の村山九段の死。

ライバルの死に対する無念さが、佐藤康光名人の文章から溢れ出ている。