将棋世界1983年5月号、故・能智映さんの「碁盤が机がわり」より。
書きたいよ
ベストセラーといえば、いつか佐藤大五郎八段が自慢気にいっていた。「わたしの著書出版点数は大山先生に次いで第2位だ」と。
「大五郎って名が受けるんだよ。親に感謝しなくてはね」とつぶやいたことばに、わたしは感銘した。だが、その大五郎さん、3年ほどあとの最近、こんどは不満気につぶやくのである。「最近はだめになってきた。中原と米長がじゃんじゃん出すんで、オレは4位に落っこちちゃった」
明るい彼らしい。
たしかに中原の本は出ている。わたしが共同執筆で出版した「名人・中原誠」(新潮文庫)だって、10万部は軽く超えた。しかし、この人たちはべらぼうに忙しい。だれもかれもが、自戦記などでゴーストライターをつかっている。これは囲碁の世界でもそうだ。
しかし、それはそれ。中原といっしょに旅をしていて面白い話をきいたことがある。
将棋世界誌だったと思う。静かにゆれる汽車の中で読んでいた。隣では中原がまったく静かに読書している。そんな図を想像してほしい。
わたしの見ている雑誌に中原の自戦記が載っていた。じっくり読んで、隣に話かけた。
「これ、やわらかくて面白いじゃない」
読んでいた本から、やんわりと目をはずした中原、にこっと例のきれいな笑いを見せていう。「えっ、わかりますか?忙しいときには口述筆記でだれかに書いてもらっているんですが、これは自分で書いたんです。ほめてもらってうれしいな」
いかにも実直な中原らしい感想だ。その微笑みが今でも脳裏に残っている。
棋士たちは忙しいから、けっこうゴーストライターを使っている。将棋の世界はまだ及ばないが、囲碁界では年収1,000万円を越えるライターが「6人ほどいるよ」ときいた。
これも木更津対局のときだった。なんの拍子か、中原が先輩の内藤に話しかけた。
「内藤さんだって、ライターに書いてもらうってことはあるでしょ。でも、あれはけっこう時間やテマがかかるんですよね。研究したあとに、しゃべって、書いてもらったものを読んで確認するんですよね。その上に図面まで書かされちゃうんじゃあ、自分でやったほうがよっぽど楽だと思うんだけど―」
忙しい棋士たちだから、これはやむを得ないと思う。内藤の思考をとめて「そりゃ、そうや」と深くうなずいた。しかし彼らは時間のある限り書いている。ほんとうは自ら書いてファンに訴えたいのだ。
毎日一本
決して不満気にいった話ではない。中原が「ふっふっふっ」とふくみ笑いしながらもらしてくれた古いエピソードを披露させてもらいたい。
中原は小学4年の秋、塩釜市から単身上京して高柳敏夫八段の内弟子となったことは、将棋ファンならだれでもご存知だろう。
筆の立つ芹沢や中原を育てあげた高柳は、自身よく本を読み、能筆家だ。芹沢のペンネームが「鴨」なら、師の高柳は「又四郎」の名で王座戦などの観戦記を永く書いている。ところが、これが幼い中原を泣かせることになる。
とにかく筆が遅いのである。例外はあっても普通、観戦記者は原稿を一局まとめて書く。そのほうが筆に勢いがつくし、同じようなことを二度書く心配もない。わたしなども”担当記者で将棋が一番弱い”こともあって遅いほうだが、だいたい4、5時間で一局分は仕上げてしまう。だが、この高柳は貴族的といおうか、まことにもって悠長だ。当の本人からも最近きいた。「だいたい1日1譜ですね。それも締め切りが迫ってこないとやる気が起こらないんですよ」
それもいい。そういう書き方のほうがていねいな文章ができるかもしれない。「でもねえ」というのは弟子の中原だ。ある意味で、なつかしさもあるといった顔つきだ。
「先生は若いころ、身体をこわされていたこともあったんでしょうが、寝そべってマクラの上で原稿を書くんですよ。しかも、締め切りぎりぎりのを1譜ずつですからね」
たくさんの俊英を育てた高柳だから、当然弟子思いだ。それでも「短気な面もあるから、相当に乱暴だよ」と一番弟子の芹沢がいうから確かだ。―どの世界でもそうだが、芸の道では”師匠といえば親も同然”、いや親以上である。高柳が寝そべって書く”平安ムード”の中にも、弟子に対するきびしい姿勢は厳然とあった。芹沢が「内弟子をしているころ”生意気いうな!”って果物ナイフを投げつけられたこともあった」というから、それは火のようなものだ。芹沢は続ける。
「中原はまだいいよ。オレは先生の若いころに内弟子生活を送ったが、中原は先生が余裕を持った時代に内弟子になった」
師匠を尊敬しながら、茶化してみたい芹沢はよくいう。「オレと反対の教育をしたら、中原ができあがっちゃったんだ」。文才がなければいえないせりふだ。
だが、中原にだって”果物ナイフ”は飛んできた。―米長が当時の中原についていう「眼鏡をかけたかわゆい坊や」、その姿が目に浮かぶ。
……東北地方から出てきたばかりの少年が一人、省線(国電=昔はそういった)に乗っている。神宮の森が見える。後楽園球場が視界から消える―。その小さな手に茶封筒がにぎられている。いったい、どこへ行くのだろうか。あとは中原自身の話をきこう。
「高柳先生の観戦記を日経新聞社まで届けに行くのがわたしの仕事の一つだったんです。それが、まとめてならいいんですけど、毎日一本ずつなんです。あれにはまいりましたね」
