聞き手:勝新太郎/聞き手:笹川良一、だったことのあるテレビ棋戦

将棋世界2001年9月号、テレビ東京アナウンサー・島田良夫さんの「早指し選手権戦と歩んだ29年」より。

 民放初の将棋番組「テレビ将棋対局」がスタートしたのが、昭和47年8月6日(日)午後4時。第1回の放送は、翌週から始まる民放初の公式棋戦、早指し将棋選手権戦のデモンストレーションとして、中原誠名人対大山康晴王将の開幕記念対局、解説塚田正夫元名人、聞き手医事評論家石垣純二という顔ぶれで行われた。それから29年、今年平成13年6月10日(日)午前5時15分、記念すべき1500回の放送を迎えた。深浦康市六段対真田圭一六段、解説勝又清和五段、聞き手中井広恵女流五段という顔ぶれで、両対局者は奇しくもこの番組が始まった年の生まれである。

 その頃はNHKにしかなかったテレビ将棋を、民放でもぜひやってほしいと、東京12チャンネル(現テレビ東京)へ話を持って来られたのが、当時の将棋連盟会長丸田祐三九段である。連盟側で日本船舶振興会(現日本財団)、大蔵屋不動産、三菱電機等の提供スポンサーをつけ、主催将棋連盟、制作放送12チャンネル、いわゆる持ち込み番組という形で発足したのである。しかし、何故12チャンネルに話が来たのか、当時一介の平アナウンサーだった私には知る由もない。当事者の丸田九段には番組スタートに至る経緯を、ぜひ記録に留め、明らかにしてほしいと望むや切なるものがある。

「島チャン、君、将棋出来るかい?」「ええ、まァ子供の頃から指してはいますが……」「丁度良いヤ、来月から将棋番組やる事になったので、君にその番組の司会をやってもらいたいんだヨ。早速、明日打ち合わせをしてくれないか。2日後から何本かまとめて録画撮りするそうだから」「わかりました」

 アナウンス部の上司Nデスクと、こんなやりとりがあって、私の将棋番組担当が、極めて事務的に決まった。昭和47年7月も末のことで、”界・道・盟”との永いお付き合いの始まりである。その時は番組自体こんなに長く続くとは思わなかったし、私自身も交替もなく司会を続けることになろうとは予想もしなかった。しかし、上司のたった一言が私の後半生を決定づけ、今や将棋がライフワークになっていることを思うと、不思議な因縁を感じるのである。

 現在、解説者の相手役聞き手には女流棋士が起用されている。見た目にも華やかで画になるし、女流棋界のPRにもなるのでファンにも歓迎されているが、以前は各界の著名人や、マスコミ各社の将棋担当記者がゲストとして登場した。順不同で挙げれば、共同通信田辺忠幸、中野正、読売新聞山田史生、毎日新聞井口昭夫、加古明光、産経新聞福本和生、三社連合能智映の各記者である。中でも田辺氏は「オレはテレビ将棋の最多出場者」といばっている。正確に数えたことはないが田辺氏の登場回数がかなり多いことは確かである。担当記者諸氏は記録に精通し、該博な知識、造詣の深さという点では比類がないので解説者も安心という利点がある。解説芹沢博文九段、聞き手能智映記者の組み合わせは特に名コンビで、まるで掛け合い漫才を聞いているように面白く、今流行の吉本の下手なお笑いコンビよりもずっと上質だった。芹沢九段は「さァドンドンいきましょう。ドンドン、ドンドンはイギリスの都」という具合に駄洒落を連発して、リハーサル中にスタジオの雰囲気を柔らげ進行をスムーズにしてくれ、またテレビにレギュラー番組を持つ程のマスコミ人でもあった。ただ酒豪で知られたこの二人、晩年はアルコールの禁断症状で、大盤の駒を持つ手がブルブル震え、スタッフはカメラワークに頭をかかえることもあった。芹沢九段といえば第1回の将棋の日イベントを国技館の土俵上に持ってきたアイデアマン、彼が健在ならば将棋連盟のあり様も違っていたか。一方、将棋記者の中でも最も弱い担当記者と言われながら名文家の誉れ高かった能智氏。二人共に相前後してあの世へ急いでしまったことは、残念としか言いようがない。

 各界著名人のゲストとして、ある日、俳優 勝新太郎氏が聞き手として登場した。解説者は薪割り大五郎こと佐藤大五郎九段。談話たまたま座頭市の話から西部劇へと発展した。すると大五郎九段「私が駒台から駒を取って盤上に打ちつける時間は0.3秒、早打ちガンマンの拳銃さばきより速いんですヨ」と自慢する。「ホウ、0.3秒ねェ」と、大物時代劇役者も些か毒気に当てられたような表情で、半信半疑の顔。

