村山聖五段(当時)の振り飛車講座(4)

将棋マガジン1991年11月号、村山聖五段(当時)の連載講座「ダイナミック振り飛車戦法」より。

将棋マガジン同じ号より。

 昔、私は努力をしていれば必ず夢は叶うと思っていました。

 しかし月日は流れ、この世には、どんなに思いを寄せても実らない事があると分かりました。

 しかし努力をしない限り永遠に辿り着く事はないのです。

 彼はいつも言ってました。

”大いなる思いは99%の努力と1%の運によって叶うと”

 今回は位取りを中心に講座を進めます。

初手からの指し手
▲7六歩△3四歩▲2六歩△4四歩▲2五歩△3三角▲4八銀△3二銀▲5六歩△4二飛▲6八玉△6二玉▲7八玉△7二玉▲5八金右△8二玉▲9六歩△9四歩▲6八銀△5二金左▲5七銀右(基本図)

 位取りの戦型では、振り飛車の玉の囲いは美濃囲いか穴熊、居飛車は舟囲いです。

 ▲5七銀右と上った手で先手の作戦が位取りである事が大体決まりました。

基本図以下の指し手①

△4三銀▲7七銀△4五歩▲7五歩△6四歩▲7六銀△4四銀(1図)

 △4三銀に先手は▲7七銀と上がりました。

 これで居飛車の作戦は玉頭位取りに決まりました。

 ここで△3二飛と寄り△3五歩から石田流に組む手も有力です。

 しかし、今回は△4五歩と突く手を調べてみましょう。

 △4五歩に先手は▲7五歩と位を取ってきます。

 そして△6四歩と突いた手に▲7六銀と立ってきます。

 ここで△8八角成▲同玉△5四角と打っても▲7七玉で大した事はありません。

 後手は△4四銀と角交換を拒否します。

1図以下の指し手
▲6六歩△6三金▲6七金△5四歩▲4八飛△7二銀(2図)

 ▲6六歩と、6筋の歩を交換する手を見せながら▲6七金と上がる手を作ってきます。

 対して後手は△6三金と上がって歩交換に備えます。

 先手は▲6七金と上がりました。

 後手は△5四歩と突きます。

 次に△5五歩▲同歩△同銀▲5六歩△4六歩と指す順が実現すれば優勢になります。

 ▲4八飛と穏やかに受けました。

 ここで△9二香と上がり穴熊にする手もあるのですが、△9四歩▲9六歩の交換をしているので若干上がりにくい感じです。

 一手で囲いが完成するし、美濃囲いは堅い囲いですので△7二銀で充分です。

2図以下の指し手
▲8六歩△5五歩▲同歩△同銀▲7七角△5四金▲8五歩(3図)

 ▲8六歩で▲7七角と上がる手も考えられます。

 この場合は△8四歩と突き△8三銀から△7二金と銀冠に組み上げます。銀冠は堅い囲いで、対位取りには優秀とされています。

 その順を嫌って先手は▲8六歩と突いたのです。

 後手は△5五歩▲同歩△同銀と一歩交換に出ます。

 ここで▲5六歩と打って簡単に局面は収まる様に見えますが、後手には△同銀と強く取ってくる手があります。以下▲同銀に△5五歩(変化A図)と打つ狙いです。

 変化A図の局面は後手銀損でも、先手の銀も死んでいるので大して損ではありません。

 問題はここで先手に良い手があるかどうかですが、一見した所、なさそうに思います。

 変化A図からの仮想手順で▲5五同銀△同角▲5六歩△4六歩▲同歩△同飛、の様になれば後手優勢です。

 さて本譜、先手は▲7七角と上がって先の順を回避します。

 それに対して△5四金(5六歩は指し過ぎ)と圧力を加えます。

 ここで先手は▲8八玉とは寄りにくい(間接的に後手角筋に入るのと離れ駒が生ずるので)、▲6八金直は△5九銀の傷が残る、という事で▲8五歩と手待ちをします。

 3図でどう指すか、△1二香と待つか、△6五歩▲同歩△5六歩と攻めるか、△6二飛と回るか、他にも手はあります。

 とにかく戦いの主導権は振り飛車が持っています。

 3図は振り飛車有望だと思います。

基本図以下の指し手②

基本図以下の指し手
△4三銀▲5五歩△7二銀▲5六銀△6四歩▲3六歩△7四歩(4図)

