「巨匠が語る将棋界今昔 木村義雄 VS 倉島竹二郎」(3)

将棋世界1985年7月号、名棋士を訪ねて「巨匠が語る将棋界今昔 木村義雄 VS 倉島竹二郎」(後編)より。

倉島 昔、内弟子というのがありましたけど、木村先生は内弟子をしていないんですね。

木村 私はないんだ。何と言っても、東京に家があったから。そこから関根名人の所に行ったりしてたね。

倉島 しかし、木村先生を別にして、内弟子生活をした人が大抵偉くなっていますね。内弟子というのは、教えてもらうんじゃなくて、ただ棋士の生活がどんなものか知らされるんでしょう。

木村 そうです。我々で言えば、土居八段、金八段、花田八段なんて、みんな地方から出て来て、内弟子になってたもんです。

倉島 それから、升田さん、大山さん、今の中原さんも内弟子でしょ。一流の棋士には、そういう人がなり易いって言われたものですよ。

木村 そりゃそうだよ。内弟子をして、いい加減じゃあ、自分が恥ずかしいから一生懸命やるからね。それに内弟子をしていれば、先生の所に居るんだから本もいろいろあるだろうし、他の先生方がお出でになっても話を聞くだろうしね。すべて周囲が将棋だから。

我々の時代は名人の指した将棋なんてありゃしない。八段の将棋、七段の将棋だって、年に二局か三局あればいいだろうね。ぼくが覚えがない位だから、それほど高段者の将棋が少なかった。その代わり、昔は新聞社が大きく取り上げたね。

私が学んだ時代の棋士は、そういう年に二局か三局しかない高段者の将棋を並べて検討するわけだ。今なんか日常茶飯事で、ざらにあるだろうけどね。阪田翁と関根先生の将棋だとか、阪田翁と金さんの指した将棋だっていえば、こっちからも、あっちからも研究したものだ。それだけに早く身に付いたろうね。今みたいにあやふやじゃないから。今とそういう点が違うんじゃない?だから、こんなに高段の将棋があるのも良し悪しだという気がするね。

倉島 昔はみんな木村名人を目標としていましたね。それで木村名人を倒そうとしたのが升田さんですね。自伝を読むと、南洋のポナペ島の守備兵の頃、夜になるとお月さんを見ながら、お月さんが将棋を知っていたら棋譜を託して、木村さんと心ゆくばかり将棋を指してから、死にたいと思ったと書いていますよ。ぼくはその点で升田さんというのは立派だと思いますね。これはまた違うけど、弟弟子の大山さんは小さい時に木村先生の「将棋大観」で勉強したそうです。

木村 ぼくが著した将棋大観で勉強したっていうから随分だねえ。古いんだよ、ぼくは(笑)。

ぼくは本よりも、一局一局の将棋を一生懸命指して、済んだ後の将棋をいろいろと自分で工夫していました。その代わり、一番一番の打ち込み方は違っていた。それは真剣に打ち込んでいた。

ことにぼくの場合は貧乏だったりしたから。あの自分は勝ち継ぎ将棋といって、勝ったらまた後に指せるけど、負けたらそれっきりだから、どうしても勝たなきゃいけないっていうんで、それが修行になったね。

名人を取られた頃

倉島 文藝春秋から十年程前に出た「昭和を作った七百人」という本があるんですが、それに先生の事を書いたんです。

終戦後、先生が塚田さんに負けた時に(昭和二十二年、第六期名人戦)、「夕刊みやこ」という新聞社の社長が、木村名人に会わしてくれって言うので、私が社長と先生を会わしたんですよ。その社長は、資金とか宣伝とかすべて受け持ちますから、先生に第一回の参議院の選挙に出てくださいと言うんです。木村名人の声望をもってすれば全国区に、いっぺんに当選するわけです。

塚田さんに負けて、経済的にも困っている時だから、飛びつくかと思ったら、「私は将棋指しです。恩師の関根先生は将棋界のために一生を尽くした人だし、私も関根先生のご恩に報いるために将棋ひと筋で行きます」って、先生は言いましたよ。私はえらい感心しちゃってね、それを書いたんですよ。

