将棋世界1995年11月号、野口健二さんの第43期王座戦〔羽生善治王座-森雞二九段〕第3局観戦記「幻惑された魔術師」より。
今期の五番勝負でタイトル戦登場25回の羽生善治王座に対し、9人目の刺客として森雞二九段が名乗りを上げた。
森は羽生の二回り上の49歳。17年前の”剃髪の名人戦”、そして7年前には「おじさんが体で覚えた将棋を教えてやる」と広言して谷川王位(当時)からタイトルを奪うなど、型破りな言動で有名である。最近は鳴りをひそめていたが、王座戦本戦で森下、谷川、佐藤康、深浦らを連破して、久しぶりの大舞台に歩を進めてきた。そして、開幕前の言葉が「ひねり飛車を受けてみなさい」。羽生にとっては、初めて迎える異色の挑戦者である。
第1局は、森が先手番を得、当然ひねり飛車を採用。作戦勝ちから優勢となりながら、早指しがたたってか決め手を何度も逃して、逆転負けを喫した。終局は午後4時33分であった。
続く第2局は、力戦派の雄に相応しく森は向かい飛車に。再び森の指し手が冴え渡り、終盤では必勝形を築く。
そして迎えたA図。この▲6六角を見て、立会人の内藤九段が「形作りですわ。あと1手か3手で投了します」と断じた局面である。
A図の1手前の△3七角成が絶妙手。▲6六角は▲7一銀以下の詰めろだが、先手玉には△6九銀▲同玉△5九馬▲同玉△4九金▲6八玉△5八飛成以下の即詰みがある。
ところが、森はなかなか指さない。第1局の反省から中盤以降、慎重に時間を使い、ここでは残り21分。14分考えて△8四歩が着手され、控え室は騒然となった。以下▲6八桂の粘りに△9五歩がうまい手で、まだ後手勝ちだったが、羽生の勝負手▲4八銀に幻惑されたのか、次の△2八馬が敗着となった。△2八馬で△4八同飛左成ならば、飛車を渡しても後手玉に詰みはなく、受けのない先手は投了を余儀なくされていただろう。
第1局に続いて手痛い敗戦となった森は、感想戦で前述の詰み手順を指摘されると、「詰んでいたのか。バカだねえ」と慨嘆したものだ。
信じられないような展開で2連勝を収めた羽生が、防衛まであと1勝と迫り、第3局が始まった。
(中略)
後がない森は、背広姿で本局に臨んだ。「和服が2着しかないから」という理由だが、普段通りの将棋を指そうという意思表示とも受け取れる。ゲンをかつぐ意味もあるかもしれない。
局面は、第1局と同じひねり飛車に進展していく。羽生にしても、森の十八番のひねり飛車を破って防衛を決めたい、というタイトル保持者の矜持がある。
▲3九玉まですらすら進み、羽生が初めて長考に入ったところで、森が控え室に姿を見せた。継ぎ盤を前にした中村八段に「どう指すのか教えて下さいよ。私は詰みがあっても負ける人ですから」。その言葉とは裏腹に、追い詰められた様子は全く見えなかった。2番続いた敗戦は、いい将棋だっただけに応えたはずだが、十分戦えているというプラス思考の方に努めて気持ちを向けているのだろう。
(中略)
▲9五歩。モニターに映る森の指し手から、ビシッという音が聞こえてくるような気合が伝わってくる。直後、「研究しちゃ駄目だよ」と言いながら、再び森は控え室へ。このシリーズの森は、頻繁に控え室に顔を出す。「羽生君の側にいると念波にやられるから」と言ったという話があるが、真偽のほどはともかく、いかにもらしい感じが出ていると思いませんか。
「指したら教えてね」と言った森は、数分後△9五同歩と聞いて「しょうがないな」と呟いて対局室へと戻り、ノータイムで▲9九飛と回る。
(中略)
△4四角の局面で休憩に入った。両対局者は自室での夕食だが、再び森は控え室のモニターの前に陣取る。画面には先後逆、羽生の側から見た盤面がある。
一方の羽生は、再開15分前に早くも対局室に入り、緊張の高まりを感じさせる。
残り時間は、森がまだ1時間以上多い。