 今度は5筋の位を取った順を解説したいと思います。

 振り飛車の方としては居飛車の手を見て態度を決めなくてはいけません。

 先手が▲3六歩と突いた事により急戦の気配が強くなりました。

4図以下の指し手
▲4六歩△4一飛▲1六歩△5一角▲3七桂△1二香(5図)

 先手は▲4六歩と突いてきました。

 ここで△4一飛と引くのが良い手です。

 続く▲1六歩に△5一角と引くのが好手で、▲3七桂と桂を活用した時に△1二香と角筋を避けるのも振り飛車の常套手段です。

 この形が5筋位取りに対しての振り飛車の基本形でもあるのです。

 5図はこれからの将棋ですが、玉の堅さ、駒の効率などを考えると少し振り飛車の方を持ちたい気がします。

 5図以下は▲4五歩△同歩▲同銀ぐらいの進行だと思います。

 同じ5筋位取りでも▲3六歩と突かずに▲6六歩と穏やかに駒組みをする順があります。

基本図以下の指し手③

基本図以下の指し手
△4三銀▲5五歩△7二銀▲5六銀△6四歩△4三銀▲5五歩△7二銀▲5六銀△6四歩▲6六歩△6三金▲6五歩(6図) 

 5筋位取りは、この形が一番多い様な気がします。

 ▲6六歩から▲6五歩と先手は一歩交換します。

 これにより先手は一歩持つ事と、▲6七金とさらに陣形を手厚くする狙いがあります。

6図以下の指し手
△6二飛▲5七銀△4五歩▲6六銀△5四歩▲6四歩(7図)

 6図で△6二飛と回るのが好手です。

 なぜかと言いますと振り飛車の方は、ほとんど完成された陣形に対して居飛車の方はまだまだ指したい手があります。

 ですので、今戦いを起こさなければ、だんだん居飛車の陣形が良くなっていってしまうからです。

 ▲5七銀に△4五歩と角道を開けて、▲6六銀と力を加えた時に、△5四歩と4三銀を働かせようとします。

 △5四歩を▲同歩は△同銀、あるいは△6五歩から△5四金、どちらでも振り飛車ペースです。

7図以下の指し手
△同金▲6五歩△5五歩▲6四歩△5六歩(8図)

 7図から△6四同金▲6五歩と進みます。

 ここで△5五金は▲同銀直△同歩▲5三金で悪そうです。

 △5五歩と取るのがうまい取り方です。以下、▲6四歩△5六歩と進みます。

 ここで▲5三金は△6四飛▲4三金△6六角があります。  

 8図では恐らく▲6七金ぐらいですが、△6五歩と攻めても、△6四飛と穏やかに指しても、どちらでも後手優勢です。

基本図以下の指し手④

基本図以下の指し手
△4三銀▲5五歩△7二銀▲5六銀△3二飛▲6六歩△3五歩▲1六歩△4二角(参考B図)

