将棋マガジン1991年6月号、高橋呉郎さんの「形のメモ帳:羽生善治 独り立ちの勲章」より。
いま考えると、四、五段時代の羽生は、将棋の常識を変えかねない一面をもっていた。序盤の作戦勝ちとか、中盤、指しやすそうだとかの常識が、この少年には通用しなかった。控え室の面々が、もうサジを投げたような局面から、不可思議な手を指して、しばしば逆転勝ちした。
いつか”終盤の羽生マジック”という呼称も生まれた。が、羽生自身は、終盤のマジックで勝つといわれるのが、気に入らなかったようだ。これまで無我夢中で勝ちまくってきた少年が、多少、大袈裟にいえば、自我意識に目覚めはじめたのである。
羽生が竜王位を獲ったとき、師匠の二上達也は、そんな弟子の気負いを見抜いてか、やんわりとこう書いている。
<当分はタケゾウで結構、やがては武蔵へ、人間武蔵へと思うのが現在の私の心境である>(将棋世界増刊号)
(中略)
その数ヵ月後、故・芹沢博文九段が羽生と対戦した。芹沢と会った機会に、手応えのほどを訊いてみた。
「まだ、将棋がどうのといえる段階じゃないですね。ゴチャゴチャ指しているうちに、勝ってるというだけだもの」
谷川浩司とくらべたら―
「谷川の将棋は、つねに踏み込んでいく。羽生には、谷川ほどのスケールの大きさはないですね」
(中略)
つい芹沢の話が長くなってしまったが、芹沢は羽生の将棋を高く評価していなかった。要するに、芹沢好みの将棋ではなかったということだろう。
芹沢の評価とはべつに、羽生は序盤がヘタクソだ、という声はよく聞かれた。これは、将棋がまだ幼い、といわれているに等しい。
将棋が強いのは、負けん気の強い証拠でもある。青年期にさしかかった羽生が、なにくそ、と反発したくなって、当然かもしれない。
少年期の羽生は、好球を見逃して、すぐカウントを追い込まれるバッターにたとえることができる。が、そのあとがしぶとい。ファールで粘り、ピッチャーが根負けして投げた球を、きわどく右中間あたりに落とす。だから、”いやらしい打者”ではあっても、強打者とはいいかねる。
かくてはならじ、と羽生は、真の強打者を目ざした。フォームも変え、好球必打に徹した。そのため、クリーンヒットはふえたが、打率は落ちた。打ち気にはやるあまり、追い込まれると、あっさり三振することもめずらしくなくなった。
じっさい、竜王になってからの羽生は、終盤、クソ粘りして、逆転勝ちする将棋が、めっきり減った。序盤を研究した成果で、きれいに勝つかわりに、きれいに負ける将棋もふえた。正々堂々として、かつてのいやらしさが消えた。
私も、いちど、そんな場面を目撃したことがある。
羽生の手番で、詰むや詰まざるやの局面を迎えた。駒台には、あふれんばかりに詰め道具が揃っている。羽生が考えはじめたので、私は、とうぜん、詰ましにいくものとばかり思っていた。ところが、熟考のすえに、羽生は投了してしまった。
たしかに、詰みはなかったのだが、かなりきわどかった。拍子抜けしたのは、私だけではない。控え室でも「王手をかけてから、投了したっていいじゃないか」と納得しかねる声が出ていたそうだ。
こんな具合に、羽生のモデルチェンジは進行した。やがて、竜王戦の挑戦者に谷川を迎える。結果はご承知のとおり。羽生は、中盤では谷川をしのぐほど、踏み込みのよさをみせながら、終盤でつまずいた。
この竜王戦で”羽生マジック”の神通力は、あらかた消えた観がある。私は、モデルチェンジが完成するには、まだまだ時間がかかりそうな気がした。羽生が棋王戦の挑戦者に名乗りを上げたときも、こんどはむりだろう、と予想した。
羽生が2勝しても、私の予想は変わらなかった。これでおもしろくなった、くらいに思っていた。
新潟で行われた第3局を、私は観戦した。初めて見る和服姿の羽生は、ふだんより格段に大人っぽかった。着付もおぼえたという。着付はたのんだものの、およそ和服に関心のなさそうな南芳一棋王(当時)にくらべると、羽生のほうが、いくぶんか颯爽としていた。
将棋のほうは、羽生が行儀よく指して負けた、という印象が強い。南が脳味噌をゴシゴシとこすりつけてくるのに、羽生の脳味噌がたじろいだようにみえた。竜王戦のときに感じた羽生のひよわさも、いぜんとして、私は払拭できなかった。
第4局は東京の将棋会館で行われたので、外出したついでもあって、控え室をのぞきに行った。これは、一種の怖いものみたさといえないこともない。
終盤で、羽生らしい鋭い一着が出た。この手がモニターテレビに映し出されたとき、控え室は騒然となった。土壇場でヒヤッとさせたが、羽生が勝って棋王のタイトルを奪った。
私の予想はみごとに外れた。どうやら、シロウトがとやかく心配するまでもなく、羽生のモデルチェンジは順調に進行しているらしい。
竜王と棋王の振り替わりでは、ソロバン勘定は合わないけれど、羽生にとって、このタイトルの意味するところは大きい。独り立ちの勲章をもらったようなものだ。
打ち上げ会での羽生は、さすがにいい顔をしていた。羽生と親しい先崎学が、「竜王を獲ったときより、うれしそうな顔をしている」といっていた。
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「少年期の羽生は、好球を見逃して、すぐカウントを追い込まれるバッターにたとえることができる。が、そのあとがしぶとい。ファールで粘り、ピッチャーが根負けして投げた球を、きわどく右中間あたりに落とす」
非常にわかりやすい例えだ。
切り口は違うが、勝つ時は非常に鮮やかで負ける時は最初からボロボロになっていることが多い人のことを、大物外人バッター(ホームランを打つ時以外は三振が多い)と呼んでいる人がいた。
これもわかりやすい。
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「かくてはならじ、と羽生は、真の強打者を目ざした。フォームも変え、好球必打に徹した。そのため、クリーンヒットはふえたが、打率は落ちた。打ち気にはやるあまり、追い込まれると、あっさり三振することもめずらしくなくなった」
現在の羽生善治九段も、AIで研究している棋士達に対するためのフォーム改造中なのだと思う。
改造を成し遂げた頃、再びタイトル戦で活躍をし続けることだろう。
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「竜王を獲ったときより、うれしそうな顔をしている」
順調に進んで行ってタイトルを獲得した時の喜びよりも、一度挫折をしてからタイトルを再び手にした時の喜び。
気持ちがわかるような感じがする。
近代将棋1991年5月号、甲斐栄次さんの本局の観戦記では、次のように書かれている。
打ち上げは立会人の佐瀬八段に中原名人、その他、若手棋士や関係者が多く集まって賑やかだった。
大仕事を仕上げ、晴れやかな笑顔を振りまく羽生は「この恰好で帰りますから」と、和服姿のまますっかりリラックス。なみなみと注がれたビールは格別うまそうだった。