将棋世界1995年10月号、河口俊彦六段(当時)の「新・対局日誌」より。
8月11日
8月某日、囲碁の武宮九段から小包が届いた。開けてみると、立派な財布である。
はて、どうしたのだろう。お中元をやりとりしている間柄でもないのに。と首をヒネっていると、家内が「武宮さんなら名人戦挑戦者になった、と新聞に出てたわよ」と言った。
そうだったのか、武宮さんの喜んでいる有様が目に浮かぶようである。
あらためて書くまでもないが、武宮といえば碁界では超一流として通っている。将棋界でたとえるなら、中原、米長、といった格の持ち主だ。その天才が、ここ2、3年にわかに勝てなくなった。昨年が特にひどく、年間勝率が3割台だったと聞いた。何十年間にわたって勝ちつづけた人に、こういう成績はこたえただろう。対局に頑張る気を失せてしまったように思えることもあった。
昨年の暮、駒音コンサートのとき、武宮さんはひょっこりあらわれた。舞台に上がってなにかサービスしてくれたが、終わってから、銀座にでも、と誘うと「残念だけど、明日は手合なので」と夜の12時近くに帰った。後で知ったのだが、手合は、名人戦リーグの初戦で、案の定負けていた。A級の棋士が、順位戦の前夜にそんなことをするなんて考えられない。
そういった状態から、半年で立ち直った。酒を飲み、カラオケを歌う機会は多くなったが、女性の肩に手を置きながら碁を考えていた時間も、また多くなったのではないか。素人目にも、従来の武宮流とは違う布石が見られるようになった。
しかし、それがよかったわけではない。矢倉で勝てないから、振り飛車にして勝てるものではないのと同じである。ともかく、もがいたのが立ち直りのきっかけになったのだろう。ただ、根本は才能があったればこそである。
林葉さんも、今のまま指しつづけていれば、なにかのきっかけで全タイトル制覇ということもあったと思うが、いまさら言っても仕方がない。
武宮九段と仲がよい将棋の棋士は、森九段である。めぐり合わせと言うべきか、こちらも、王座戦の挑戦者になり、仲間を驚かせた。
(中略)
今、勝ちまくっているのは、森挑戦者の他に先崎六段、屋敷六段など。先崎君は会うと「いやあ疲れました。酒の飲みすぎです」と言うし、屋敷君は、まっ黒な顔である。ボート、競輪場通いでそうなったと聞く。競輪の帰りは、朝まで酒だろう。
無頼派が活躍するような流れになったと喜ぶのは、私が怠け者だからでしょうね。
(中略)
8月17日
先崎六段が森下八段を破り、竜王戦の決勝三番勝負に勝ち進んだ。
えらい楽しみなことになったものである。と書くのは事情があるからだ。
先崎君が竜王戦で谷川王将を負かした数日後、将棋会館で彼を見かけた。
「いいことがあったようだね」と言ったあと、例の武宮九段にもらった財布を見せ、「こういう習慣は、みんな見習ってもらわなくては」とか言った。その日の夕方、青野、先崎君と近くのすし屋に行き、勘定を払うとき、私に言われたからか、「ここは私に持たせていただきます」と先崎君は懐に手を入れた。すかさず青野君が「今日は僕が誘ったから」と止めた機会に、「今日はいい。そのかわり、竜王戦の挑戦者になったら、こんなものじゃ済まないよ。向島で芸者遊びでもしよう」。
すぐ「ハイ、わかりました」。しばらく間をおいて「そうですかねえ。芸者という感覚ですか」とひとりごちた。私はハッとしましたね。やっぱり年寄りになったんだと淋しくなった。その気配を察して「ウン、芸者もいいですね。祇園なんかよさそうだな」。
やり込めておいて、気を遣う。そんなところは師匠の若い頃とそっくりである。
(以下略)
* * * * *
「無頼派が活躍するような流れになったと喜ぶのは、私が怠け者だからでしょうね」
森雞二九段が王座戦挑戦者に、先崎学六段(当時)が竜王戦挑戦者決定三番勝負に進出と、無頼派の棋士が活躍をする夏だった。