 △3二飛と回って石田流に組む手も実戦例の多い指し方です。

 △3二飛に対して▲3六歩と突く手は△5一角と引き▲3八飛という展開になります。

 ▲6六歩と突けば△3五歩▲1六歩△4二角で参考B図の局面になります。 

 参考B図からは▲2六飛と浮き△6四歩と歩を突いて一局の将棋だと思います。

 ただ、僕はどちらかというと後手の方を持ちたいです。

 今回の講座はこれで終わりです。

 早いもので今回が4回目の講座です。

 いつも順位戦と重なって原稿を出すのが遅いので、編集部の方々に迷惑をかけています。

 次こそは早めにと、いつも思うのですが……。

 それではまた来月会いましょう。

* * * * *

村山聖五段(当時)の連載講座「ダイナミック振り飛車戦法」は、将棋マガジン1991年8月号から12月号まで、5回に渡って連載された。

村山聖九段執筆の講座は、知る限りはこの講座だけであり、非常に貴重なものだと思う。

この講座を書くことになったきっかけは、師匠の森信雄五段(当時)からの「これは命令や」の言葉。

この辺の経緯や、なぜ居飛車党の村山五段が振り飛車の講座をやることになったか、などについては、次の記事に詳しい。

村山聖五段(当時)の振り飛車講座(1)

* * * * *

連載2回目と3回目は次の通り。

村山聖五段(当時)の振り飛車講座(2)

村山聖五段(当時)の振り飛車講座(3)

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「村山聖五段(当時)の振り飛車講座(3)」のブログ記事が2015年12月。

(3)と今日の(4)の間に、なぜ4年以上の歳月が流れたかというと、以下の理由がある。

  1. 原稿の仕事が入ると、原稿の締切り日までの間のブログ記事を事前に日数分書きだめしている。
  2. ところがこの時は、(1)~(3)に取りかかったものの、時間に余裕がなく、(4)(5)とも打ち込む文字数等が多かったため、別の短い文字数の記事を書きだめすることに注力した。
  3. 原稿を入稿した後も、少しボーッとしていたかったので、ブログは短めの記事が多かった。(4)(5)は、もう少し落ち着いてからにしよう。
  4. と思っている間に、4年以上経った。

という次第。

その間に、映画『聖の青春』が2016年に上映され、さらに個人的には2016年、2017年、2018年と、5月に開催されている「森一門祝賀会」にも参加している。

4年という月日はあっという間なのか、あるいは私がズボラなのか、どちらにしても、晴れて(4)を紹介することができた。

明日は、もちろん(5)。

 

将棋関連書籍amazonベストセラーTOP30(2020年2月29日)

amazonでの将棋関連書籍ベストセラーTOP30。

 

「あの人達は黙っているのが一番得意なの」

将棋マガジン1991年12月号、鈴木輝彦七段(当時)の「つれづれ随想録」より。

「黙らせたら日本一」というのが将棋界で、感情を悟らせない事にかけては大変な集団である。

 ある時、林葉女流名人の友達数人の女子大生が若手棋士と会ったが、「何もしゃべってくれなかった」と感想を洩らしたそうだ。

「あの人達は黙っているのが一番得意なの」と林葉さんのフォローにならないフォローがあったと聞いた。

(以下略)

* * * * *

黙っているのが一番得意、というのも大いにありだと思うし、そのような時期もある。

男子高に通っていた時代を思い出すと、高校時代の3年間で、(自分の年齢プラスマイナス10歳)の女性と話をしたことなど、5回あったかどうか。

女性と話をしろと言われても、

「昨日のジャイアント馬場-大木金太郎戦での馬場さんのジャンピングネックブリーカードロップは最高だった。テレビで見ました?」

「コブラツイストって、本当に痛い技なんでしょうかね?」

「4の字固めをかけられたら、うつ伏せになるように体を回転させれば、逆に相手が痛がりますから、一度試してみてください」

「ザ・シークって口から火を吐くんですよ」

「やっぱり、プロレスは猪木の新日本よりも馬場さんの全日本だと思います」

のようなプロレスの話しかなく、

歴史上の好きな人物を聞かれても「平重盛」、最近読んだ本を聞かれても「江戸川乱歩の『陰獣』『芋虫』」としか答えることができなかったから、目の前に複数の女性がいても、じっと黙っているしかなかったと思う。

