横歩取りの戦いをとても分かりやすく解説した観戦記

将棋世界1995年12月号、中野隆義さんの第26回新人王戦決勝三番勝負〔深浦康市五段-丸山忠久六段〕第2局観戦記「もっと、とんがれ」より。

将棋世界同じ号より、撮影は中野英伴さん。

 平成7年9月29日をもって、将棋酒場「リスボン」は閉店した。新宿コマ劇場ほど近く、歌舞伎町のど真ん中にあったその酒場には将棋ファンの一人として随分とお世話になった。なにしろ、お酒があるのはもちろんとして、足付きの立派なカヤ盤が数面置いてあるのが、将棋好きの酔っぱらいには堪らない魅力であった。飴色の盤たちが座敷に鎮座して来客を待つ姿にはえも言われぬ色気と気品が漂っていた。それに誘われていざ盤の前へと座れば、使い込まれたつげ駒のあまりの深淵なる色合いに今まで戦い来た男どもの喜怒哀楽がにじみ出て、我の来しかたのあまりの脆弱さにシュンとさせられる。かと思えば数年に一回ほど県代表の首を取り、「オレはこのへんじゃ一番強いのかなというささやかな至福の錯覚に酔うもまた許された。

 将棋を指しながら亡くなったアマ棋客の話を何かの本で読んだ時、ふと、それも良いかなと思ったことがあった。頭には、すぐリスボンの店内の光景が浮かんだ。マスターにはまた迷惑を掛けることになるけれど、きっと大目に見てくれるだろう。

 安息を得るのに有力な候補地が一つなくなってしまったことにしおたれていたら、帰りがけに立ち寄っていた地元の酒場が店をたたんでしまった。ここは常連にKさんという将棋ファンの方がいて、将棋の話が盛り上がること一再でなく、ついついお酒の度を過ごしてしまうのだった。Kさんは、還暦をとうに過ぎていられると思うが、棋士の名前で知っているのは木村義雄、升田幸三、大山康晴……ということはなく、屋敷が最年少で棋聖を取ったこともご存知だし、「矢倉って面白い名前のが棋士になったね」というくらい若手の棋士にも精通していた。そのKさんに何度か、丸山や深浦はよく勝つけどなかなかタイトル戦に出て来れないのはどうしてなのかね、と尋ねられたことがあった。その時は、確たる事が言えずにこちらから話題を変えてしまったが、今なら大いに分かる。Kさん、これから、じっくりとそれについて語りますから耳の穴かっぽじってよーく聞いてて下さい。

(中略)

横歩取りの最新型

 三番勝負の第1局は深浦が取って一歩リードです。丸山が得意とする先番角換わり腰掛銀を打ち破ったということで心理的にもかなり優位に立っていると思います。横歩取りの将棋は丸山の守備範囲で深浦はほとんど指していないのですが、あえて敵地に踏み込んでいったところにもそれが窺われます。

 1図まで、歩得の先手に対して後手は銀の活用に代償を求めるという展開です。

深浦丸山1

 先手は金銀が前に出て行きにくい格好で自分の方から仕掛けていくのは難しいんですけど、いずれ後手から動いて来ることが予想されるので、相手の動きをとらえて戦って行こうという高等戦術です。

 ここから丸山がどう局面を動かすかが興味深いところです。前にこれとそっくりの将棋があって、その将棋は△5四歩から△5五歩と先手の飛車を圧迫する指し方でしたが、丸山は独自の打開手段を披露しました。

1図以下の指し手
△5四角▲8六歩△7四歩(1-1図)

深浦丸山2

自陣角の打ち合い

 △5四角が丸山の新手です。直接には8筋を破ると見せて、真の狙いは7七の桂馬の頭を狙っています。本当に、8筋を破りたいなら角を打つ前に△9五歩と一本突き捨てておいて▲8六歩には△9八歩を見せればよいのです。そうしなかったのは、本譜のように▲8六歩を突かせても△7四歩(1-1図)で指せると見ているからです。7三の地点は銀の進出路で、ここが敵の桂頭攻めの調子で空くというところにたまらぬ味の良さがあるのです。

