先崎学八段(当時)の書評『将棋の子』

将棋世界2001年8月号、先崎学八段(当時)の「大崎善生著 将棋の子」書評より。

 よく、将棋指しになって幸せなのかなあと考える。

 客観的にみれば、これは、ぶん殴られかねない程の贅沢な悩みである。A級になり、最高峰の名人へあと一歩というポジションに居る奴が何をいう、といわれても仕方がないだろう。

 なのに、二分の一、0か1かの二進法しかない世界でぐるぐる蠢く自分に、常にこれでいいのかいと問いかけるもう一人の自分が居ることも事実である。

 家でゴロゴロしながら答えの出るはずの無い問いに身をまかせていると、一冊の本が届いた。『将棋の子』著者は大崎善生氏。

 本誌をお読みの方ならお馴染みの名前だろう。先の編集長にして、故村山聖の一生を描いた『聖の青春』の著者である。その第二作が本書である。

 題材は元奨励会員の物語。夢やぶれ、志半ばで将棋の世界を去った人間達のドキュメントである。

 言うまでもなく重く、暗いテーマを描いて本書は、不思議な明るさに包まれている。それは、著者の視点が、成功を収めた(四段になった)者達の側でもなく、元奨励会員の側でもない、ニュートラルなところに頑丈に置かれているからである。

 主人公は成田英二五段。私の先輩である。五段であるが、棋士ではない。二段までいきながら奨励会を退会し、現在は指導棋士として故郷の北海道で活躍中である。

 自分のことを「こっち」と呼びと呼び、一家で上京して奨励会に入った成田さんは、終盤力を武器として将棋一筋の生活の中で階段を登ってゆく。しかし、やはり将棋は序盤も大事である。強力な兵器は、それを隠して闘うのが得策なのである。現在のトッププロの将棋にこのことは如実に表れている。

 そのことをさりげなく忠告した著者に成田さんはいい放つ。

『「いや、関係ない。こっちはこっちの考えがある。人の真似して、みんなで同じ将棋指したって意味ない。研究なんて意味ない。自分は自分だけにしか指せない将棋を指すんだ」』

 この昔気質の考えをうちくだいたのは、私の世代――いわゆる羽生世代だった。

 やがて成田さんは勝てなくなり、奨励会を辞める。その間には様々な心の葛藤があり、家族との辛い別れがある。

 当時の奨励会員はそのほとんどが高校に行かず、成田さんも例外ではなかった。学業との両立は将棋にマイナスという空気があった。

 二十代の半ばまで、文字通り将棋漬けの生活を送った人間に、社会は決して易しいところではない。

 社会に放り出され、社会と折り合いをつけるべく、成田さんは悪戦を重ねる。皆が皆、同じように社会に戻るまでに苦戦をしいられる。ある者は旅をし、ある者はケンカにあけくれ、ある者は肉体労働でそれぞれに煩悩から避難する。

 職を転々とし、一見敗残者に思える成田さんを、著者は驚くなかれ、なんと幸せなのかと書く。

 それは次の言葉からである。

『「将棋がね、今でも自分に自信を与えてくれているんだ。こっち、もう15年も将棋指していないけど、でもそれを子供のころから夢中になってやって、大人にもほとんど負けなくて、それがね、そのことがね、自分に自信をくれているんだ。こっちお金もないし仕事もないし、家族もいないし、今はなんにもないけれど、でも将棋が強かった。それはね、きっと誰にも簡単には負けないくらいに強かった。そうでしょう」』

 こと言葉を受けて著者は考える。自分は将棋の世界の内側にいて、厳しい部分だけを見てきた。しかし、将棋の本質は優しいものなのではないか、アマプロ問わず、将棋は何かを必ず与え、決して奪うものではないのではないか……。

 私はハッとなった。将棋が私に与えてくれた最大の物は、八段という地位ではなく、ましてやお金でもなく、将棋の道を志した時の純粋な気持ちだった。A級だから幸せでもなく、羽生に勝てないから不幸でもなく、私は、将棋に夢中になった小学生から、幸せだったのだ。そして、この気持ちを忘れなければ私は幸せなのだ。

 人は時として思い上がり、そして不幸になる。それを救うのは優しい気持ちに触れることである。本書から、そして成田さんはじめ元奨励会員の方々から、私は思いがけない優しさをいただいた。今の自分に疲れている方、立ち止まってしまう方に、本書は、優しさと勇気を与えてくれる。

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これは書評欄に書かれたものではなく、グラビア面の最後の2ページに書かれたもの。

先崎学八段(当時)が『将棋の子』を読んで、いても立ってもいられなくなり、緊急投稿をしたのだと推察される。

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「何かこう感動するような小説を教えて」と問いかけてきた愛媛県出身の女性に、愛媛県出身の秋山好古・秋山真之兄弟、正岡子規が登場する司馬遼太郎『坂の上の雲(1)』をプレゼントしたら、あまり面白いと感じなかったのか途中で読むのを止めてしまったのだが、それではと『将棋の子』を勧めたら、ボロボロ泣きながら一気に読んでしまったと報告があったことを、ついこの間の記事で書いた。2004年頃の話。

なぜあの局面で『将棋の子』を勧めたのかというと、私自身が読んで間もなかったということもあるが、今までで読んだ小説の中で最も泣けたから。

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私が最も泣いたテレビドラマは山崎豊子原作のNHK『大地の子』。

『◯◯の子』という作品が、私にとっては泣きの王道のようだ。

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