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「屋敷君は、まっ黒な顔である。ボート、競輪場通いでそうなったと聞く。競輪の帰りは、朝まで酒だろう」
屋敷伸之九段は現在では酒を飲まなくなっているが、この頃はたくさん飲んでいた。
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「そのかわり、竜王戦の挑戦者になったら、こんなものじゃ済まないよ。向島で芸者遊びでもしよう」。
たしかに、先崎学六段(当時)より一回り上の年代でも「そうですかねえ。芸者という感覚ですか」と感じるだろう。
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将棋世界1995年11月号、中野隆義さんの第8期竜王戦挑戦者決定戦第3局〔佐藤康光前竜王-先崎学六段〕観戦記「霸への扉」より。
深夜の千日手
9月6日早朝。寝ぼけ眼を擦りながら私はパソコン通信「ネット駒音」にアクセスした。昨日行われた佐藤康光前竜王対先崎学六段の竜王戦挑戦者決定三番勝負第1局の結果を知るためである。目指す情報があるかどうかの保証はないけれど、大勢の熱心な会員の誰かが、きっとしっかり書き込んでおいてくれているのではないかという期待は十分にあった。
案の定、ハンドル名「亀山」氏より、9月2日に行われていた王座戦五番勝負第1局は羽生勝ち、竜王戦は千日手指し直しの末佐藤勝ちとの情報が寄せられていた。亀山氏は、顔が阪神タイガースの亀山選手によく似ている将棋関係の記者らしいという風聞のある人物で、「駒音」では貴重な情報源の一人となっている。
1局目は佐藤が勝ったのか、とゆっくり回転する頭はまずそれを認知したが、次の瞬間、猛烈な勢いで”千日手”という文字の持つ意味が脳味噌の中に飛び込んできた。
「なぬーっ、千日手の末だってえ」
所は埼玉県飯能市の「久邇CC」東コーススタートホール。時、8時30分。日本将棋連盟「早起き会」のメンバーは、今や遅しと佐藤前竜王とその車に同乗してくるはずの飯野健二六段の到着を待っていた。
「終盤で千日手になったんだって?昨日の将棋」
「持ち時間5時間の将棋ですから、終わったのは(6日未明の)1時か2時になっちゃってるでしょう」
「感想戦やると3時まであるね」
「それじゃ、今日は無理だよ」
フロントからの呼び出しを受けていた幹事の泉六段が戻ってきて言う。
「先ほど佐藤君から連絡があって、渋滞に巻き込まれちゃっているようです」
「そうか、来るには来るんだ。だけどいつ着くか分からないなあ」
スタートの時間は20数分後に迫っていた。じりじりとした時間が流れてもうだめかと思われた時、飯野健二六段とともに佐藤が息せき切って駆け込んできた。
「感想戦を終えて家に着いたのが3時半で、これではゴルフは無理だなと思ったんですが、飯野さんと待ち合わせをしているんだと気がついて……。ぼくが行かないと飯野さんも行けなくなっちゃいますから」
3時まで将棋を指していたと知れば、たとえ出場を取りやめても誰も文句は言わなかっただろう。ゴルフ場にかかる迷惑には、現場に来ていた者が代わりに頭を下げたことと思う。
「すみません。その水筒の水、少し飲ませて下さい。起きてから何も口にしていないもので」
普段ならば、ほんとにちょっとだけだよ、という気持ちが出てしまう私であったが、この時は、全部飲んでも構わないという心になれた。
前日の夕刻。将棋会館4階の桂の間を覗くと、いつものように棋士や報道関係者らがたむろしていた。
1図。一目、先手が一発喰らった局面ではないかと私には思えた。