1-1図以下の指し手
▲8五歩△8二飛▲4六角(1-2図)

深浦丸山3

 対して深浦も▲4六角と自陣に角を打ち下ろしました。一見すると、△7三銀とされて▲7四歩に△6四銀と二枚銀に中央進出を許してパッとしないどころかお手伝いになるのではないかと思える一手です。丸山も当初はそれでよいと見て▲4六角を軽視していたようです。ところが△7三銀にはじっと▲6六歩とされて次に▲7四歩からの銀いじめを見られていけない。

1-2図以下の指し手
△6四歩▲同角△7三金▲4六角△6四歩▲6六歩△7五歩▲6五歩△7四金▲6四歩△7三桂▲6七銀(2図)

深浦丸山4

 △6四歩は余儀ない予定変更で、これでは△7四歩の時に描いていた銀の活用は望めず後手不満の展開です。

意表の強手

 2図は6四まで進んだ歩の存在がなんと言ってもでかいです。相撲で言えば左前みつをサッと取ったというところでしょうか。一方、丸山は両回しに手が届いていないかっこうです。このあたりの深浦の前さばきの良さはさすがで、無理はせず自然に良い形に組み上げています。

2図以下の指し手
△8一飛▲3九金△6三歩▲3五歩(3図)

深浦丸山5

 △8一飛は辛抱の一手。回しを引かずに前に出ていくのは自滅に繋がるということをちゃんと知っています。でも、まあ、丸山の頭の中ではここで出ていかないのは当然であって別段辛抱とは捉えていないでしょうね。そうでないとストレスたまっちゃってとてもじゃないですけどプロとして長くやってけませんから。

 例えば△8一飛の手で△9五歩▲同歩△9八歩などとやると、△9八歩の瞬間▲5四飛△同歩▲5六角で逆ねじを食いますが、こーゆーのを読んでみてダメだと判断するのではまだストレス溜まるレベル。プロははなから読まないんです。

 体勢が不十分な丸山が△8一飛とじっとしてるのは当然として、深浦の方からはここで▲9五歩とやっていく手はありました。以下△同歩に▲9二歩△同香▲9三歩△同香▲5四飛△同歩▲9二角でこれは早くも優勢。野球で言えば3回の表くらいに先取点を取ったというところでしょうか。深浦がなぜこれを決行しなかったのかは、おそらく、相手には有効な手が全くないのでもう一手自陣を引き締めていて十分と見ていたのだと思います。先取点1点ではなくて、もうちょっと2、3点取ろうかなともくろんでいたのでしょう。ランナーを溜めてビッグイベントにしようというこの判断は悪くなかったと私は思います。ただ、丸山に△6三歩と自陣の傷を消す渋い好手がここであったんですね。この後の戦いが本局の勝負所です。

 ▲3五歩には控え室の棋士らも意表を突かれました。2七に角成ってもいいよ、というのですから大胆な一手ですよね。

 △6三歩は前みつを指されたところを巻きかえようというもので、先手にとってはゆゆしき事態発生です。ここで前に出るべきなんですが、具体的にどう出るか控え室では分からなかったです。▲3五歩を見た時は、深浦ってのはすげー奴だと思いましたよ。▲3五歩に△2七角成と成るのは▲3四歩△4五桂に▲2五桂と跳ね違えて先手優勢です。馬を作っても意外に大したことがなく、次に▲2八歩△3六馬▲6三歩成△同銀▲7三角成からの馬の素抜きを狙われる筋があって後手が指し切れないでしょう。

好球を見送る

深浦丸山6

再掲3図以下の指し手
△7六歩▲同銀△6四金▲7四歩(3-1図)

 3図。後手は先手の狙いである▲3四歩△4五桂▲2五桂に対処しなければなりません。意地を張るなら△2七角成ですが、これが芳しくないのは前に言った通りです。とすると、残るは傷を消す△6四金くらいですが、これは角に加えて金までが質に入るので気持ちが悪いことこの上ありません。

