三浦弘行五段(当時)が羽生善治七冠からタイトルを奪った日

将棋マガジン1996年10月号、中村修八段(当時)の第67期棋聖戦[羽生善治棋聖-三浦弘行五段]第5局観戦記「夢でも幻でもなく」より。

棋聖戦第5局。将棋マガジン1996年10月号より、撮影は中野英伴さん。

棋聖戦第5局。将棋世界1996年10月号より、撮影は弦巻勝さん。

 羽生七冠王が誕生して以来、棋界の興味は次の一点に集中していた。

”誰が羽生を最初に倒すのか”

 その答えが第67期棋聖戦によってついに出された。2勝2敗のタイスコアで迎えた注目の第5局に、原田泰夫先生と共に立合いで呼ばれた事は幸運と言うしかない。それでは早速本局を振り返ってみたいと思う。

(中略)

 関係者一行は、29日新幹線と車を乗り継いで「高島屋」へと向かった。

 移動中、関係者と和やかに談笑する羽生棋聖はいつも通りのマイペースに見えたが、一方の三浦五段もタイトル戦の雰囲気を心から楽しんでいる様子で、ほぼ3時間笑顔を絶やさず対局場に入った。

”決戦”の第5局は振り駒にて行われる。それまでここ一番では必ずといっていいほど振り駒の女神に微笑まれた羽生棋聖だが、今回は意外にも後手番。三浦五段は緊張からか、少し震えた指で飛車先の歩をつまみ、長い一日が始まった。

 ここで棋聖戦第4局までを振り返ってみたい。第1局は羽生棋聖の先手で相掛かり。途中、棋聖の勘違いがあったようで後手の三浦五段が一方的に攻める展開となり快勝。

 逆に2局目の角換わり棒銀、3局目の相矢倉は羽生棋聖が一方的に攻め切り完勝。ここまで来るとやはり防衛と思えたが、続く第4局は素晴らしい大熱戦だった。角換わり腰掛け銀から両者小ミスはあったものの、秒読みでの正確な指し手には驚かされる。この接戦をものにした三浦五段は大きな自信を得たことだろう。対する羽生棋聖には今までになかったような見落としが目立った。これは過労からくるものなのか、あるいは後輩の挑戦者が続き、読み筋の合わせにくさを感じているのかもしれない。そういえば前夜祭の時に「今期は年下としか指していないんですよ」と言っていたのを思い出した。

 三浦五段の作戦は飛車を深く引く前例の少ない力戦型。研究会などで仲間同士強くなろうとする傾向にある若手棋士の中で、一人だけで一日10時間の勉強を欠かさない三浦五段は異色の存在といえる。

 元々、戦法は選ばない棋風ではあるが、この大一番、天下の七冠王に対して定跡型ではなく、力で来いというのだから気持ちが良い。羽生棋聖も同型で応じ、私自身も期待の膨らむ序盤戦となった。

1図以下の指し手
▲3八銀△3四歩▲2七銀△3三角▲3六銀△2二銀▲6八玉△4二玉▲5八金△6二銀▲9六歩△9四歩▲1六歩△1四歩▲7六歩△8四飛▲6六角(2図)

 前例が少ないといっても後手の羽生棋聖にとっては2局ほど経験のある形で、先手の棒銀にも迷わず△3三角~△2二銀としっかりと受け止めた。ここで産経新聞の奥田記者から三浦五段のお腹の調子が良くないとのこと。この時期だけに一瞬嫌な気もしたが、驚くことはなくどうやら神経性のものらしい。第2局でもそうだったと聞く。何でも普段から対局の時には胃薬など欠かせないそうである。

 七冠王に対して、臆せず立ち向かう対局態度からして、かなりの強心臓かと思えたが、実際は繊細な心の持ち主のようである。薬を飲んで落ち着いたらしく、関係者一同も一安心。局面は難しい序盤戦が続いている。

2図以下の指し手
△同角▲同歩△5二金▲8八銀△6四歩▲7九玉△6三銀▲4五銀△3三銀▲7七銀△7四歩▲5六角(3図)

 ここ岩室温泉「高島屋」は対局場としても有名である。対局室から見える美しい竹林の庭園。そして女将さんをはじめ従業員の方々の行き届いたサービス。対局者にとってこれ以上のことはない。私自身もプライベートか、できれば対局者で是非一度と思わずにはいられなかった。

