将棋世界1989年11月号、羽生善治五段(当時)と森下卓五段(当時)の第2期竜王戦挑戦者決定三番勝負第1局ダブル自戦記「竜王への道」より。
(羽生五段)
遂にここまで来た。
棋王戦、棋聖戦では準決勝で負けて悔しい思いをしたので、そんな感じだ。
僕にとっては初めての挑戦者決定戦。
対する森下五段は…………もう他の雑誌や将棋世界によく書いてあることなので、ここではあえて何も書きません。
ただ、森下五段とは研究会や何やらで会うことが多く、こういう勝負となるとちょっと味の悪い思いもすることがあります。
ちなみに、この対局の前々日にも研究会で会い、竜王戦の話題も山ほど?出ました。
盤を離れた森下五段は非常に快活で、僕が言うのも変ですが、”好青年”という言葉が本当にぴったりです。
けれども、勝負となれば話は別。
棋士同士のつきあいはどうしてもある一定の線を引かなければならない様です。
(森下五段)
将棋の先生というと、だいたい楽観派強気の方が多いですが、私は逆に弱気の代表派。
勝とう、という気合いや勢いよりも、負けるのではないか、負けたらどうしよう、というほうから先に考えてしまいます。
我ながら情けないのですが、性格だから仕方がありません。
全く、強気の方が羨ましい限りです。その弱気のせいか、事前に自戦記を頼まれた対局は、勝ったためしがありません。
本局も然り……。
羽生五段との過去の対戦成績は、私の2勝4敗。弱気の私としては、また負けるのではないかと考えてしまうところ。
負けると、また負けるのではないか考えてしまい、勝てば勝ったで、今度は負けるのではないかと悩む。
全く弱気というものは、つくづく損な性格だと思います。
(羽生五段)
1図の局面は最近流行の形で、相矢倉になればこの局面になると思いました。このあたりからが作戦の岐路で、色々考えられて対局者は楽しい所ですが、見ている方はつまらない所です。
相矢倉は本当に一部のマニアしか解らない世界なのかもしれません。
まあ、これから宮崎勤と結びつけることもできますが、まあ、やめておきましょう。
矢倉が出来ないと居飛車党はつとまらず、居飛車党が多いプロ将棋界は矢倉が多くなるのが当然というわけです。
しかし、いつの時代にも流行の逆を行こうとする人達はいるもので、こういう人達を個性派というのでしょう。
森下五段はその逆で典型的な流行派ですが、普通の流行派と違ってデータだけを頼っている感じがしないのです。
その辺が強さの秘密なのでしょう。
将棋界では珍しい攻守にバランスのとれたタイプです。
(森下五段)
そうこう言っている間にも局面は進んで行きます。
戦型は矢倉戦。
矢倉の将棋は、私の対局では一番の比重を持っていますが、全く難しいものです。
何回やってもわからない。同じような感じなのですが、ホンの少しの違いが、全く別の将棋を生み出します。
本局の対戦相手の羽生五段とも、矢倉の将棋を一番多く指します。
1図。とりあえず▲8八玉と囲いに入城して、すぐに詰まされる心配はなくなりました。
よく私の棋風は受けだと言われますが、私はとくに受けを意識しているわけではありません。
負けるのではないかという心配が、負ける要素を少なくしようという発想となり、結果として受けの手が多いということでしょう。
苦労性なんでしょうか?