 △7六歩▲同銀と突き捨てて△6四金と手を戻したのは、怒っておいて守るのですから調子としては変なんですが、これはもう尋常な手段では先手の進軍に対抗できないと見た開き直りです。丸山も感想戦で「やぶれかぶれ」だなんて言ってました。塁上を埋められ、カウントはノーストライク・スリーボール。もう臭いとこにボールを投げるのは許されないので、必死の気迫でホームプレートに向けて球を投げたってとこです。

 これに対して深浦がどうしたかというと、これがまず第一に気に入らなかったんですけど、▲7四歩と指したんです。この手自体は△同金と取らせて一歩と一手の交換なので中盤の手筋としては部分的に先手側に感触のいい手なんです。現状維持以上の手の交換に良さを求めるってのは確実で悪いということではありません。だけど相手が必死で投げ込んできた球をカキーンと打ち返す気合いを見せて欲しい局面でもありました。

深浦丸山7

 ここで▲3四歩と行けば△4五桂▲2五桂△5五金▲同角△同銀▲同飛△7六角までは一本道です。以下、▲6七銀には△8五桂(参考1図)という恐ろしい手が後手にはあるんですけど、この突撃ボタンを押す権利は先手のみに与えられたものなのですから、もっと掘り下げてみてもらいたかったと思います。

深浦丸山8

 3-1図以下の指し手
△同金▲3四歩△4五桂▲2五桂△3六歩▲7五歩△6四金▲3三歩成△同銀▲同桂成△同金▲3四歩△同金▲6四角△同歩▲5五銀△4四桂(4図)

 また、▲7四歩として▲7五歩と押さえる順を選んだのなら、▲7五歩▲6四金の次は▲6五歩と打たなくては面白くない。これは控え室にいたプロ達の受け売りですが、先手としては▲6五歩△同桂▲5四飛△同歩▲6五銀(変化2図)という筋で行きたい局面なのです。

深浦丸山9

 それが前に指した▲7四歩の顔を立てる手順ということですね。実は手順中▲5四飛の瞬間に手抜きで△7七桂成などややこしい変化もあるのですが、これも発射ボタンを押せるのは先手であって、みすみす逃すのはもったいないということなんです。

 好球を二つ見送ってカウントはツーストライク・スリーボールになりました。今度は先手の方も追いつめられた状況になってしまったわけです。こりゃまるで、我が愛する読売巨人軍の元守護神・石毛のバッター版みたいな戦い方ですね。

 三つ目の球を打ったのが▲3三歩成という手です。以下4図の一手前までの▲5五銀まで、角まで切っての猛攻ですが、悲しいかなこれはバットの芯を食っていないことが私の目にも明らかに分かりました。見て下さい。後手陣の駒がきれいにさばけてしまっています。先手は後手にとって一番ありがたい球を打ってしまったんです。参考図の変化は、結果は私にはとても分かりませんが、ともかくも相手の球を真芯で打ち返してます。

深浦丸山10

4図以下の指し手
▲6六飛△3七歩成▲7四歩△4八と▲同金△3六桂▲4九金△4八銀▲5四銀△5七銀不成▲6九玉△6六銀成▲4五銀(5図)

逆転

 4図の△4四桂が強烈極まる反撃です。▲6六飛とよれるようでは完全に駒の勢いが逆転しています。

 ▲7四歩と急所に迫られて後手玉も危うい形ですが、△4八とから△3六桂が実戦的な素早い勝ち方です。▲4九金のかわしに筋は悪くても△4八銀が勝ちを確定させた一手です。本譜のように△5七銀不成から6六の飛車を取ってしまえば分かりやすい勝ちと見切れるのが勝率の高い所以でもあります。

