芹沢博文八段(当時)の観戦記(前編)

将棋世界1984年6月号、芹沢博文八段(当時)の第42期名人戦〔谷川浩司名人-森安秀光八段〕第1局観戦記「いずれにしても名人は神戸」より。

 灘蓮照九段が逝った。奇しくも奥様が亡くなって1ヵ月目である。灘先輩は棋才類い稀れなる人であった。恐らくその才、棋界一であろう。その灘先輩が、若き日、我にこう言われた。「将棋は判らん、幾ら学んでも判らん」我も将棋を学んで30有余年、未だに将棋が判らない。

 灘先輩も我も将棋一筋に生きて来たバカ者である。でも将棋は判らぬ。

 その将棋を、外者の物書きが判ったと書く。どうして判ったのだろう。その人達は本業の文筆のことも総て判ったのだろうか。

 観戦記と言う以上、字の通りとすれば、見て書くものであろう。

 私達、谷川浩司名人、森安秀光八段、仲間である。ずっと知っている。棋風から酒の飲み方から全部知っている。

 見なくても書ける。どの手を指す時、どんな気持ちで指すか、どんな手つきで指すか、まで見なくても判る。でも、谷川が、森安が、どんな表情をするか、少し見たいと思って対局場に行った。

 友人の作詞家と一緒であった。この友人に対局場に入ったら口を利いてはいけぬ、タバコを喫ってはいけぬと、この程度の注意はした。谷川と森安に我が友であると告げた。両人、勿論判りましたと言うに決まっている。

 将棋指しは、我が友と紹介すれば、それは我である。その友が対局室から追い出された。

 これは我を追い出したのと同じである。

 幾らなんでも怒らあね。憤然、席を立って友と帰った。

 中原名人がいた。中原に言った。対局室に入ると追い出されるから気をつけろと。中原、何のことか判らずポカンとしていた。

 将棋界には作法があり、その作法通りなら無礼を働かれるいわれはない。

 中原とか、米長、内藤なんかを、そして今指している谷川、森安を追い出そうと言うんなら、やってごらんなさい。やれる人などいるはずもない。

* * *

 怒ってばかりいては将棋は進まん。

 森安はバカの一つ憶えで四間飛車である。バカもここまで徹底すると、ことによると利口かも知れぬ。

 谷川は自然である。水は高きより低きに流れ、そのように自然である。22歳のガキで、こんなに凄い男を見たことがなかった。

 筆者も若き時は名人候補と言われた。本人もそう思った。のぼせ上がって只の八段である。

 真に残念である。将棋の道を選んだのを悔いたこともあった。人の一生、大して時間はない。今度、人として生まれて来るのは何時か判らぬ。つまらぬ道を選んだと悔いたこともあった。だが、谷川と一局でも将棋を指させて貰った。同じ時代に生きた。これだけで、将棋指しになって良かったと思った。素晴らしき男である。恐らく谷川の天下が続く。谷川22歳、何にも将棋を知らぬ。知らなくても名人である。中原にしろ、米長、内藤、加藤にしろ確かに将棋は強い。強いが本人の限界の強さのような気がする。年齢にしても40近くになっている。今の力を持続するだけでも相当大変であろう。寝て起きれば弱くなっているのが恐くて、寝てもいられまい。

 谷川は寝て起きると強くなっている。一日も早く、谷川を倒さなければ、倒せないのはこの一線級の選手は知っているであろう。

 だが恐らく倒せまい。将棋の質が違うのである。将棋とは、究極は”勝ち”を求めるものであるが、谷川にはそれが薄い。勝ちを求める気が強くなると、思考が鈍る。どうしても鈍る。邪心が入るからである。

 谷川は意識してそう出来るほどの知識はないと思う。自然に身に備わったものであろう。

 これ、類い稀れである。

 森安は、自分が大した男でないのを知っている。これ、又、類い稀れである。

 この二人が将棋を指すと、我が将棋知識ではどうなるか判らぬ。我が将棋理論を超えている二人だからである。

 将棋とは深く広いものと知ってはいたが、こんなに難しいとは思わなかった。ですからこれからの我が解説、正しいと思って読まないで下さい。

(つづく)

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芹沢博文八段(当時)が全敗宣言をしたのがこの2年前で、この頃は普通に指していた頃。(順位戦全敗は1982年度、1986年度、1987年度途中まで。1987年12月逝去)

とは言え、全敗宣言をした頃からなのだろうか、歯に衣着せぬ論調はそれ以来変わらない。

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早くから天才と言われ名人を目指していた芹沢九段の、名人になれなかったことの無念さが伝わってくる。

また、芹沢九段は早い段階から谷川浩司九段のことを非常に高く評価していた。

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この観戦記を取り上げたのは、このプロローグもさることながら、棋譜の解説が芹沢九段らしいものであったことから。

明日に続きます。