「先崎、ちょっと飲みにいこう。池崎さんも」

近代将棋2005年6月号、池崎和記さんの「関西つれづれ日記」より。

3月某日

 B級1組最終戦の阿部-先崎戦を取材。週刊将棋の仕事だ。

 ラス前に森下九段のA級復帰が決まったので、昇級枠はあと1つ。東京で北浜七段と対戦している郷田九段が自力で、郷田さんが負けると阿部-先崎戦の勝者が昇級する。そういう状況下で行われた大勝負である。

 この日は井上-行方戦のほかに竜王戦6組の児玉-大平戦もあった。竜王戦の持ち時間は各5時間だが、驚いたことに児玉-大平戦は開始してから1時間もたたないうちに終わってしまった。94手で大平四段の勝ち。

 手数でわかるように、ポカがあったとか、中盤で投了したとか、そういうのではない。両者、早指しでポンポン指し飛ばして一気に終盤までいき、こんな結果になったのだ。

 消費時間は児玉七段の27分に対し、大平四段は「0分」。そう、彼は時間をまったく使わずに先輩棋士をぶっ飛ばしてしまったのだ。早指しの棋士といえば田村五段が有名だが、その彼でも「消費時間ゼロ」はないはず。だからこれは記録的な(大昔にはあったかもしれないが)珍事である。

 児玉さんは早指しの棋士ではない。なのに30分弱しか使ってないのは意外だ。相手のノータイム指しにつられたのか。それとも頭に血が上って冷静さを失っていたのか。

 6図は阿部-先崎戦の終盤。午前0時40分ごろの局面で、この少し前に東京から「郷田勝ち」の報が入っていたが、もちろん対局者は知らない。

阿部先崎

 すでに先手勝勢だが油断していると危ない。例えば▲6四桂では△9六桂▲同歩△8六飛で逆転する。

 実戦は▲6四角(攻防手)△8三飛▲6一角△8二歩▲7三角成△同飛▲8一銀まで先手勝ち。▲6一角からは詰めろの連続で、最終手▲8一銀に△同玉なら▲7二角成で詰む。

 僕は取材があるので終局と同時に部屋に入ったが、控え室では某棋士が笑って「みんなで対局室にいこうよ。阿部君、昇級したと勘違いするかもしれないから」と話していた。悪い冗談だ。

 取材陣の中には炬口カメラマンもいて、当然のことながらバシバシ写真を撮る。それを見て阿部八段は本当に自分が昇級したと思ったようだ。

 ただ、その誤解は1分しか続かなかった。感想戦に入る前に先崎さんが盤側に座った淡路九段に「東京の結果は?」と聞いたからだ。

 淡路さんは口ごもって「いや、まだ……」と答えた。先崎さんの質問に意表を突かれたのもあるだろうし、また本人の前で言いにくかったということもあるだろう。しかし知ってて言わないのはもっと悪いと思ったのか、数秒後に「郷田君が勝ったみたい」と言った。阿部さんが何かつぶやいたが、僕は少し離れたところにいたので、その言葉を聞き取れなかった。

 感想戦は1時間10分で終わり、部屋を出ようとしたら阿部さんが「先崎、ちょっと飲みにいこう。池崎さんも」と言った。困った。実は先約があって行方七段(井上八段に逆転勝ちした)と飲むことになっていたからだ。しかし、このメンバーなら4人で飲むのも悪くない。それで2人を行方さんが待っているバーに連れていった。

 先崎さんと行方さんは酒豪だが阿部さんはあまり飲めるほうではない。その彼がいきなりロックを注文したからビックリした。すぐ飲み干して2杯目は「ダブルで」だ。やはり昇級を逃して相当こたえていたのだと思う。

 活字にできない話がいっぱい出て面白かったが、阿部さんは疲れていたのか、悪酔いしたのか、途中でテーブルにうつぶせになり、動かなくなった。これが午前3時半ごろのこと。起こすのも悪いから残ったメンバーで5時半ごろまで飲んだ。

 彼らはホテルに帰って寝るが、僕は阿部-先崎戦の原稿を週刊将棋に送らないといけないので家に帰っても寝るわけにはいかない。コーヒーで酔い覚ましをしてから机に向かった。

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ぬか喜びはとても辛い。

どっきりカメラ的な番組が成立するのは、この逆のパターンだからだ。

阿部隆八段が酒を飲みたい気持ちは痛いほどわかる。

順位戦最終局が行われる3月、このようなドラマが数多く繰り広げられることになる。

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B級2組の最終戦、7勝2敗の糸谷哲郎八段、阿部隆八段、野月浩貴七段、飯島栄治七段、菅井竜也七段、6勝3敗の藤井猛九段の6人に昇級の可能性があり、大激戦となっている。

阿部隆八段は順位戦B級2組で現在2位の成績。今回はこの時と違って昇級は自力となっている。

B級2組の最終戦、目が離せそうにない。

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大平四段が大阪での対局を早く終え、その日の夜の埼玉県三郷市で行われたZONEの解散コンサートへ駆けつけた有名なエピソードがあるが、その時の対局が、ここで書かれている大平武洋四段(当時)-児玉孝一七段戦。