木村 終戦後、参議院選挙に出ろって随分来たよ。でもね、戦争に負けて将棋界がどん底に落こったような時でしょ。だから、必ずなれるから出ろって言われたけど、私はやっぱり将棋界をよくしなければならない。その責任がぼくにありますからって言って、みんな断った。他に断り用がないから、それで断れば、みんなももっともと思うだろうと思ってね。

倉島 あんまり、何もかもやると、名人という最高の位置に就くのはなかなか難しいんじゃないかと思いますよ。それはね、菊池寛先生が木村先生のことを、会社なら重役、軍人なら将官、何でもトップクラスになれる人だと言いましたよ。だけど先生は将棋ひと筋でやってきたんだから。何にしても、ひと筋で行くっていうのが大事じゃないですか。

木村 そうだねえ。ところで、菊池先生というと、ぼくは三ヶ月将棋をお教えに通ったことがある。「ぼくは将棋に少し興味を持った。学びたいと思うから、三ヶ月間来てくれないか」と終戦後、手紙をくれた。先生が動坂にいる時だよ。とにかく、お目にかからなけりゃあ分からないと思って、動坂に訪ねて行ったの。

その時、「今、ちょっと客がいるけど、これは気のおける人じゃないから」と言ってお会いしたのが、後に参議院議員になった山本有三先生。

倉島 あの人も将棋が好きですね。

木村 それで、菊池先生が雑誌か何かにああいうことを書いたんですよ。すっかり有名になっちゃってね。菊池寛がこう言っている。木村は何をやっても、とにかく一応成ると。どうも、すっかり借金をしょい込んだように思ったね(笑)。でも、これだけひいきにしてくれるんだから、菊池先生のご好意に対しても、いい加減じゃいけないと思った。

倉島 菊池先生というのは、偉い先生でしたよ。私が新聞社やめて困った時、先生がずっと仕送りをしてくれたんですよ。将棋が好きで、私がその将棋仲間というだけですよ。本当にたいした先生だったな。

木村 三ヶ月通った後も、ちょくちょくお目にかかったけど、あの先生は将棋界のために随分尽くして下さった。

倉島 そりゃあ大したもんですよ。あのひとが居たために、どんなに将棋界が盛んになったか。

名人を取り返す

倉島 私が木村先生の態度が一番立派だと思ったのは第八期名人戦の第四局、湯河原でやった時ですね(編注・昭和二十四年、この時だけ五番勝負だった)。先生が最初負けて、豊川で勝って、和歌山で負けました。その時に近所に会があって、先生が出かけて、下駄を取られたでしょ。

木村 そんなことがあった(笑)。

倉島 誰かが履いて行っちゃったんだ。それで、帰りには帽子を忘れちゃって、「頭と足を取られるようじゃ、だめだよ」って電車かどこかで言ったことがありますよ(笑)。

しかし、次の第四局の時、前日に私が湯河原に着いて、挨拶に部屋に行ったら、先生は本を読んでいたけど、実にいい姿でしたよ。それで湯河原ではね返したんです。その時、先生が名人戦を勝つように思いましたね。ぼくは、あんまり有名じゃないけど第四局が一番いいと思ってますよ。

木村 あれはよく指している。いよいよ最後ってときに、あれは誰が発案したのかね。やっぱり阿部真之介さんだね。黒崎さんがやってきて、今度是非宮中で指してもらいたいと。

倉島 済寧館というところで、お城将棋ですね。これに勝って名人位を取り返したわけですが、この時だけ五番勝負だったのはどういうわけですか。

木村 終戦後で食事から何から不自由なので、きっと短縮したんだろうね。これはしょうがないよ。対局者が勝手に決められないからね。

引退して十四世名人に

倉島 先生が強い時は別として、大阪の羽衣荘で大山さんに負けた時も思い出しますね(編注・昭和二十七年、第十一期名人戦第五局、大山新名人誕生)。この時は朝日が名人戦を持っていたんです。自分に関係ない将棋だったけど、ひょっとしたら木村先生負けるんじゃないかと予感がして、長いお付き合いだから、自腹を切って羽衣荘に行っていたんです。