こればかりは場数を踏まないと、なかなか難しい。

 

真部流「大河戦法」

将棋マガジン1991年12月号、鈴木輝彦七段(当時)の「つれづれ随想録」より。

真部一男八段(当時)。将棋マガジン同じ号より。

「何を考えているのか判らなくて思わず長考してしまいました」と局後に言うと、

「考えても判らないと思うよ、何も考えていないのだから」と真部さんに言われたことがある。

 A図は真部さんが得意にしていた陣立て。最近は指していないようだが、この理由も判らない。

 A図から、

  1. ▲3八飛~▲4八玉~▲3九玉の袖飛車にする。これは四間飛車からの袖飛車の変化を考えると一手得の意味がある。
  2. 普通の居飛車
  3. 2を嫌って△8五歩▲7七角を決めれば▲8八飛の向かい飛車の変化。

 他にも変幻自在の指し回しがあるそうで、名付けて「大河戦法」と言うたしい。

 もっとも、居飛車穴熊対策に指していたのも「悠々大河の流れ、大河作戦」と言っていたような気がする。

 A図は別名を「女心戦法」とも言うそうだ。

 女心で苦労し抜いた末に出来た独自の戦法らしい。若手でマネをする人が現れないのが判る気がする。

「女心と秋の空」(正しくは「男心と秋の空」と言うらしいが)と俗にも言うように、女心は読みづらい。

 日本でも有数の財界人が或る女優さんと付き合って「女優は金がかからなくていい」と言ったそうだ。

 楽しい時はいいが冷静になって、無心されると自分が本当に好きなのか、お金が目当てなのか悩む事になるのだろう。

 シェークスピアも「貧乏人の唯一の特権は、それが真実の愛と判る事である」と言っているくらいだ。

「これが、いくら考えても判らないんだね。女性自身が本当の愛かお金が目当てなのか判らないんだから」が真部さんの結論らしい。

 相手がどう思っているのか判らないのに、考えても判る道理がない。

 A図に苦しんでいたのは、恋愛に苦しんでいる男のようなものかもしれない。

 もとより、女性が優柔不断で思慮が浅いという意味ではない。むしろ、現実に生きる強さとロマンの融合がなせる業だという気がする。

(以下略)

* * * * *

A図の「大河戦法」、たしかにいろいろな方策が取れそうだし、現代ならツノ銀雁木にもすることができる。

相撲用語でいえば、まさしく「なまくら四つ」。

* * * * *

「これが、いくら考えても判らないんだね。女性自身が本当の愛かお金が目当てなのか判らないんだから」

そうではない女性もたくさんいると思うが、このようなケースもあったということだろう。

シェークスピアの「貧乏人の唯一の特権は、それが真実の愛と判る事である」は初めて聞いたが、なるほどと思わせられる台詞だ。

* * * * *

「考えても判らないと思うよ、何も考えていないのだから」

相手が何も考えていない時に、真剣になって相手の真意を探る。

結果として、相手が何も考えていないことがわかればまだ救いはあるが、そうではなく、真面目に考え続けた場合は、本当に時間の浪費、何もせずに寝ていたほうがマシだった、ということになってしまう。

ところが、将棋の場合はそうもいかない。意味がわからない手を指されても、相手が何も考えないで指していたとしても、真面目に応手を考えなければいけない。

こちらが何も考えずに指した手を、相手が長考してくれるという逆のケースもある。

もちろん、何も考えずに指した手は、幸運をもたらせてくれないことが多いが。

 