内弟子生活というのは相当にきつい。普通の子と同じように学校の勉強をしなくてはならないし、将棋の勉強もしいられる。さらに中原には渋谷の高柳道場を手伝う仕事もあった。―その上での原稿届け、いわばお使いさんみたいなものだから、少々腹が立ってもおかしくはない。
つらかったのか、おかしかったのか。これは将棋界では相当に有名な話になっている。つまり中原があっちこっちでしゃべってしまったということにもなる。あとで田中寅彦七段にきいたら「ぼくもその被害者です」とか。宮田利男五段、大島映二四段ら内弟子経験者はみな、そうらしい。
師弟、つまり親以上。「くっくっくっ」と笑いながら、親しみを込めて話すエピソードは、どっかゆとりがあって楽しめる。
ちょうど、この原稿を将棋会館で書いているとき、こんどはわたしが中原に”果物ナイフ”を投げつけられた。その日、王位戦の観戦もやっていた。
書いて見て疲れた。「呑みたくなったなあ。対局者(田中七段)に頼んで、あした感想をきこうかな」とつぶやいたら、そこに中原がいた。最近はいたずらっ気が多い。「そりゃずるい。それどこかに書いちゃお」
いつもわたしが中原のことを書きまくっているのへしっぺ返しだ。
将棋から碁へ
まったく”ふるーい”「将棋世界」を複写する。昭和40年11月号だ。”棋界のエリート”という記事。これが若い中原をうまく表現しているので、何回か引用させてもらった。樋田昭夫氏、いまはあまりお目にかかれない名だが、実はこれ、河口俊彦五段の古いペンネームだ。さわりだけ紹介させてもらう。
「毛なみのよさは、人柄や生活態度だけでなく、将棋にもっともよくあらわれていると思う。秀才らしく、指し手に渋滞がなく、攻めのねらいにくるいがない。いわゆる本格的な、玄人受けのよい将棋である」
おそらく、中原がまだ日経新聞社通いをしていたころ、四段になったばかりの彼を実にうまくとらえ、将来までを見抜いている。
その河口、いろいろなペンネームを持つ。本誌と姉妹誌の「将棋マガジン」で人気ナンバーワンの読みもの「対局日誌」の執筆者も実は河口で、それをまとめて「勝ち将棋鬼の如し」(力富書房)という本も出した。軽快な筆致の裏には、努力もある。
あの「対局日誌」を書くためだろう。とにかく河口はよく将棋を見ている。わたしも週に2回ぐらいは会館に行くが、そのときには必ず河口がいる。それも深夜までだ。
普通の場合、夜中までとぐろを巻いているやからは”呑み友だちを待っている”と思っていい。わたしなど、そのたぐいだ。しかし、河口は違う。対局室と記者室を往復して、若手棋士の意見をきちっときいている。
こんな緻密さが、いい文となって出てくるのかと思う。興味がペン先を動かすといってよかろうか。
妙な場所で河口に会った、なんと囲碁の日本棋院だった。河口は連盟でも屈指の打ち手だ。だから碁打ちの友人も多い。―遊びに来ているのかと思ったら、きいてみると違うのである。「囲碁の観戦に来たんですよ。新人王戦の観戦記をずうっと書いているんです」。そしてあとに出てきた言葉がふるっている。「将棋の観戦記を書くよりもずっとおもしろいですよ」
しつけがうまい
やっぱり最後には”帝王”の大山のことを書かねばなるまい。4年ほど前だったか西日本新聞夕刊の随筆を50本ほどお願いしたことがある。とにかく忙しい人なので、入手がむずかしいかと思っていたのだが、そこはきちょうめんな人、すいすいと入ってくるのにはかえって拍子抜けした。
しかも字がすばらしくきれいなのにも驚かされた。それをいうと、大山はニコッと笑って本当のことを話してくれた。こちらもタイプライターだ。
「いや、女房(昌子夫人)に書かせているんですよ。わたしがだいたいのことを話しておくと、けっこううまくまとめて、4、5本作っておいてくれるんです」
忙しい大山だから、こうでもしなければ50本もの原稿は書けまい。それにしても大山といい、芹沢といい、将棋指したちは”奥さんへのしつけ”がうまいものだと感心せざるをえない。
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たしかに、佐藤大五郎八段の著書は多かった。
その中でも無敵四間飛車 (1985年)は非常に好評だったという。
私が子供の頃は、清野静男七段(当時)の著書が多く書店に並んでいたと思う。
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河口俊彦八段が初期の頃に樋田昭夫というペンネームであったことは、将棋世界2015年6月号、田丸昇九段の「盤上盤外一手有情」でも書かれている。
河口八段のその後のペンネームは川口篤。
将棋マガジンである時期まで「対局日誌」の筆者は川口篤だった。
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高柳敏夫九段(又四郎)の観戦記は好きだった。
午前1時頃、酔っ払って家に帰って、日本経済新聞夕刊の観戦記欄に目を通して、何度か涙が流れてきたことがあった。
酔っ払いながら観戦記を読んで涙を流す私の癖は、又四郎から始まっているのだと思う。