「人がなすことに味があり、それを人が感じていけるものならば、機械がどのように進歩しても存在価値を失うものではないと思う」

将棋世界1996年3月号、中野隆義さんの第45期王将戦七番勝負第2局観戦記〔谷川浩司王将-羽生善治六冠〕「知りてなお行きし」より。

王将戦第1局。将棋世界同じ号より、撮影は弦巻勝さん。

 1月22日。王将戦第2局の取材へと向かう新幹線の車中にて思う。仮に、コンピュータが棋士を凌駕する時代が来たとして、そうなると棋士という商売はなくなってしまうのかなと。

 将棋は格闘技だ。将棋をプロレスやボクシングやらに置き換えて考えてみる。格闘ロボット同士の精密な戦いを見て、人は何を感じるだろう。バックドロップが決まればロボットは「ぐう」と呻いてのびるのだろうか、四の字固めを食らったらロボットは「ぎゃあ」と痛がるのだろうか。平気の平佐じゃ面白くもなんともなさそうだし、痛がるというのも何かわざとらしくて信用できないところがあるではないか。

 人がなすことに味があり、それを人が感じていけるものならば、機械がどのように進歩しても存在価値を失うものではないと思う。

(中略)

 昨年の王将戦で羽生の七冠獲りが成らなかったのを見たとき、記者は、嗚呼これでもう七冠制覇は夢と消えたなと思ったものである。6つのタイトルを全て守り、かつまた連続して王将戦の挑戦者になるのは至難の三乗をしてもまだ足りないくらいのものである。

 谷川との七番勝負の後、息つく間もなくやってきた名人戦七番勝負第1局にピンチは早くもやってきた。挑戦者森下の完璧な指し回しの前に苦しい戦いを強いられた羽生は、懸命の頑張りもむなしく必敗の終盤戦を迎えていた。全国各地で行われた大盤解説会では全ての解説陣が「第1局は森下勝ち」との結論を出した。それが、最後の最後に森下に信じられないミスが出て大逆転。森下の充実ぶりから考えても、第1局をあのまま押し切られていたら名人位防衛は叶わなかったのではないかと記者は思っている。

 夏の王位戦でも羽生は大きなピンチに見舞われた。挑戦者郷田に出だし2連勝と走られ、3局目を負かされたら勝負あったという流れになった。一進一退の難しい将棋を、絶対に負けないという大山流の指し方で乗り切ったあの時から、今思えば、第45期王将戦での七冠獲りの戦いの舞台に上がることが約束されていたのかもしれない。秋の陣、王座戦にて絶好調の挑戦者森が得意の終盤でつまずいてあたら好局をフイにしたのも、王将戦の挑戦権を争う王将リーグにて、天下一品の寄せの正確さと手堅さを誇る森内が対羽生戦の必勝局を落としたのも、七冠獲りに向かう羽生の勢いに巻き込まれた結果のように思えてならない。

(中略)

 局面は、四間飛車対棒銀の最も定跡形らしい定跡形とも言える戦いになった。

 控え室で、盤面が映し出されるモニターに目を凝らしていると、「将棋のことは詳しく分からないのですが、この将棋はどのような展開になっているのでしょうか」と尋ねられた。差し出された名刺を見ると著名なスポーツ紙の記者であることが分かった。この私を、棋士と思い違いしたもののようだが、せっかくの申し出であるし、そのスポーツ紙は私も大のファンであることなので、

「そうですね。一言で言うと先手の谷川が攻勢で後手の羽生が守勢の戦いです。後手の方からは手を作りにくいのですが、先手の攻めに対して非常に柔軟な構えであって、この展開なら後手としてはまずまず満足のいく戦いと思います。戦いが起こる盤面の右側から王様が一路離れているのがなかなか大きく、普通に戦うというか、アマ同士で戦うと後手側の勝つ確率がずっと高いでしょう。まあ、例えば変化が100あるとすると90数通りというか、そのほとんどが後手が良いという分かれになる感じですね。では、先手側が不利なのかというとそうではなくて、先手には手を選択する権利がある。当たりクジは少ないけれど自力でそれを掴み出す権利みたいなものがあるんです。ですからプロ同士の戦いであれば形勢は互角と言ってよい。しかも、谷川の将棋はまさにこの将棋の先手番のような状況に立つのを旨としていますから。

 射撃手でいうと谷川はライフルを持って遠くから的を射抜く将棋です。超一流のスナイパーと言っていい。ゴルゴ13のようにね」と、一くさりしてさし上げた。

 一所懸命にペンを走らせていた若い記者に幸あらんことを。

(以下略)

王将戦第1局。将棋世界同じ号より、撮影は弦巻勝さん。

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羽生善治六冠(当時)が4勝0敗で七冠を獲得することになる1996年の王将戦の、第2局。

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「人がなすことに味があり、それを人が感じていけるものならば、機械がどのように進歩しても存在価値を失うものではないと思う」

中野隆義さんの25年前の予言が見事に当たっている。

見事すぎると言って良いだろう。

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「昨年の王将戦で羽生の七冠獲りが成らなかったのを見たとき、記者は、嗚呼これでもう七冠制覇は夢と消えたなと思ったものである。6つのタイトルを全て守り、かつまた連続して王将戦の挑戦者になるのは至難の三乗をしてもまだ足りないくらいのものである」

以前も書いたことだが、六冠を1年以上にわたって保持していたことは、七冠達成に優るとも劣らないほどの快挙だったと思う。

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中野さんのスポーツ紙記者への説明。

これほど分かりやすい解説は、とても参考になる。

居飛車対振り飛車の対抗形についてはほとんどに当てはまる解説になるだろう。

「一所懸命にペンを走らせていた若い記者に幸あらんことを」

とはいえ、中野さんの分かりやすい懇切な解説を限られた文字数でまとめようとするのは、それこそ至難の二乗のような感じがする。

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中野さんは立教大学を卒業してから近代将棋に入社。その後、日本将棋連盟将棋世界編集部、書籍課を経て、1997年に近代将棋へ戻って編集長を務めた。

その中野さんが65歳の若さで亡くなられてから3年半以上が経つ。

将棋界のいろいろな話を中野さんからもっともっと聞いておけば良かったと、あらためて思う。

中野隆義さん逝去