将棋世界1992年9月号、先崎学五段(当時)の「先チャンにおまかせ みちのく、夢の特券勝負」より。
6月26日の金曜日、一人でふらりと東北新幹線に乗った。お喋り好きで退屈を極度に嫌う僕にとって、連れなしで旅行をすることなど、対局の時以外は滅多にあるものではない。
僅か1時間40分で福島に着いた。早いもんだ。『サンケイスポーツ』紙の片山良三記者に迎えに来てもらい、一緒に夕食を食べる。片山記者は花村門下で奨励会に長年在籍したが年齢制限で退会、その後競馬記者へと聞いたこともないトラバーユをして大成功。いまや若手騎手のことを書かせたら右に出るものはないとまでいわれている有名人になった。顔がプロレスラーのハルク・ホーガンにちょっと似ている(と思っているのは僕だけらしい)。
僕は夏の暑さに異常に弱いので、毎年8月の終わりに函館に避暑に出掛ける。目的は、当然、競輪競馬観戦である。片山記者も同時期に函館で仕事をすることが多く、よくお世話になる。
1年前だったか2年前だったか、とにかく暑い夏だった。僕は、中村さん、郷田君と函館に2週間滞在した。2週間も同じ場所にいつづければ、馴染みの飲み屋の一軒もできるものだ。連日、いかの踊り食いやミソラーメンを食べた後、夜の街に打って出た。
ある時、片山記者も含めて4人で酒を飲んでいて、はじめは延々と毒にも薬にもならないような会話をしていたが、突然、中村さんと郷田の二人が大口論をはじめたことがある。しかも将棋の話、でだ。
碁盤と将棋盤の違い(碁と将棋の違いではない)が話題になっていた。
「将棋盤と碁盤の一番の違いって分かる?」
中村さんが胸を張っていった。「碁盤には四隅に星っていう点があって漆が盛ってあるだろ、将棋にはあれはない」
「ちょっと待って」ここまで無口だった郷田がいった。「将棋盤にだって4つありますよ」
「いやないよ」中村さんも相当な意地っ張りである。「そんなものは見たことがない」
さあ大変である。毎日将棋盤とニラメッコしている棋士が、そんなものは見たことがないといい出したのである。さて皆さん。家の隅にある将棋盤(木でできたもの)を引張り出して見ていただきたい。
「中村さん、何年将棋やってんですか、あるものはあります」
将棋界は比較的先輩後輩の序列にうるさいところだが、郷田は、生まれてから一度も後ろに引いたことのない男である。
しかし中村さんも反撃する。
「いや、ない。絶対に、ない」
「ちょっと待って下さい」ついに郷田がプッツン来たようだ。
「中村さん、今、絶対、っていいましたね。じゃあ100万円と100円で賭けましょう、点があったら100万円ください。なかったら100円はらいますから、いいですね」
「はあー意味がわからないですけど」
「だって絶対、っていったじゃないすか、絶対ということは、100%っていうことでしょ。100%ならば、100円と100万円でもいいじゃないですか」
将棋指しが3人も集ってこんな会話をするのも阿呆な話だが、なにげない絶対という一言に鋭く突っ込んでカラムあたりは鬼神のような迫力が感じられた。
結局、喧嘩しても仕方ないし、100万円の件はなんとか郷田をなだめて、誰かに訊こうということになり、さっそく、飲み屋から羽生の家に電話がかけられた。
「もしもし、先崎でんがな、ねてた?」
「はあ、ねてましたけど、こんな遅くになんじゃらほいほい」
「じつは、これこれしかじか……で、どうおもいまっか」
「……なにかと思えば……馬鹿馬鹿しくて盤を見る気もしないけど、多分、あるんちがう」
この話を伝えたときの郷田の嬉しそうな顔ったら!だが、中村さんも一廉の勝負師である。あくまで引かない。
「羽生時代もこれで終わった」
こんなもんで終わってたまるか。
もう結論はお分かりでしょう。そう、ある、のである。
中村さんも旅すがら、気づいたようだったが、あれだけ主張しては引込みもつかず、東京に帰ってからも、盤をみるのは怖いので、雑誌や棋譜だけで勉強をしたそうである。そして、帰京しての初戦、連盟で、朝、盤を見てそのまま貧血で倒れたという噂が流れたものだ。
金曜の夜は、定宿の旅館『花里』に泊まり、11時には床に入った。こんなに早く寝ることは、対局の前日以外は滅多にあるものではなく、目を閉じても、なかなか頭が冷えてこない。
(中略)
至福の朝は、8時におとずれた。都会の、マンションに反射される朝日に慣れている僕にとって、日本旅館のさわやかなまぶしさは無意識のうちに深呼吸をさせるに充分だった。ましてや、今日は一日中競馬をぶてるのである。
すぐに朝食。『花里』の食事は、朝夜を問わず、特別に豪華というわけでもないが、一つ一つの料理がおいしく、期待をはずされたことがない。ふと、2年前、中村さんと谷川さんとここで食べた朝食のことを思い出した。谷川さん、財布を落としてしょんぼりしていたっけ。中村さんは今の奥さんと恋愛中で、いつのまにかいなくなっちゃったっけ。そして僕は競馬で大勝ちしたっけ……。
ご飯を3杯おかわりした。4杯目に、お茶漬けをどんぶりで食べた。僕の気分は、完璧、だった。ルンルンしていた。