 良くなってからの丸山の怒涛のような寄り身には、あっけにとられたものです。それにしても将棋は怖いですね。あんなに模様が良くて、どう決めるか選り取りミドリとまではいかなくても、それに近いような感じがあった先手が、こんなに一遍に持ってかれてしまうのですから。

深浦丸山11

5図以下の指し手
△8五桂▲同銀△6七角▲7三歩成△4五角成▲6二と△同玉▲6七歩△7七成銀▲7四桂△5一玉▲7七金△8五飛▲5二歩△同玉▲8六歩△8八銀▲6一銀△4二玉▲7八金△5七桂 (投了図)

 まで、130手で丸山六段の勝ち

道に変わりなし

 ▲4五銀(5図)は、深浦が意地を見せた一手です。控え室では、一瞬後手側の有効手が見えずに「気が付きにくい手だよね。さすがは深浦。後手大変じゃないのオ」と色めき立ったのですが、ここで丸山は僅か1分で△8五桂を放ちました。当たりにされている桂馬を使って8一の飛車に活を入れるという絶妙の一着で、手抜きは△7七桂不成が炸裂してそれまでです。

 ▲8五同銀に△6七角が攻防の急所で今度こそ本当に勝負あったです。実際、将棋の勝負自体はここで終わっているのですが、この後、控え室の棋士達が発した言動が面白かったのでもう少し付き合って下さい。

 さあ好きなようにして下さいという▲7三歩成に丸山が考えていますと、ここで丸山が先手玉を詰ますかどうかが論点となりました。先手玉が詰むと確認した訳ではないのに、こういう話がすぐに盛り上がるのが控え室の愉快かつ無責任なところです。

「詰ますでしょう」と言った棋士の背中の向こうから「詰ますあけありませんよ。△6七角打つ時に詰みを読んでいないんですから、彼は。見てて下さい。絶対銀を取りますから」の怒声が飛んできました。そうして、その声に納得の雰囲気が辺りに立ちこめたのでした。

 その中で、田中の寅ちゃんがしみじみとした口調で言いました。

「僕らのころは、将棋は最短距離で指すものだって教わっていたものだけど、今はそうじゃない人が勝つんだね」

 これに対して、怒声の主からの声は返って来ませんでした。きっと先輩に口答えする形になるので遠慮したのでしょう。私には彼の気持ちが伝わって来ました。彼もまた将棋は最短を行くべきと思っているのです。怒鳴り声を上げたのは、詰ますだろうという意見に対してではなくて、詰まして勝つという将棋の作り方をしていない丸山に対して発したものだったのだと私は感知しました。昔も今も将棋の道に変わりはないのです。

 えっ、あそこで詰みがあるのか、ですって。詰まないと思いますよ。私は。でもそれは私の言いたいこととはあまりね。そいことゆうようでは私の言いたいことがお分かりになっていませんですよ。ちょっとお酒が足りないんじゃないですか。Kさん。

 私が言いたいのは、深浦も丸山も、もっと尖らなきゃってことなんですよね。十分に幹は太いのだから切っ先を磨けってことです。丸山は詰まさない将棋と見られていることに怒らなくてはいけませんよ。

 ああ、今宵はさんざっぱら言いたいことを言わせてもらいました。長々とおつき合い願えてありがとうございます。またいずれ、どこかの酒場で行き会いましょうね。

深浦丸山12

将棋世界同じ号より、撮影は中野英伴さん

将棋世界同じ号より、撮影は中野英伴さん

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酔っぱらいの将棋好きのおじいさんに語りかけるような形で書かれた観戦記。

難解な横歩取りの戦いが、とてもわかりやすく解説されている。

当時の控え室の雰囲気も濃厚に映し出されている。

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非常に論理的・合理的に見える▲7四歩(3-1図)の控え室での評判が良くなく、かつここから棋勢が変わってしまうのだから、将棋は恐ろしい。

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「リスボン」は歌舞伎町にあった伝説の将棋酒場。

エピソードもたくさんある。

真夜中に来た真剣師(前編)

真夜中に来た真剣師(中編)

真夜中に来た真剣師(後編)