近代将棋1989年12月号、原田泰夫九段の名棋士の思い出「清野静男八段のこと」より。
漫遊天才奇人
大正11年8月14日、新潟県新発田市の生まれ。昭和11年、故木村義雄十四世名人門。24年三段で順位戦に初参加。49年八段。詰将棋の名手。52年8月24日、現役のまま胃癌で死去。享年55歳。
棋士は一般の常識人と比較すればちょっと変わっている。仲間から見ても彼は変人だ奇人だと言われる人がいた。原田6級時代の藤川義夫二段(昭和40年没・追贈七段)に奨励会試合で飛車落惜敗。その藤川さんは世の中で一番身体を使わない仕事は何かと考えて棋士になった。特別用がない限りは柱を背に懐手の姿なので、「雑誌で見たとおり身体を使わない職業ということで背中を柱に懐手なのですか」と本人にきいたら鼻の頭にしわを寄せて否定せずに笑っていた。
清野さんは同年輩中では奇人であった。奇人、変人は根は善人、藤川さんとは反対に活動家であった。損得を超越して東奔西走、初対面でも百年の知己の如くなる才能は抜群であった。
住居を転々、大名遊びをしたり駅のベンチで一夜を明かしたり驚嘆するばかりであった。共に新潟県出身、清野さんは新発田市に近い出湯の生まれ、毎年白鳥が群れをなして訪れる瓢湖は名所として人気が高い。原田はコシヒカリの本場、良寛和尚ゆかりの分水町の生まれ。
北蒲原の清野、西蒲原の原田、未来の八段、名人をめざした少年棋士時代が懐かしい。
性格が違う競争心理の烈しさで彼だけには負けられない闘志が起きた。だが同郷の友情も深く足の軽い彼はよく訪ねて来た。
10代、20代の清野さんは楽しく面白かった。晩年はいらいら、ぱりぴり、めったに爽やかな笑顔を見せなかった。ひょうひょうとして規格外、清野八段一代記はそのまま話題の劇になる。憎めない好敵手であった。
散財を楽しむ
「わしは勝とうと思いばいつでも勝てるんですよ。ただ大きなポカをやって負けることがあるんです」
昭和13年1月9日、奨励会入会第1戦で清野6級対原田6級以来、毎月2回4日と19日「四苦八苦」せよの意、随分戦った。
清野さんは一つ歳上、奨励会員としては二年先輩として原田には負けられない気持が強かった。清野流は独特で序盤は定跡にとらわれない。中盤から寄せ合いをねらう感覚がすばらしい。苦戦の場合の粘りが凄かった。最後の詰むや詰まざるやの場面では奇抜な捨てる妙手順で鮮やかに詰めきられることがあった。右は奨励会時代の印象である。
清野さんのほかには大期喬也、佐藤豊、平野廣吉さんが4級、5級で当たり、半歳、1年後に加藤博二、五十嵐豊一さんが入会した。
「神田先生(当時八段・辰之助九段)と飛香落、樋口さん(義雄四段)と平手で真剣早指しで2円か3円儲けましたよ」
昭和12年当時の2、3円は1、2万円かも知れない。先輩に平手で挑戦、木村-神田の名人戦がある神田先生に真剣で挑戦するところが恐れを知らぬ清野さんであった。
神田先生は豪胆で特に飛香落がお好き、大阪から麹町一番町将棋大成会に到着すると夕食前に「オーイ、清野君一番指そうか」六百坪の屋敷に響く声が慣例のようであった。
「わしの田舎から送金があるとみんなおごらせて、けちな奴は自分の金を出さないんですよ。原田さんとカフェーへ一緒に行ったことはないですが、ずるい人間には注意しなさいよ」
青春時代カフェー通いしたせいか、ナツメロがうまかった。金に関しては類例のない人であった。自分のお金をどう使おうが自由である。お金を全部使いきらないうちは承知できないのか、彼が訪ねる時は、電車賃、車代にも困るからちょっと貸してくれの場面がほとんどであった。
入営前の壮行会
東京-大阪、新潟-東京の汽車、電車の中で隣に婦人と一緒になった。初対面で雑談しているうちに同情して手持ち金をその場であげたり、面白そうな女性なので途中下車して温泉で2、3日楽しんでから上京したという。進呈、遊びの金額は想像以上だ。
いかにも楽しそうな実話物語りだが、そのためにお金がなくなったからなんとかしてくれの頼み、話は面白いが戦前戦中、世の中が苦しい時代、アラブの王様気分で旅に遊ぶ清野流にはどう忠告したらいいものか。
100万、200万を4、5日の遊びで使いきる、現在なら1000万、2000万を一人旅で4、5日で使い切る。まんざら嘘ではない。清野放談がすべて事実なら世の中には清野さんに助けられた女性たち、棋士仲間をはじめ突然ばったり面談した人たちが特別料理と特別サービスを清野会計で楽しんだようである。
同郷の好敵手、対抗意識のせいか清野、原田の旅はない。時には忠告するので彼は原田が煙い存在、当方はとても規格外の自由人にはついてゆけなかった。
太平洋戦争から第二次世界大戦になり米穀配給通帳実施、勤労奉仕法制化など日本は傾きつつある時代、昭和18年暮か19年春か原田が新発田連隊入隊前に生家で壮行会があった。加藤治郎先生、廣津さん、加藤博二さんがわざわざお別れに来て下さった。
この時、清野さんは前からの約束で必ず出席する「今の時代は珍しいものが喜ばれるから雀焼か焼鳥をみやげに持って行きますよ。泊めてもらいますから…」と楽しみにしていた。国上村、現在の分水町に生家がある。
亡き両親は四男坊四段の最後の別れの宴、田舎料理に酒、ビールを沢山用意した。皆さんは盃をあげながら清野さんはどうしたのかと心配した。