なにしろ準王手飛車である。飛車を渡せば先手陣には打ち込まれる隙がゴマンとあるし、飛車角交換を拒否する▲4六角は△同角▲同銀△2七角、また▲5七角と合わせるのは△同角成に▲同金と取る形が筋悪である。
困ったかと先崎を見ていると、13分の考慮でスイと▲8八玉と上がった。13分というのは困ったときの時間の使い方ではない。あれ変だな、と、このような場合は控え室に陣取る棋士達による継ぎ番の検討を見守る一手である。
検討によると、▲8八玉には△6八角成▲同金引とひとまず交換する一手であるが、この後すぐに△4九飛と打ち込むのは▲5八銀△1九飛成に▲7一角(参考図)と反撃する筋が相当に厳しい。
これは後手がうまくいかないどころではなく、下手をすれば負けであるとのことであった。参考図以下一例をあげれば、△7二飛▲6一角△7一飛▲5二角成の変化は先手陣は鉄壁で、次に▲6二馬や▲5三馬がうるさい。
この戦型で飛車角交換になって、飛車を取った方が簡単に有利にならないというのには驚いた。どうやら先崎の▲8八玉は好手であったようである。
△6三銀はやむを得ぬ守りだが、▲5八銀との交換は先手に利ありと思える。
夕食休憩を迎えて、私は先崎勝ちを予想して冷たく連盟を後にした。なにしろ明日は年4回行われる連盟コンペの第3回例会がある。早起きせにゃならぬのである。
まさかこの将棋が千日手になるとはつゆほども思わなかった。勘が働かないのは記者としてゆゆしき事態。これは、麻雀を控え酒量を落としたことが主原因に違いない。要反省である。
第1局の千日手が成立したのが5日午後9時42分。規定により30分の休憩を挟み、午後10時12分より指し直し局が開始された。
2図は、陽動振り飛車から5筋に模様を張った先崎陣に対し、佐藤がグイと歩を突き上げた場面である。
△5六同歩に▲6五歩△同銀▲5五歩△7二金▲5六銀△7四銀▲5七銀△6三銀▲6六銀以下、厚みで指すとはこうやるもんだという見本のような指し回しである。こうまで完璧に指されては、負かされた先崎もかえってさばさばしたことだろう。
(つづく)
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1995年のこの時期、「ネット駒音」「ネットとらふ」「NIFTY将棋フォーラム」が将棋関連のパソコン通信では非常に賑わっていた。
特に「ネット駒音」と「ネットとらふ」は当時の言葉で言うと”草の根BBS”と呼ばれる、パソコン1台がホストコンピュータとなってそれに電話回線でアクセスする方式。
「ネット駒音」は武者野勝巳六段(当時)が開局し、「ネットとらふ」は宮田利男七段(当時)が常駐していた。
それぞれのテーマ毎に掲示板形式で書き込みが行われていた。また対局も、対局室の掲示板で一手毎にメッセージを付けながらやりとりする方式で、非常にのどかなものだった。プロ棋士の指導対局となると、棋士と会話を交わしながら一局を2ヵ月近くかけて無料で指せるわけで、ある意味では非常に贅沢な環境だったとも言える。(インターネットは企業では一般的になっていたが、まだ家庭でインターネットを使う人はほとんどいなかった)
「ネット駒音」、「ネットとらふ」両方を見ていた人も多く、窪田義行四段(当時)、勝又清和四段(当時)、船戸陽子女流初段(当時)なども数多く登場していた。
また、羽生善治六冠(当時)が「へびくん」というハンドルネームで登場したこともあったという。
観戦記者では鈴木宏彦さん、湯川恵子さんなどが活躍をしていた。
日本将棋連盟がホームページを立ち上げるのが1997年のことになるので、それまでの棋界情報は、これらのパソコン通信から得るのが最も早い手段だった時代だ。
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本局は、両対局者ともスーツにネクタイ姿だった。
第2局から、この構図が変わってくる。