真田丸

NHKの今年の大河ドラマは「真田丸」。

第1回を観たら、想像を超える面白さ。

武田勝頼がとても気の毒になった。平岳大さんの演技が印象的だった。

「真田丸」は1年間、見続けると思う。

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将棋ペンクラブ会報2003年春号、新春対談より。

ホストは高田宏将棋ペンクラブ会長(当時)、ゲストは将棋を世界に広める会理事長の眞田尚裕さん。

高田 真田さんはもうまたかとうんざりされるだろうけれども、松代藩真田家の子孫でいらっしゃる。そのへんのお話をお聞かせ願えますか。
真田 先祖が有名だからと言って子孫に偉いのが出るとは限らないのですけれども(笑) 私はどちらかと言えば平凡なサラリーマンをやっていました。皆さん、真田幸村の話を聞きたいんですよね。で、幸村の話を聞きたい方のほとんどの方が真田十勇士の話を聞きたいという……。
高田 そう、幸村ですね。
高田 猿飛佐助、霧隠才蔵……。
真田 でも、史実では十勇士というのは一人もいなかったと、あれは講談の話ですからね。幸村自身も活躍したのは大阪城の時くらいです。徳川をやっつけた第一次上田合戦というのもあるんですが、この時は父の昌幸が指揮を取ったわけですから幸村にどの程度の力があったか判断できるのは最後の戦い大阪城の時だけなんですね。
高田 ここで有名になりました。
真田 それが講談などで騒がれて天下の名将という話になりました。
高田 おそらく忍者集団ですよね、そういうものを持っていたんでしょうね。諜報とか。
真田 真田の祖先は滋野というんですが、滋野家というのは朝廷から長野へ、目を患って眼病を治しに来た人達だったんです。目が悪い人というのは昔から特殊技術的な部分を担ってきた人が多く、信州のある部分にそういう集団がいたんだということは言われています。
高田 角間渓谷が猿飛佐助が修行した地と。
真田 ここで修行した岩というのが角間温泉にありますね。
高田 角間温泉の手前に霧隠才蔵が修行したと言われる所もあります。何らかの忍者に当たるような選りすぐりの集団を訓練してたんでしょうね。
真田 たとえば十勇士の中には三好晴海入道が出てくるんですがこれが修験者です。その頃、藩をまたがって自由に歩けるのはそのような修験者で、忍者的な諜報という部分を担ってたんでしょうね。十勇士の中には4人そういう人がいます。逆にいうと幸村が使っていた一般の家来が少なかった。九度山へ流された時も家来の名前が16人真田家の記録に残ってるんですけれども、一人も十勇士と符合するような名前はない、霧隠とかいう怪しげなのはいなかった。
高田 あれは講談で作られた名前ですけれども、それに似たような暗号名を持っていたのかもしれませんね。
真田 実際に歴史上子孫を残したのは幸村の兄の信幸(信之)です。関が原の時も大阪城の時も、終始徳川方でした。上田城をつくったのはその父の昌幸で、昌幸の後、信幸がしばらく治めていたのだけれども、徳川秀忠の頃、松代から上田へ移封されたという経緯です。
高田 その直系の子孫でいらっしゃるわけですね。
真田 そういうことになります。信幸から数えて14代目が当代。私のところは親父のところで分家しましたが、12代が私の叔父で従兄弟の子が14代ということになります。
高田 世が世ならば一緒に座っているのが申し訳ないくらいで。叔父さんは戦前華族だったんですか?
真田 伯爵でした。それで真田家に残っていた色々な宝物を松代町に全部寄贈した。刀とか槍とか。
高田 たぶん信幸だと思うんですけれども、侍女に産ませた子が信州飯山の正受庵の正受老人。禅宗の大名僧で、信幸が70か80になってから産ませた子ですよ。国許をはばかって飯山に出して、産まれて寺に入って。正受老人というのは後の白隠禅師のお師匠さんです。正受老人には「一日暮し」という教えがあって、これは万巻の書を読んで辿り着く究極のもので、今日一日を大切に生きよという教えなんですね。この正受老人と真田さんは血がつながってらっしゃる。
真田 なるほど。信幸は93歳まで生きたんです。今でも93といったら大変なんですけど当時の93といったら今の125歳位の感じですね。92歳の時にお家騒動があってそれをうまく収めた。それで疲れて翌年死んだのだと思ってます。
高田 すごい精力もある名君だったんですね。
真田 その信幸が幸村のことを誉めているんですよ。「ことば少なにして、怒りはら立つ事なかりし」と、自分と比べると雲泥の差で幸村の方が上だと言ってるんです。そういうのを聞いて幸村というのは大変な人だと皆さん思ったんだと思います。
高田 なるほど、つまり幸村の宣伝役を信幸がやったんだ。
真田 もっと言えば幸村、信幸の父にあたる昌幸という人が大変な人なんですね。徳川家康が恐れた男と言われてます。昌幸は武田信玄の家来でした。子供の時から人質みたいに武田信玄のそばにいて、戦争、政治、経済など、全部信玄のやりかたを学んだ人だった。信玄というのは武力だけでなく、政治財政面でも非常に優れた武将ですからね。武田家が勝頼の時代になってもろくも滅んだ時に、他の家来は全部殺されたかよその家来になったのですが、独立して大名になり、豊臣と徳川の間をうまく泳ぎ抜いたのが真田です。最近本にも書かれるようになりましたが、昌幸の父が幸隆、これは武辺一辺倒だった。

(以下略)

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真田幸村(信繁)を堺雅人さん、兄の真田信幸を大泉洋さん、父の真田昌幸を草刈正雄さんが演じている。

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眞田尚裕さんは天皇陛下のご学友であり、文藝春秋2005年9月号の特集「運命の八月十五日 56人の証言」の中で、「その時皇太子殿下はおひとりで」を書かれている。

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将棋ペンクラブ会報2003年春号、新春対談の抜粋→今上天皇と将棋