そうしたら、朝日の戸川常雄さんがNHKラジオの新旧名人対談放送の司会をその場で私にやってくれって言うんですよ。先生は「大山さんおめでとう」と言ってました。大山さんは木村名人の将棋大観で学んだ人だし、お師匠さんの木見さんに「木村さんのようになるんだよ」と言われた人に勝って、初めて名人の箱根越えを果たしたわけで、感極まって何も言えないんですよ。

そしたら先生が「私は自分があまり弱くならないうちに、自分より強い者を出すのが自分の務めだと思っています。今度、しかるべき人が出てきて、うれしい。きっと関根先生も喜んでくださるでしょう」とおっしゃっていましたよ。

木村 関根先生はいつも私に、若くて強い者が出なければ、将棋界は盛んにならないと言ってました。だから私も自分を負かす者を作るのが、務めだという考え方を早くから持っていたね。

ただ、私は将棋界をよくしようと思っていたから、あらゆる方面と付き合いをしていた。交遊が多いんだ。その代わり働かなきゃやっていけないんだから、一生懸命働いていたんだが、やっぱり疲れてくるんだね。それと、ぼくは名人だから名人戦さえ負けなければ、名人になっていられる。これが実力名人制度だから、これを頑張り通さなければいけないなと思っていた。ちょうど升田君が出てくる時分だったかね。他の将棋は時に負けてもいいが、名人戦だけは負けない。そういう考え方でいて、名人戦を負けたから、やめちゃったわけだ。

だから大山さんも升田君も私がやっているうちは容易に勝てなかった。でも、やっぱり年も大山さんとじゃ二十も違うし、升田君とじゃ十いくつか違う。若い者を相手にして来たから、疲れちゃうんだね。

倉島 木村先生ほど引き際のきれいな人もいなかった。大山さんに負けたら、すぐ引いたんです。銀座の交詢社という所で先生を慰労する会があって、私も呼ばれて行ったんですが、ひょっとしてここで先生は引退を発表するのかと思ったんですよ。その時は引退の声明はなかった。元総理大臣の芦田均さんが、負けっぷりが木村さん大変いいから、政治家もこれに習わなければいけないと演説しましたよ。みんな拍手喝采してね。それからまもなく、上野の寛永寺で物故棋士追善将棋大会があって。

木村 十四世名人になっちゃった。

(つづく)

——–

歴代の永世名人の初めて名人になった年を調べてみた。

一世 大橋宗桂(初代) 1612
二世 大橋宗古(二代) 1634
三世 伊藤宗看(初代) 1654
四世 大橋宗桂(五代) 1691
五世 伊藤宗印(二代) 1713
六世 大橋宗与(三代) 1723
七世 伊藤宗看(三代) 1728
八世 大橋宗桂(九代) 1789
九世 大橋宗英(六代) 1799
十世 伊藤宗看(六代) 1825
十一世 伊藤宗印(八代)1879
十二世 小野五平 1898
十三世 関根金次郎 1921
十四世 木村義雄 1938
十五世 大山康晴 1952
十六世 中原 誠     1972
十七世 谷川浩司   1983
十八世 森内俊之   2002
十九世 羽生善治   1994

こうやって見ると、すごい迫力だ。

——–

中原名人→谷川名人→羽生名人の名人初回獲得年が11年の等差数列になっている。

羽生名人が初めて名人を獲得した1994年の11年後の2005年は森内名人在位の年。

中原名人が初めて名人を獲得した1972年の11年前の1961年は大山名人在位の年。

1961年の11年前の1950年は木村名人在位の年。

1950年以降、11年を足し続けた年に名人在位の棋士が永世名人になっているという規則性が現在のところはあるようだ。(1951年以降、11年を足し続けた年も、この規則性が成立している)

このような法則が成り立つと仮定すると、直近の2005年または2006年の11年後は2016年か2017年。

来年あるいは再来年は、

  • まだ永世名人有資格ではない棋士が名人であった場合、永世名人になる可能性が高い
  • 永世名人有資格棋士が名人位を防衛または奪取する

のどちらかになる可能性が高いということになる。

もちろん、この計算は今までそうだったというだけであり、全く理論的ではないわけだが……