米長邦雄二冠(当時)が「矢倉は将棋の純文学である」の真意を語る

近代将棋1985年1月号、米長邦雄二冠(当時)の「さわやか流 将棋相談」より。

Q.米長さんは「矢倉は将棋の純文学である」とおっしゃっていますが、これはどういう意味ですか。ちなみに他の戦法はいわば大衆小説なのでしょうか。

(旭川市 Oさん)

A.

 まず、純文学とは何ぞや、という問題がある。これは私にも分からないのであるが―よく言えば非常にコクがあるし、別の見方をすれば、男と女がねちねちともつれ合うばかりで少しも面白くない。このあたりがいかにも矢倉にピッタリ当てはまるように思う。

 例えば端歩を一つ突くのに一時間も二時間も考える。それで分かったかといえば分からない。そこに面白さもあれば、そんなに深刻に考える問題か、との懐疑もある。こんなところ一つ見ても、矢倉と純文学はよく似ていると言えよう。

 が、私は矢倉が他の戦法より優れていると言った覚えはないので、この辺は誤解なきように願いたい。

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最近では両者の区分は極めて曖昧になりつつあると言われているが、純文学の反対側に位置付けられるのが大衆小説。娯楽小説と言い換えた方がわかりやすいかもしれない。

Wikipediaによると、

「筋の面白さが作品そのものの芸術的価値を強めるということはない」という、芸術性重視の姿勢が純文学。

「筋の面白さこそが、小説という形式の特権である」という、娯楽性重視の姿勢が大衆小説。

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非常に乱暴に言えば、純文学は難解でドラマチックな展開は期待できないが、理解できる人にはその芸術性が理解できるという作品群。

たしかに、純文学は矢倉にピッタリ当てはまる。

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純文学好きな方から見れば、「矢倉は将棋の純文学である」は「矢倉は将棋の王道」という解釈になるだろう。

私のような純文学敬遠派から見れば、「矢倉は将棋の純文学である」は「矢倉はただただ難解で、見ても面白さを感じることが難しい」という印象になる。

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「矢倉は将棋の純文学である」と言った米長邦雄二冠(当時)による、その言葉の真意。

ポジティブでもネガティブでもなく、矢倉と純文学は似ている、ということを語っただけであることが分かる。

それほど深い意味はないとも言えるし、様々に解釈できる含蓄のある言葉とも言える。

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増田康宏四段がインタビューで「矢倉は終わりました」と語っている。

驚愕必至!増田康宏四段インタビュー(マイナビ出版将棋情報局)

矢倉に変わって台頭してきたのがツノ銀型雁木。

時代は変わる。