 この他聞き手として登場した著名人を列記すれば、日本経済新聞の大軒順三社長、船舶振興会の笹川良一会長、文化功労者で独文学者高橋健二、音楽家小林研一郎、神野明、すぎやまこういち、映画プロデューサー岡田裕介の各氏、作家では五味康祐、斎藤栄、団鬼六、石堂淑朗の各氏、芸能界ではコロンビア・ライト、リーガル天才、小松方正、長門裕之、森本レオ、日色ともゑ、山東昭子等各氏がいる。山東女史には一時詰将棋コーナーを担当して頂いたこともあるが、後に参議院議員に当選して、国務大臣も務めたことは、ご承知の通りである。この山東さんの後任が、フリータレントの日下ひろみさん。田中寅彦九段の夫人だが、二人の縁結びには芹沢九段と私が一役買っていたので、結婚披露宴は兄弟子芹沢九段夫妻が媒酌人、私が司会を務めた。当番組が縁結びに関わった例としては、福崎文吾八段と女流初段だった睦美夫人(旧姓兼田)、塚田泰明九段と高群佐知子女流三段等が挙げられる。こういうおめでたい話は嬉しい限りで大歓迎である。

 笹川良一氏は聞き手としてのみならず、スポンサーとして決勝戦の収録日には優勝者にカップを渡すためにスタジオを訪れた。戦前から戦後にかけて政財界の裏側で隠然たる勢力を発揮し続けてきた大物だけに、いつも10人以上のお供がついてきたが、周囲の緊張をよそにテレビカメラの前ではご本人は好々爺であった。船舶振興会と言えば競艇の総元締、その潤沢な資金の使途配分をめぐって国会で追求されたことがあった。これを機に船舶振興会はテレビ撤退、大スポンサーを失って以来、当番組の苦難の歴史が始まる。何度か存廃の危機に瀕し、最近もテレビ東京の親会社である日本経済新聞の鶴田社長に、米長邦雄永世棋聖が直談判で存続を訴え、辛うじて命脈を保つという一幕もあった。

 永年にわたって番組を支えて下さったのが会長だった大山康晴十五世名人。収録中にFD(フロアディレクター)に残り時間を見せて下さいとの注文。これは長過ぎず、短か過ぎず、程良い時間で勝負を決着させようというスタッフへの温かい配慮だが、誰にでも出来ることではない。如何ようにも指せますヨという大山名人ならではの自信の表れ、脱帽である。過去の優勝回数は4回で最多記録。米長永世棋聖が同じ4回でタイ記録だが、これを超えて5回優勝の棋士は未だ出ていない。大山名人には公私共に親しくして頂き、将棋界初の文化功労者に選ばれた時の盛大な祝賀会、そして最後のお別れとなった厳粛な将棋連盟葬、いずれも司会を勤めさせて頂いた。大山名人との想い出を語れば沢山あり過ぎて、いくら紙数を費やしても足りない位だが、亡くなる1ヵ月前、我々親しい記者仲間10数人と一緒に甲州石和温泉に一泊旅行をした。この時の様子は毎日OB井口記者の名著『名人の譜・大山康晴』に活写されているが、鮎一匹を口にするのがやっとという程体力が衰えていたにもかかわらず、敢えて温泉旅行に出たのは、我々に最後の別れを告げておこうといういかにも大山名人らしい配慮だったに違いない。7月26日はご命日、例年通り大山邸を訪れ、仏前で大山夫人を加え、名人が大好きだった麻雀を打って慰霊の一時を過ごすのが年中行事となっている。

 さて、早指し将棋選手権戦は7月から第35回が始まった。今期もどんな名勝負、好勝負が展開されるのか、楽しみである。

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聞き手:勝新太郎、あるいは聞き手:笹川良一という言葉だけでも興奮してしまう。

あまりにも重量級の迫力ある聞き手。

このような凄い時代があったのだ。

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しかし、「私が駒台から駒を取って盤上に打ちつける時間は0.3秒、早打ちガンマンの拳銃さばきより速いんですヨ」と勝新太郎さんに自慢する佐藤大五郎九段も凄い。

これほど返答に窮する自慢話も珍しいかもしれない。

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島田良夫さんは、昨年12月に行われた「二上達也九段お別れの会」で司会・進行を務めている。

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スポンサーがついていない状況での番組存続は難しく、早指し選手権戦は2003年(2002年度)に終了している。

この最終回の決勝戦で羽生善治竜王(当時)が優勝。

ところが、この一局で羽生竜王の通算800勝達成となったため、通常は放送終了まで結果が伏せられるところ、リアルタイムでそのことが新聞などで報じられることとなった。

この時のことを、バトルロイヤル風間さんが将棋世界の4コマ漫画で絶妙に描いている。

登場するのは、島田良夫さん、羽生善治竜王、三浦弘行八段(当時。名前だけの登場)。

3コマ目、4コマ目は当然フィクションだが、この4コマ漫画も凄い。

加藤一二三九段の虫退治