(中略)
数年前に飛先不突き矢倉が登場して、先手がいいように勝ち星を稼いだ時がありました。
飛先不突き矢倉は、まさに革命的な戦法で、抜群の勝率を誇っていましたが、後手の対応もだんだんと進歩してきて、最近はほぼ五分五分になったようです。
また飛先不突き矢倉と並んで、▲4六銀~▲3七桂型戦法が、一時圧倒的な猛威をふるっていました。
▲4六銀~▲3七桂型から、▲3五歩とポンと突き捨て、▲2五桂と勢い良く跳ねて攻めていけば、相手は壊滅としたものでしたが、これも対策が進歩してきて最近は容易に潰れなくなりました。
この近代矢倉の最先端をいく、飛先不突きと▲4六銀~▲3七桂型が以前のようにうまくいかなくなったので、最近は意外にも、昔のレトロ矢倉が人気を盛り返しているようです。
私の選んだ戦法も、最先端の飛先不突きから、結局レトロな昔の矢倉でした。
(羽生五段)
わりあいにじっくりとした将棋になりました。
僕の方としては先攻しにくい展開になりましたが、後手番なので仕方がないのでしょう。
順序は逆になりますが、対局当日の朝、連盟の玄関の所に行くと、テレビカメラが来ているので、ビックリ。
どうやら今度、衛星放送で囲碁、将棋のニュース番組をやるので、その取材の様です。
また、今回竜王戦七番勝負の第1局は公開対局になるので、将棋界にも明るい兆しが……と思うのですが、これはちょっと楽観的すぎるでしょうか。
さて局面の方ですが、先手は▲3八飛~▲4五歩をねらっています。
△1三銀型なので、中央で戦いになれば、先手有利となります。
そこで、△3三桂と跳ねることになるのですが、それだと囲いがかなり薄くなります。
2図以下の指し手
△1二香▲9六歩△9四歩▲3八飛△1一玉▲4五歩△同歩▲同桂△4四銀▲4六銀△4五銀▲同銀△4四歩(3図)(羽生五段)
△3三桂は定跡と知っていたけれども嘘だと思った。
そこで穴熊にしていれば仕掛けにくいだろうと思ったので△1二香。
▲9八香△1一玉▲9九玉△6二飛▲8八銀△6四歩の相穴熊の展開を予想していた。
(森下五段)
手順や水面下の駆け引きは全く違いますが、組み上がった2図だけを見れば20年前の将棋とも言えそうです。
その局面に、いきなり波紋を投げかけたのが△1二香でした。
これには驚きました。
こちらが攻める態勢が完了しているのに、穴熊に組もうという、なんと大胆不敵な指し方かと思いました。
私にはとても真似できません。
対して私は、▲3八飛から▲4五歩と単純というか、バカ正直というか、真正面から攻めかかりました。
他にも様々な駆け引きのある指し方がありそうですが、正直な私としては、正直な指し方をした、と言えるでしょう。
後手は▲4五歩に単に△2二銀もあり、また▲4五同桂に△4二銀と引く変化も有力ですが、本譜は△4五銀と桂を取って△4四歩で銀を殺す最強の受け。
如何にも羽生さんらしい受けで、私もこうなると思いました。
(羽生五段)
本譜▲4五歩に△同歩がまずく、△2二銀と辛抱すべきだった。
半人前の穴熊なのに対等に戦おうとした考えが悪かったのだ。
3図以下の指し手
▲4四同銀△同金▲4八飛△3三銀▲4六角△5五歩▲同歩△9五歩▲同歩△2二銀左(4図)(羽生五段)
森下五段の快調な指し手が続きます。▲4八飛に対する受けが難しいのが誤算でした。普通は△4五桂ですが、▲4六銀、▲4六角のどちらでも自信がないし、△4五銀も▲5三銀△3七角成▲4四銀成△4八馬▲4五成銀△5八馬▲4六角で悪い。
本譜△9五歩~△2二銀左は夕食休憩中に考えた勝負手で、残っていた借金をようやく返済できた感じです。
(森下五段)
▲4四同銀から▲4八飛は予定。
こう指すところだと思いました。
対する△3三銀も予定通り。
問題はここからです。先手の桂損ですが、後手も歩切れが痛い。
どちらが良いのか悪いのか、ここでは全くわかりませんでした。
▲4六角のぶつけでは、他にもいろいろな指し方があり、どれが最善かは全くわかりませんでした。
▲4六角とぶつけた時の気持ちは、わからないから、後手の返事を聞いてみよう、と思っていました。
△5五歩と最初の返事は予想していましたが、▲同歩のあとがまたわからず。
このあたりは、手探りで指していました。▲5五同歩で夕休。どう指してくるのか非常に興味がありました。
再開後の一手は、△9五歩の突き捨てから△2二銀左。なるほど、うまい呼吸だなと思いました。
4図以下の指し手
▲5四歩△同金▲7三角成△同桂▲4三銀△4七歩▲3二銀成△4八歩成▲4三角△3二飛▲同角成(5図)(羽生五段)
借金を返済したと言ってもこの忙しい局面で後手を引いているのですから良い理屈はなく、依然として苦戦が続きます。▲5四歩が厳しい一手で困りました。
以下、△7三同桂までは一本道ですが、次の▲4三銀を僕は軽視していました。
▲4一飛成ならば△4二飛とぶつける手がいつでもあるので、戦えると思っていたのですが、甘かった。
△4七歩はこの一手ですが、▲3二銀成が厳しい追撃。
とりあえず△同飛と取りそうなものですが、▲5八飛でジリ貧になりそうなので、△4八歩成と勝負に出たのですがこれもまずかった。
そう指すと5図までは一本道ですが、後手敗勢です。
△9五香が予定だったのですが、▲9一飛△3一銀打▲5四馬で全然駄目。