車で競馬場へと向かう。車の中で、景気づけに、昨日買っておいたビールのミニ缶をのむ。ユーミンの歌じゃないが、右手に競馬新聞、左手にビール缶。
人はそれぞれの趣味に、それぞれのスタンスがあると思うが、僕の競輪と競馬に対するスタンスの違いを一言でいうと、競輪は仕事、競馬は遊び、である。もっとも競輪も、トータルではかなりやられているのだが―。
わかりやすくいうと、競馬は、負けても楽しいのである。一日遊んだんだからこのくらいは仕方ないやという気になる。したがって張り(賭ける金額)も少ない。競輪は、行くからには、なにがなんでも多く勝ってやろうと考えながらやる。あぶく銭を求めているといえる。そのかわり、負けたときのダメージは競馬とくらべ計り知れなくなる。気分的にも金銭的にも、ガクッとくる。
僕は競馬で1レース5千円は滅多に買わない。したがって、1日1回も当たらなくても、まあメイン・レースは2万円くらい買うとしても6、7万円負けるだけですむ。これなら将棋一局勝てば充分おつりがくる。ピクニックのようなものだ。皆さんだって子連れでディズニー・ランドなんかいけば軽く数万円はかかるでしょう。
1レース。アラブ3歳、未勝利。こんなものがわかるものか。片山記者に訊いても、一言。「昼まで寝てたら」
ようするに、予想ができるが、自信はないので教えられない、というのだ。すぐに信じて、バッと買ってしまう僕の単純な性格をよく知っている。
競輪だと、ここで、買わずに、見をすることができるのだが、競馬は、遊び、なのだから、それはできない。僕は、レースを買わずに見たことがない。
⑦番シュウザンライナー号の単勝を1,000円。買ってから気づいたが、一番人気で2倍ちょっとしかつかない。よく見れば良かったが、僕は、このようなわけのわからないレースでは、一番長い名前の馬を買う癖があるのである。
結果いいとことなく4着。まあいいや。
2レース。またしても一番長い名前のプロミネントレディ号の単勝2,000円。今度は穴馬で、60倍はつく。来たら12万円。
この馬に乗っている中舘騎手は好きな騎手である。顔が童顔で、同じ境遇の僕には親しみが持てる。
一番長い名前と好きな騎手というだけでそうくるものか。9着。
3レースはちょっと気があり、人気のミヨコ号から穴勝負をかけた。
単勝まで買ってレースを見る。おもわず声が出る。「ミヨコ、頑張れ!」小学校の運動会みたいだ。
ああ天はわれを見捨てたり。僕の愛するミヨコちゃん、直線で頭差差せずの2着。しかも……。僕は1着になった6枠⑨番パラストマリン号との連複を馬連でも枠連でも持っていないのである。全身の毛細血管から汗がふき出た。
「こら大西(パラストマリンの騎手)、余計なことしやがって、おいミヨコ、肉にすんぞ、こん畜生」
読者の皆さん。いくら血迷っても、こういうことをいうのはやめましょう(お互いに)。ごめんねミヨコちゃん。
怒ってもしょうがないので、食堂でしめじ弁当を食べる。まだまだこれから……と自らをなぐさめた。
たんたんとレースがすすむ。4レースは200倍の大穴。6レースで、やっとかすったが、10.6倍の単勝を2,000円だけ。
7、8、9とアララララで、今日は駄目か―このまま馬群に沈むのか―と思ったが、10レースを前に、朝、片山記者に言われた一言を思い出した。
「10レースはいいぞ。3頭で間違いない」
片山記者がいうに、16頭も出走しているこのレースであるが、⑩番のホウザンライデン、⑦番のイナドタイガー、⑭番のピエルマリー、以上3頭の力が抜けているというのだ。
血が昇って、忘れかけていたこの一言をすんでのところで思い出したのは、一度は見放した神が、やはりあわれに思ったのか。とにかく、溺れる者は記者をも頼る?で、そのまま3点で勝負した。
やったね!お待たせの大ヒット。1着にこの3頭では一番人気薄のホウザンちゃん。2着にイナドちゃんと入って⑦-⑩。ホーガン記者のアックス・ボンバー的中。僕は、この28.8倍ついた馬券を5,000円もっていた。ウハウハグヒェグヒェ。
この後、おまけに12レースも取って、結局10万円余の浮き。どんなもんだい!
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ここに出てくるサンケイスポーツの片山良三記者は、最近の記事でおなじみの「関東奨励会だより」を書いていた銀遊子さん。
片山さんは羽生善治名人が四段になった後に競馬界へ移り、騎手デビューしたばかりの武豊騎手の初代番記者となるのだから、すごい巡り合わせが続いたことになる。
先崎学五段(当時)が片山記者の予想を聞いて28.8倍の馬券を当ててしまうのだから、これもすごい。
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「点のある・ない論争」は歴史的には、1990年に中村修七段(当時)、1998年に先崎学六段(当時)によって書かれており、この文は1992年バージョン。3つを併せて読めば、「点のある・ない論争」の全てがわかる。
→点のある・ない論争(1998年)
→「点のある・ない論争」・・・中村修七段(当時)の独白(1990年)