真部一男八段(当時)「酒を飲まない芹沢先生なんて、生きてる意味がないですよ」

将棋マガジン1991年12月号、高橋呉郎さんの「形のメモ帳:真部一男 楽しきかな夜型生活」より。

真部一男八段(当時)。将棋マガジン同じ号より。
二人のジュニア

 今期の竜王戦は、多少の身びいきもあって、ひそかに小林宏五段を応援した。惜しくも挑戦者決定戦で敗れたが、大相撲なら、敢闘賞ものの活躍である。

 小林の父君、小林察氏とは、かつて同じ出版社に勤め、女性週刊誌の編集部で机を並べた時期もある。いまひとり、高田尚平四段の父君、高田宏氏もべつの部署にいた。当時、社員は90数名でしかなかった。そのうち、二人も息子がプロ棋士になったというのは、めずらしいケースかもしれない。

 小林さんとは、よく将棋を指した。じっくり考えるネチッコイ将棋で、それに辟易させられたせいもあって、たいてい私が負けた。

 会社は大いに儲かっていたが、そのぶん、商売っ気が強すぎて、居心地のわるい面もあった。小林さんも高田さんも相次いで辞め、数年後には私も辞めた。もともと小林さんは学究タイプだったので、大学の先生になった。

 その後、両氏と会う機会がなかったが、10数年前、肝煎役がいて、同じ年格好の退職者が集まる会がもたれた。私も出席して、両氏と久方ぶりに飲んだ。

 話題が家族に及んで、高田さんが鷹揚にいった。

「息子は将棋のプロになるんだといって、奨励会にはいっちゃったよ。ものになるかどうかわからないけど、とうぶんはスネをかじらせるしかしようがない」

 それを聞いて、小林さんが身を乗り出した。

「うちの坊主も強いんや。学校やめて奨励会にはいるいうんで、どうしたもんか迷ってたんだ。きみんとこもそうだったのか……」

 もしかすると、小林さんは高田ジュニアがそうだと知って、このとき腹を決めたのかもしれない。

 2年ほそ経って、私は、年に何回か名将戦の観戦記を書くようになった。その程度では、将棋界の情報にも疎かったが、両ジュニアの成績は、おりにふれて心にとめた。

 小林ジュニアは二段で足踏みしていたが、山で遭難してから、なにかがふっきれたように勝ちまくり、あっというまに四段に昇段した。翌日の夜に、あきらかに一杯機嫌とわかる声で、小林さんから電話がかかってきた。ざっとこんな調子だった。

「知っとると思うけど、息子、昇段しおった。親バカを承知で、ほうぼうに電話しとるとこや。これからもたいへんやろうけど、とりあえず一人前になってくれた。きのうから、酒がうまくてねえ……」

 ほどなく、小林新四段の対局を観戦した。そのときが初対面で、生一本な青年という印象を受けた。将棋は、ほとんどいいところなく、小林が負けた。終局後、観戦記の材料に山登りの話でも聞こうと思って、そのむね告げたら、小林は、まじめくさった顔で答えた。

「いまは、将棋一筋に打ち込みたいので、ほかのことは話したくないんです」

 そうまでいわれれば、こちらは引き下がるしかない。おやじさんは、けっこうさばけたところもあったけれど、これは相当な堅物だと思った。

 もっとも、小林が偏屈な青年というわけではない。とうぜん、おやじと私の関係も知っている。ときたま将棋会館で会って、声をかければ、いたって快活に受け答えをする。さして深い付き合いがあったわけではないが、結婚式にもご招待いただいた。

 高田ジュニアのほうは、四段昇段までにずいぶん時間を食った。おやじさんとは、ときたまパーティで顔を合わせた。豪気な人で、雑事にチマチマしないタイプだが、息子の話をするときは、世間一般のおやじの顔をのぞかせた。

 高田が昇段したと聞いたときは、正直いって、私もほっとした。さっそく、おやじさんに電話をかけた。高田さんはシラフだったが、酒を飲んだときと同じくらいに、声が弾んでいた。

弟子は登山のプロ

 昨年、小林はC1に昇級した。パンチ力があって、確実に強くなっている、という棋士仲間の評も伝わってきた。

 しかし、じつをいえば、私が小林に注目したのは、将棋のせいではなかった。惚れ惚れするような、みごとな体格に注目した。この点にかけては、将棋連盟随一と太鼓判を押しても、どこからも異論は出ないと思う。