 2図で▲6六角と出て後手から角を交換させられたため、先手は2手得に成功した。但し、先手の▲4五銀も▲5六銀と戻れば手の損得はなくなる。羽生棋聖の△7四歩で、仮に△4四歩▲5六銀と進めば長い駒組みが続いていただろう。

 三浦五段の▲5六角は、勝てば勝因、負ければ敗因といわれてもおかしくない勝負手。この大一番を左右しかねない一手を僅か14分で指せる度胸が羨ましい。以下はこの角が働くかどうかが最大のポイントとなってきた。

3図以下の指し手
△7五歩▲同歩△6五歩▲同歩△7三桂▲6七金右△9五歩▲同歩△4九角(4図)

 羽生棋聖の△7五歩に突然の大長考。▲1五歩を中心に読んでいたそうだが、以下△同歩▲1二歩△同香▲3四銀△同銀▲同角△4九角▲2四歩△3三金で難解な形勢といえる。

 飛車の横利きが通ってみると、4五銀は動けず、困ったようだが△4四歩には▲3四銀と前に進めるため追い返される心配はない。もっとも△4四歩に▲3六銀と引く一手の局面になれば間違いなく後手が勝つ。

 端を突き捨てたところで夕食休憩。△9七歩ぐらいかと見ていたら、ぼんやりと△4九角。

 どちらの角に軍配が上がるのか。

4図以下の指し手
▲4六歩△4四歩▲3四銀△同銀▲同角△6五桂▲6六銀△9八歩▲同香△7六銀(5図)

 三浦五段の▲4六歩をみて膠着状態が続くかと思えば一転して羽生棋聖は動いた。△4四歩は相手の攻め駒を呼び込むだけに怖い手である。

 しかし、七冠王の貫禄からか、5図の△7六銀まで進んでみると、”肉を切らせて骨を断つ”好手に思え、羽生優勢という空気が控え室全体を包んでいった。

5図以下の指し手
▲同金△同角成▲6四歩(6図)

 局面は一気に終盤戦に流れ込んだ。

 控え室のモニターで指し手を見ている面々にも自然と力が入ってくる。5図の△7六銀に平凡な▲同金△同角成▲6七銀では、以下△8七馬▲8五歩△同飛▲7六銀打△8八金▲同金△同馬▲同飛△6九金で寄りとなる。

 防衛濃厚という雰囲気の中、突然大きな打ち上げ花火の音が飛び込んで来た。何でも町の夏祭りと重なったらしく、こればかりは七冠王でも止めることはできない。対局室への影響が心配されたが、旅館側もこの日のために防音窓に変えてくれたそうで対局者には聞こえなかったらしい。

 花火以上に驚いたのは6図の▲6四歩。銀取りを放置して絶妙のタイミングで打たれたこの一手に羽生棋聖はしびれたのである。

6図以下の指し手
△7七歩▲同桂△6四銀▲6七銀△7七桂成▲同金△同馬▲同銀△6五桂▲8六銀△5七桂成▲7六桂△4三金打▲同角成△同金左▲6八歩△7七歩▲8九銀△6七成桂▲同歩△3九角(7図)

 6図の▲6四歩に対して△同銀には▲6七銀と打ち、以下△8七馬▲同金△同飛成▲5二角成△同玉▲9六角と強引に王手竜取りを掛けて先手良し。後手陣は飛車に弱い陣形なのだ。また、▲6四歩に△6六馬と銀を取り合う手は、▲6三歩成△同金▲5二銀が詰めろとなりやはり先手がいい。

 ▲6四歩の切り返しを境にして控え室の空気も変わり始めてきた。研究すればするほど三浦良しの変化が出てくるからである。戻って△9八歩~△7六銀と攻めたところでは、△4五歩と角取りに突き、以下▲6四歩△同飛▲4五角△8六歩▲同歩△8七歩などと複雑に指すべきだったらしい。