▲9五香の香取りを放置して△7七桂成から狙いの△2四桂を先着して、後手快調に見えるが、感想戦ではじっと△9二歩が優っていた、と両者。ここでは全然自信がなかったという羽生に対し、森は自信を持って指していた。
(中略)
そして、5図が本局の明暗を分けた最大のポイントである。
5図以下の指し手
▲5五金△5七歩成▲同銀△3七歩成▲同銀△3六歩▲4八銀右△5六歩▲6八銀△2六歩▲3八金△7五角(6図)▲5五金は△6四角の防ぎだが、△5七歩成という軽手が飛んできた。この△5七歩成は前譜の△6五金の時点で指摘していた手である。新聞の観戦記を担当する鈴木七段を交えた局後の検討では、△5七歩成に▲4四香が一番激しい反撃だが、△4八と▲同金△7五角以下、難解ながらも先手勝ちの順は発見されなかった。
戻って5図では、やはり▲3九玉が有力だった。▲3九玉△6四角▲2八歩△5七歩成▲5二馬△同銀▲3四桂△1三玉(変化図)が、感想戦で試行錯誤の末に現れた局面である。
変化図からも、▲2一飛△4八と▲同金△2六角▲3二歩△1二銀……と検討が続いたが、この二人をして、超難解との結論しか出なかった。
△5七歩成からは、羽生がダンスの歩を駆使してまたたく間に後手陣を薄くしていく。そして△7五角(6図)が決め手となった。
6図以下の指し手
▲5二馬△2七金▲3九玉△5二銀▲2三歩△1三玉▲2一飛△3八金▲同玉△2七角▲2八玉△3八金(投了図)まで、138手で羽生王座の勝ち先手は▲6一馬から18手目にしてようやく▲5二馬だが、時すでに遅し。
それにしても羽生は4図以降ほとんど時間を使うことなく正確無比な指し手を続けている。元祖・終盤の魔術師に、「また催眠術にかかった」と嘆かせた羽生マジックや、げに恐るべし。
午後9時15分、終局。2時間半近く及んだ感想戦で、先手に有望な変化が現れる度に「勝ちというのだけはカンベンしてよ。勝ちじゃ辛いよ、私も」という森の言葉に、無念さが滲んでいた。
羽生は、これで王座戦4連覇を達成。同時に一日制のタイトル戦は5回連続でストレート防衛、17連勝中という快記録を更新した。
しかし、シリーズを振り返って「森九段は自分の予想に反する手が多くて、感覚の違いからずいぶん迷った局面や困ったことがあった。今日も序盤で作戦負けして辛い展開。今後に課題を残した五番勝負だった」と語ったように、決して結果だけに満足はしていない。
そして、同じ日に行われた竜王戦挑決で佐藤前竜王が挑戦者に決まったと聞き、「強敵ですから、内容の濃い七番勝負が出来ればと思います」と言う穏やかな表情のなかに一瞬、厳しさがのぞいたように見えたのは気のせいではないと思う。
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羽生善治六冠は、1995年3月の王将戦で谷川浩司王将に七冠達成を阻まれたが、名人戦で森下卓八段、棋聖戦で三浦弘行五段、王位戦で郷田真隆五段、王座戦で森雞二九段を破り、七冠への道を突き進む。
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終盤の魔術師・森雞二九段を幻惑した羽生善治六冠(当時)。
羽生マジックというよりは、森雞二九段が語っているように、催眠術にかかってしまったような状態だったのだろう。
自玉が受けなしの状態なら相手を詰ませることに考えを集中できるが、かなり優勢な局面では選択肢が多く、かえって間違ってしまうというという例だ。
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▲9五歩と仕掛けておきながら、△9五同歩と取られて「しょうがないな」と言う森雞二九段が面白い。
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羽生善治名人も森雞二九段も戌年生まれ。
昔は「戌年の会」という集まりがあった。