来ないのか、あれだけ約束した彼のことだ、ひょっこり現れる予感がした。案のじょう宴たけなわの頃「やあー遅くなったが、やってきましたよ」と約束どおり雀焼をひと山持参したのには驚いた。壮行会のこの夜の感動は忘れられない。
ナツメロを歌う
戦後は東京、岐阜など転々、思いがけない土地から葉書がきた。原田が昭和24年A級八段になった時、彼はまだ三段であった。棋士以外の世界に進むのではないか、終戦直前直後か古賀政男先生と各地を廻ったという。
君恋し。人生の並木路。誰か故郷を想わざる。別れのブルースなど甘い声でうまかった。昭和25年頃、三田小山町の加藤先生宅を拝借、15坪に内弟子が4人、生活苦で世の中が大変な時に「やあー」とご機嫌な彼は彼女と一緒にとめてくれという。これには参った。
清野さんと彼女に四畳半を提供、彼は一ぱい機嫌でダイナ、私の恋人……を歌った。
「わしは勝とうと思いばいつでも勝てるんですよ」と豪語、順位戦に参加して比較的速くB級六段、七段に昇段した。研究なし、出たとこ勝負で相当の成績をとっていた。
詰将棋創作才能は大正生まれでは塚田先生(故名誉十段)と双璧であった。あなたには借りが多いから手伝います。1週間泊めて下さい、二人で今までにない詰将棋の本を作りましょう-そのとおり実現した「新しい詰将棋百題」は今も生きている。
「わしは今度新潟で暮らすのでお別れの挨拶に来ました。一県に一つわしが全国に将棋会館を造るから、あとの地ならしをうまくやって下さい。一つの会館3000万ぐらいでやります」景気のいい話だが夢物語である。
雄大な構想は愉快だが、まず自分の生活を健全に、ご健康を祈り乾杯したことを想い出す。今ごろは親友松田茂行九段と天国で語り合っていることだろう。ご冥福を祈る。
(中略)
人生を夢のように旅を続けた清野さん、花摘む野辺に日は落ちて…ああ誰か故郷を想わざる、彼の甘い歌声がきこえてくる。
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清野静男八段(1922年-1977年)は木村義雄十四世名人門下。
私が将棋に熱中し始めた頃、書店の将棋の本のコーナーには、清野七段(当時)執筆の棋書がたくさん並んでいた。
土佐浩司八段の師匠でもある。
今回、あらためてWikipediaを見てみると、清野八段が得意としたユニークな戦法が現代に甦っているという。
- 端歩突き越しからの端攻め(一間飛車・九間飛車)や単純棒銀→2013年の第62期王将戦七番勝負第1局で佐藤康光王将が採用
- 角桂香飛を集中して美濃囲いを攻める岐阜戦法→2006年の第37期新人王戦決勝で糸谷哲郎四段が採用
- 飛車と金を交換する横歩取りの変化→2015年の叡王戦四段予選で星野良生四段が採用
これはすごいことだ。
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汽車の中で隣に座った女性と短時間のうちに仲良くなれるというのも、そしてそこから更に発展するというのも、なかなかできることではない。
そもそも、毎回隣に女性が座るとは限らず、ましてや適齢(自分の年齢から見て守備範囲)な女性が座ることはもっと少なく、清野奨励会員は数少ない機会を逃すことなく、結果を出していたということになるのだろう。
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私が大学2年の11月頃のこと。
上野から仙台へ向かう夕刻の特急列車、窓際の指定席。
出発間際に、若い女性が隣に座ってきた。
ふと見ると、心が動かされるほどの美しい女性。
少し影のある、今で言えば堀北真希さんをもう少しソフトにした感じだったと思う。
その女性は、駅弁とお茶(この時代なのでポリ茶瓶)をテーブルに置いた。
こんな綺麗な人が隣に座るなんて初めてだ…とドキドキしながら窓の外を見ていたのだが、大宮を過ぎても宇都宮を過ぎても、彼女は弁当にもお茶にも手をつけようとしなかった。本を読むようなこともなく、じっと座っているだけ。
よっぽど何か話しかけようかと窓の外を見ながら何度か思ったのだが、ドキドキして何も話しかけることができない。
そうこうしているうちに、その女性は駅弁とお茶を手に持って二本松で降りて行ってしまった。
あー、、降りて行ってしまうんだ、、、でも、どうして駅弁を食べなかったのだろう。
まだ私がタバコを吸い始めるずっと前のことなので、煙が気になって駅弁を食べなかったということではない。人前で食べるのが嫌だったのかもしれない。
この時は、ガンで入院している父の3度目の見舞いに仙台へ向かっている時。その夏に急に調子が悪くなり、入院して調べてもらうと既に末期状態で手術をすることなく12月下旬に父は亡くなる。
意識不明だった父が、落ち込んでいた私のために、短い時間ではあるけれどもそのような美人を隣に座らせてくれたのかな、と今では思っている。
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このように、ほとんど一目惚れのようなケースでも、隣の席の女性に声をかけるのはハードルが高い。
清野八段は将棋の才能とともに、そのような分野もプロ八段の才能を持っていたのだと思う。