 本局も羽生棋聖らしからぬ見落としが出てしまった。しかし、将棋は三浦有利でも勝負はこれからだ。ましてや、相手は羽生である。

 見落としのショックで自滅する人間にはタイトルは取れない。本局でも羽生は苦しみながら最善手を見つけてきた。

 後手の銀取りに構わず△7七歩。以下▲6三歩成は△7八歩成▲同飛△8七馬▲5二と△3三玉で後手の勝ち。

 ぎりぎりの利かしを入れて△6四銀と手を戻す。先手有利に見えるが差は少ない。三浦五段待望の▲7六桂に△4三金打がしぶとい一着で形勢はハッキリしない。後手△4三同金左のところで形良く△同金右と取ると▲8四桂△6七桂成▲8二飛の王手で負けてしまう。

 いつの間にか控え室は東京からの各新聞記者の方々でいっぱいになっていた。皆の関心は一点に集中している。▲8九銀と受けたところで、ついに三浦五段は1分将棋となった。

 続いて羽生棋聖も△3九角(7図)で秒読みが始まった。

7図以下の指し手
▲2三飛成△5七角成▲6八金△7八銀▲同銀△同歩成▲同玉△8九銀▲7七玉△7五銀▲8四桂△8六銀▲同歩△7六歩▲8七玉△8四馬▲3四桂(投了図)  
まで、105手で三浦五段の勝ち

 羽生棋聖にとって最大のチャンスは7図の△3九角で△6六歩と打つ手だった。以下▲同歩なら本譜の様に進めて▲6八金に△6七銀が利く。

 また、△6六歩に対して攻防に利く▲5六角には、以下△5七角▲6八桂△6七歩成▲同角△6六角成▲2三角成△3三金でこれも後手が面白い変化だった。

 本譜は▲6八金と受けられて少し足りない形である。途中、△8九銀にうっかり▲6九玉と引くと△8六飛と切られ、▲同歩は△7八銀打で詰み。▲5七金にも△7六飛で逆転模様だが、三浦五段は間違えることなく▲7七玉と立ち勝負は終わった。

 投了図以降は△5一玉には▲8一飛の王手馬取りまで。また、△同金には▲4三銀△同金▲3二飛以下の簡単な詰みとなる。

 約1時間の感想戦の後、場所を移して新棋聖の共同インタビューが始まった。そしてその後、異例ともいえる敗者へのインタビューも同じく行われた。

 これまで圧倒的な強さで隙を見せることなく勝ち続けてきた羽生六冠王だが、今回少しイメージが変わって来た。何れにせよ羽生六冠王の正念場はここからである。休みなく続く防衛戦をどう戦って行くのか興味は尽きない。(傍観者になってはいけないが)

 話は前日に戻るが、前夜祭を終え、対局者が8時過ぎに自室に戻った後、二次会にておいしい日本酒をたくさん頂いた。そろそろ寝ようかと思った12時過ぎ廊下に出ると、そこに三浦君が立っていた。「冷房の音が気になって」係の人と部屋へ行ってみると、換気扇の音らしく、これも止めようがない。そこで布団を大広間から継ぎの間に移動させて何とか眠れたという。

 対局終了後、新棋聖を囲んで麻雀を少ししたが、彼は「昨日はすみません。寝ぼけていたみたいです」と言う。「こちらも酔っていたので朝あれは夢かと思ったよ」と言いながら私は同時に思った。今回、羽生が負けたという事実は夢でも幻でもなく、私にとって忘れられない出来事になるだろうと。

棋聖戦第5局。将棋マガジン1996年10月号より、撮影は中野英伴さん。

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1996年7月30日が、三浦弘行棋聖誕生の日。

当時はひねり飛車が多く指されていたので、1図のように飛車先交換後、2八まで飛車を引く例は少なかった。

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6図の▲6四歩が絵に描いたような絶妙手。

今ならコンピュータソフトが考えたような手と言われてしまうのだろうか。

それではあまりにもつまらない世の中だ。

棋士同士、お互いの信頼感だけは持ち続けていてほしいと思う。

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今日、2月13日は三浦弘行九段の誕生日で、2月14日は羽生善治七冠誕生の日。

そして今日は、三浦九段の復帰第一戦となる竜王戦1組、羽生善治三冠-三浦弘行九段戦が行われる。

ニコ生の解説は、今日取り上げた観戦記の筆者でもある中村修九段。

前回も書いたことだが、勝敗を超越した素晴らしいドラマが生まれるような気がしてならない。