近代将棋2005年3月号、中野隆義さんの第54期王将戦〔森内俊之王将-羽生善治二冠〕第1局観戦記「驚愕の受け」より。
非凡な着想 森内有利
相振り飛車戦では、矢倉が最良の囲いといわれている。羽生は、序盤で△7三銀と矢倉の骨格を築き最強の構えを目指す。
対する森内の駒組みが秀逸だった。
6筋の位を取り、羽生に△6四歩から△6三金左と組む理想形を許さない。
加えて▲8五歩突きを保留し、8九の桂を▲9七桂~▲8五桂(1図)と跳ね出す絶好の形を実現した。
後手陣の守りの要である銀を直撃し手応えは十分である。
昨年暮れから新年にかけて、森内と羽生は、谷川棋王への挑戦権をかけて戦った。
本戦の決勝で羽生を破り、勝者組の勝ち上がり者となった森内は、敗者復活組から出てくる相手を待った。
出てきたのは羽生だった。
勝者勝ち上がり者の森内は、勝てばすんなり挑戦権獲得という有利な立場であったが、決戦の初戦を羽生に敗れ、年をまたいで戦われた第2局では接戦ながら勝ちを得られず、羽生に棋王挑戦権をさらわれた。
本局は、悔しい敗戦から中三日おいての対戦であった。
棋王挑戦権争いの中で、改めて羽生の強さを身をもって感じながらも期するところ大なるものがあったと思われる。
叩かれてしお垂れるようなヤワでは棋士はつとまらない。尽きることのない反発の心が棋士の生命線だ。
作戦勝ちの局面を前にして、この将棋、是が非でも勝ち切ってやるぞとの思いであったに違いなかった。
羽生は、負けじと森内陣の急所を強襲し1筋を突破するも、攻められながら玉を安全地帯へと逃げ越し、森内は蓄えた手駒を利して勇躍、羽生玉に襲いかかっていった。
森内に決め手が出たぞ 誰もがそう思う飛切りだった
2図=▲7六飛=は、7六にいた後手の桂をもぎ取ったところだ。
後手玉に挟撃態勢で迫った7三の歩と4三の銀が燦然と輝いている。当然と思える△7六同歩に、▲7五桂(参考図)が、それはもう強烈無比の痛打で後手玉に受ける手だてはない。
試みに、▲7五桂に対する抵抗を幾度かしてみたが、番たび、あっという間にくしゃくしゃにされてしまった。
森内快勝、の四文字が脳裏をよぎる。
しかし、誰もが森内勝ちと見たその局面で、羽生はあきらめてはいなかった。
それどころか、恐ろしい手をひねり出し進行を見守る全ての者を、あっと言わせる。
えっ、そんな手が……思いもよらない桂が盤上に現れた
桂をもぎ取って来た飛を放っておいて△5一桂(3図)とは、なんだその手は!と思わず叫んでしまいそうな一手である。
挟撃形を築いている4三の銀に、カッと牙をむいた、これがすごい手だった。
森内はこの手を読んでいたか?おそらく、驚愕の一手となった検討陣と同じく、その思考には入っていなかったものと思われる。
すでに残り8分の秒を読まれている森内には苦吟に沈む時とてなかった。否、持ち時間に余裕があったとしても、ここに至っては有力な善後策がなかったのかも知れない。▲7五飛と飛を助けるのは△4三桂とせっかくの銀を取られ、とてもではないが元気が出ない。
しかし、本譜▲3二銀成は、挟撃の銀が羽生玉から一路遠ざかり、はっきりとした利かされだ。
銀をそっぽに追いやった羽生は、そこで悠々と7六の飛を取り上げた。
森内▲7五桂は局面最大の急所には違いないが、挟撃形の迫力が薄れた上に、5一に打った桂が6三に利いていて、先ほどとは状況が打って変わってしまっていた。そうか、5一の桂は、銀を追った後も玉頭の守りに働いてくるのかと知る。
ことここに至り、逆転のにおいが盤上に立ちこめるのを感じた。
駒とはそれほど利くものなのか 羽生があやつる駒たちは光り輝いた
羽生玉への寄せが遠のいたとはいえ、森内玉も5七に飛び上がってそう易々と寄るようには見えない。
▲6六銀(4図)と自玉に近づいた竜をしかりつけ、ここで一息つくことができれば▲3三馬の詰めろに手を回し、勝負はまだまだこれからと思えた。
そう、羽生の次の一手を見るまでは……。
△8四角(5図)が、痛烈であり辛辣極まりない一手だった。
次に△6六角までの一手詰みがある。
7七の竜を取ることはかなわない。玉が素抜かれてしまうから。
7五に歩合いをしたいが、それは二歩だ。
△8四角は、見れば見るほどに素晴らしい働きをしている。羽生に操られる駒は、どうしてこんなによく利いてくるのだろうか。
1分将棋の秒読みの声にせき立てられながら森内は▲7五銀打と合いをした。泣く泣く打った銀であろう。
その銀を羽生は△同角とはぎ取る。▲同銀の一手に△同香がまた詰めろだ。
▲6六角の抵抗に、すっぱり△同竜と切って落とし▲同歩に△3九角が、激闘の幕を引く一手となった。
投了図からは、▲6八玉は△7七銀▲5九玉△4八銀▲同金引△同角成▲同金△6八金までの即詰みがある。また、▲4八金打と合いをするのでは、△同成香▲同金引△1八飛成で一手一手の寄り筋である。
本局は絶体絶命と見られた局面で羽生が放った△5一桂が全てであった。羽生マジックの神髄を見た思いがする。
七番勝負第2局は、本局の1週間後に行われる。森内は、必ずや、闘志を新たに対局に臨んで来ることだろう。
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3図の瞬間で先手がかなりの駒得(銀2枚と香の交換)をしながら後手玉に迫っているのにもかかわらず、のそっとした感じの△5一桂で世界が反転してしまう。
本当に恐ろしい。
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この中野隆義さんの観戦記も、勝負のヤマ場にフォーカスを当てたスタイル。
ポイントに集中できて、とても読みやすいと思う。
後期の近代将棋では、このようなヤマ場集中型の観戦記が多く掲載されていた。