 だいたい、世の男は結婚して5、6年も経つと、どこか筋肉がたるんでくるものなのに、小林には、そんな気配はチリほどもない。贅肉のかけらもない。すらりとした長身は、やせているのではなく、いかにも鍛え抜かれたという感じがする。

 聞けば、登山はプロ級で、日ごろからトレーニングを怠らない。毎年、フルマラソンに参加し、3時間そこそこで走った実績もあるそうだ。山登りでは小林の弟子筋に当たる滝誠一郎六段も、口をきわめて絶賛している。

「彼は凄いですよ。われわれの倍ぐらいかついでも、ぜんぜんへこたれないですからね。エベレスト登山隊に加わっても、じゅうぶんにつとまりますよ」

 さて、その小林の師匠が真部一男八段である。この取り合わせが、なんとなくおかしい。

 将棋界の師弟関係は、かつての内弟子時代とちがって、師匠が弟子の生活を律するほど濃密なものではない。が、そうはいっても、師弟を並べてみると、どこかにつながりがある。

 小林と同年代の棋士を例にとれば、大内延介九段=塚田泰明八段・富岡英作六段には、どこか”師唱弟随”の空気が漂っている。高柳敏夫八段=島朗七段は、すぐに結びつきにくいが、中間に中原誠名人を配すれば、うまい具合につながる。島は中原を尊敬してやまない。佐伯昌優八段=中村修七段には、藤沢、町田という地縁の線がみえてくる。

 ところが、真部と小林は、どこをどうつついても、将棋を指すという以外に、結びつくものがない。愚行するに、これは、小林があまりに健康体すぎるからといえそうだ。

 真部は少年時代に器械体操の選手で、棋士になってからも、酔うと逆立ちの特技を披露した。いまは、残念ながら、そんな面影は探すべくもない。

 もう何年も前から、首が回らないという奇病に悩まされている。そのために、陰鬱な顔をしたりすることはないけれど、すくなくとも健康体とは程遠い。

 いっぽう、弟子は、この夏には本物のアルプスを登攀してきた。対局姿勢にも、見るからに精気が漲っている。正座をしても、ほかの棋士とはどこかちがう。姿勢がいいのはとうぜんとして、鋼でも入れたようにピンと張りつめている。

 誤解のないようにいえば、この師匠と弟子が、おたがいにソッポを向いているというわけではない。小林は月に1回、大野八一雄五段を連れて、家にこもりがちの真部を訪れ、最近の棋譜を検討する。それがすめば、酒を飲み、麻雀の相手をする。真部は昔気質の男だから、弟子の気づかいを肌で感じているはずである。

 ただ、なにせ生活のスタイルがちがいすぎる。中身をべつにして、スタイルだけみれば、こんな異質の師匠と弟子もめずらしい。

ゲームの天才

 棋士は、がいして夜型が多い。酒を飲むでもなく、ゲームをするでもなく、ごくあたりまえの生活をしているつもりでも、寝るのは、しぜんに3時、4時になる。翌日は対局だからといって、そうそう早くに眠れるはずもない。大方の棋士は、対局中でも午前中は半分、眠っているようなものだろう。

 真部は、この夜型の典型といっていい。3ヵ月ほど前に観戦したときも、昼過ぎに控え室で、「夕方になると、元気が出るんですけどねえ」と笑いながらいっていた。

 その対局がすんで、真部と鈴木輝彦七段ともとも近くの飲み屋に行った。たまたま話が最近の日常生活に及んで、真部の夜型生活の現況も知った。

 先ごろ、棋譜のパソコンソフトが出現して、話題になった。お目当ての新戦型が、立ちどころに出てくるという。森雞二九段は「知らないだけで負けるのはシャクだから」といって会員になった。真部も乗って、自宅にパソコンを導入した。真部がいうには、