この終盤での誤算は致命的で、このまま押し切られると思いました。
ところが、ここからドラマが始まる。
(森下五段)
△9五歩と一本突き捨て、△2二銀左と穴熊を固めた指し方は、実にうまいタイミングというか、勝負の呼吸だなと感心しました。
しかし、感心ばかりしているわけにはいきません。
後手のうまい勝負呼吸に対し、こちらはあくまで単純、正直に▲5四歩。
自信はハッキリ言って全くなく、なるようになれと思っていました。
対して△5四同金はやや意外。△5五桂と厳しく指されるのが嫌でした。
しかし△5四同金も、ロープの反動を利用する羽生流の感じです。
▲4三銀の打ち込みでは、▲4一飛成も有力でした。
▲3二銀成と金をとった局面で、羽生さんが考えているので、私なら取って考えるが、取る前に考えるものなのか、などと考えていたら、△4八歩成と飛車を取ってきました。
エーッと驚きました。
5図以下の指し手
△8六桂▲同歩△同歩▲同銀△5九飛▲7九桂△3一銀打▲4三金△3二銀▲同金△4三角▲4一銀△5八と▲3三金△同銀▲3二銀打△6八金(投了図)
まで、96手で羽生五段の勝ち。(羽生五段)
△8六桂は非常手段で、普通に指していては追いつけないと思っていました。
▲7九桂が少し手堅すぎた様で、△3一銀打で難しくなった様です。
そして、▲4一銀が敗着。
▲3三金△同銀▲2四歩ならば勝負はどう転んだか解らないでしょう。
本譜は何とか寄せ切ることができました。
この将棋は森下五段にしてみれば将棋に勝って勝負に負けたという感じで、納得がいかなかったと思います。
僕の方も勝ったとは言え、内容は悪く、反省の多い一局だった。
第2局はもう少し自分に納得の行く様な将棋を指したいと思っている。
月日が流れるのは早いもので、今年の12月でプロになってからちょうど4年になる。
チャイルドブランドでいられるのももうそう長くはないので?このチャンスを逃さないで頑張るつもりです。
(森下五段)
当然△3二同飛と成銀を取られて、それで難しいと思っていたのに、△4八歩成だったので、驚くと同時に、勝ちになったのではないかと思いました。
それにしても△4八歩成とは大胆な一手で、よく決断できるものです。
私ならば、詰みまで読み切らないと、とても指せそうにありません。
前譜▲4三角で勝ちを意識しましたが、すると急に残り時間が気になりました。
それまでは一心に盤上のことを考えていましたが、勝ちを意識してから、少ない残り時間でちゃんと勝ち切れるかと、時間のほうに気が回ってしまいました。
余計なことを考えると駄目ですね。
以下の指し手は全く腰が入っていません。特に▲7九桂はなんたる中途半端な一手。あきれ返るばかりです。
かくして第1戦目は惨敗。修行不足もいいところです。もっともっと勉強をしなければと、痛感しました。
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ダブル自戦記は、それぞれの自戦記を別々に読むのも面白いが、手間はかかるものの、時系列の順番に双方を同時に読むという方法もあり、こちらも面白い。
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「このあたりからが作戦の岐路で、色々考えられて対局者は楽しい所ですが、見ている方はつまらない所です」
羽生善治五段(当時)のこの率直さが嬉しい。
「相矢倉は本当に一部のマニアしか解らない世界なのかもしれません。まあ、これから宮崎勤と結びつけることもできますが、まあ、やめておきましょう」
凶悪殺人犯とどのように結びつくのか、これは想像がつかない。
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「棋士同士のつきあいはどうしてもある一定の線を引かなければならない様です」
棋士同士のつきあい、友情について、先崎学九段が後年、非常に本質的なことを書いている。
→先崎学八段(当時)「すべてはふたりが変えたのだ。あの時から将棋界は変わっていったのだった」
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「△3三桂は定跡と知っていたけれども嘘だと思った」
このような考え方が将棋を発展させてきた。
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「それまでは一心に盤上のことを考えていましたが、勝ちを意識してから、少ない残り時間でちゃんと勝ち切れるかと、時間のほうに気が回ってしまいました。余計なことを考えると駄目ですね」
大優勢の将棋を落としてしまった森下卓五段(当時)。
「負けると、また負けるのではないか考えてしまい、勝てば勝ったで、今度は負けるのではないかと悩む」と冒頭に書かれているが、このような負け方をした直後なので、なおのことそのような思いが増幅したのかもしれない。
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羽生マジック的な手は出ていないが、相手を間違えさせるパワーも、広義の羽生マジックと言えるだろう。