「たしかに便利なんです。だれがどんな手を指したか、パッとわかる。ところが『三国志』のソフトをもってきたやつがいましてね。それをやりだすと、キリがないんです。気がつくと、たいてい7時ごろになってますね」

 これには、夜・昼折衷型みたいな鈴木が呆れていた。昼寝付夜型のわたしも、しばし唖然としました。

 パソコンで思い出したが、河口俊彦六段によると、真部は大山康晴十五世名人と並んで、”ゲームの天才”だそうな。総じて棋士はゲームののみ込みが早いが、なかでも、この二人が群を抜いているという。

 真部は麻雀をおぼえるのが遅く、2、3年前からはじめた。ふつうなら雀歴20年もの棋士と手合わせするのを敬遠するはずなのに、真部はいっこうに怖気づかない。勝ち負けはともかく、とりあえず、どんなゲームか、のめりこんでみるつもりでいたらしい。

 最近は、麻雀熱も、やや醒めかかっているかにみえる。

 オーソン・ウェルズの母親は、たいへんな教育ママで、ウェルズが2歳のときに、チャールズ・ラムの『シェークスピア物語』を読んであげた。ウェルズ坊やは、それでは満足せず、物語に要約する前のシェークスピアの戯曲を読んでくれと頼んだ。いわれるままに母親は、息子が3歳になったころから、数年をかけて、シェークスピアの全作品を読んで聞かせた。

 ウェルズは7歳のときには、『リア王』の全台詞を空でいえた。9歳のときには、家族や友だちの前で、『リア王』のひとり芝居を演じたという。(浜野保樹著『メディアの世紀』による)

 こういう話を聞くと、われら凡人は、さすがオーソン・ウェルズは天才だ、と驚嘆する。

 ところが、棋士連中は、あまりおどろかない。そのくらいのことは、その気になれば、自分にもできるんじゃないか、というような顔をする。

 かつて山口瞳氏は、将棋連盟は”狂人の集団”であると表現した。真部を見ていると、あらためて、なるほど、と思わざるをえない。百人一首なんかも、3時間で暗記してしまう。しかも「楽勝でした」とけろりとしている。

 ひところ、真部は英会話に凝ったことがある。こんなものは暗記するにかぎるとばかりに、テキストの英語を頭から暗記した。私は真部の英語を直接、聞いたわけではないけれど、英語に堪能な某女性の証言によると、とめどなく英文がくちから出てきたそうだ。

 ただし、天才の移り気とでもいうのか、なにをはじめても、あまり長つづきしない。ご当人は「途中で放り出した趣味が、いっぱいありますよ」といって笑っている。

”滅びの美学”の行方

 真部の夜型生活は、酒とも無縁ではない。私は、とことん酒を付き合ったことはないが、最近の真部の飲みっぷりは、芹沢博文九段に似てきた、という声も聞く。

 芹沢の晩年、棋士仲間や友人、知己のだれもが芹沢の飲みすぎを心配した。私もいちどだけ年の功をカサに、せめて夕方から飲むようにしたらどうか、と本人にいったことがあるけれど、ぜんぜん効果はなかった。

 そのころ、真部はこういった。

「酒を飲まない芹沢先生なんて、生きてる意味がないですよ」

 ここまではっきりいったのは、私の知るかぎり真部ひとりである。おそらく、これは正論かもしれない。私もそう思わないではなかったが、そこまでいえる勇気はなかった。

 といって、真部は勇気があったというのは、まちがっている。真部は心底から芹沢が好きだったのである。健康のためにという世間一般の常識に左右されることなく、自分の気持ちをすなおに口にしたにすぎない。

 いささか暴論気味にいえば、プロ棋士というのは、そういう人種なのではないかと思う。この場合、将棋指しといったほうが、わかりやすいかもしれない。常識の塊みたいな将棋指しなんて、おもしろくもなんともないような気がする。

 河口六段がいかにも真部らしい話を書いたのを、なにかで読んだ記憶がある。

 真部がある駅で降りて、駅前の風景が1年前にきたときとは、ずいぶん変わっているのにおどろいた。じつは、降りる駅をまちがえていたのに、ぜんぜん気がつかなかった―。

 河口によると、これは典型的な将棋指しの発想だという。それほど変わっていれば、ふつうの人間は、駅をまちがえたのではないかと考える。将棋指しは、そうは考えない。つねに自分が正しいと思っている。よほどのことがなければ、自分の非を認めない。河口は、そういう根っからの将棋指しが、だんだんすくなくなっていくのを、さみしがっていた。

 その意味で、真部は、いまや残された数すくない将棋指しのひとりといえる。逆にいえば、なかなかの難物ということにもなる。

 真部の健康を考えれば、すこしでも生活を昼型のほうに移し、酒の量もひかえたほうがいいに決まっている。が、だれが忠告しても、およそ効果は期待できそうもない。

 近ごろの真部には”滅びの美学”に殉じようとしているところさえ見受けられる。それも、もうとやかくいわないようにしよう。

 しかし、救いがないわけではない。対局室での真部は、つねに明るい表情をしている。暗さはみじんもない。奇病のハンディを背負いながら、対局には精いっぱい頑張っている証拠だろう。

 真部は、将棋会館から電車なら一駅、ごく近間に住んでいるのに、定刻ぎりぎりか、ときには遅刻もした。早めに起きて、駅まで歩くという、ごくあたりまえのことができず、タクシーに頼ったがために、そうなった。

 最近、その非にようやく気づき、贅沢ながら、対局のある日は、ハイヤーを予約することにしたという。

 これも、まだ対局にまで”滅びの美学”を持ち込んでいない証拠と考えていい。真部ファンよ、ご安心あれ……。

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「小林の父君、小林察氏とは、かつて同じ出版社に勤め、女性週刊誌の編集部で机を並べた時期もある。いまひとり、高田尚平四段の父君、高田宏氏もべつの部署にいた」

この出版社とは光文社で、女性週刊誌は「女性自身」。

小林察さんは玉川大学教授、大阪学院大学教授を歴任している。

作家の高田宏さんには、将棋ペンクラブ会長を長い間務めていただいた。高田宏さんは少女雑誌「少女」編集部。

高橋呉郎さんにも、将棋ペンクラブ大賞最終選考委員などを務めていただいた。

高田宏さん

高田宏さん逝去

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「小林ジュニアは二段で足踏みしていたが、山で遭難してから、なにかがふっきれたように勝ちまくり、あっというまに四段に昇段した」

小林二段(当時)は、谷川岳一ノ倉沢に登った時に吹雪で動けず、丸4日間山小屋にカン詰になった。嵐が収まってから動いて午前3時に東京着。そのまま奨励会に出席したが、幹事の滝誠一郎六段(当時)が心配して、「今日は休みなさい」と言っている。

遭難といっても、自力で東京へ帰還しているので、狭義の遭難というよりも広義の遭難。

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真部一男九段は、棋界の初代・プリンス。

格調高い無頼派棋士で、格好いい不良少年の雰囲気をずっと持っち続けていた。

この頃の真部九段は、自戦記を含め、将棋雑誌ではほとんど文章を書いていなかったが、後に将棋世界で連載となる「将棋論考」は、非常に面白く素晴らしいものだった。

また、真部九段は将棋ペンクラブ大賞を「将棋論考」と「升田将棋の世界」で受賞しており、それぞれの贈呈式の時のスピーチも絶妙だった。

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真部九段が書いたこと、エピソードは非常に多く、このブログで取り上げたことも数多くある。

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真部九段の麻雀は、次のような形で終わっている。

真部一男八段(当時)の麻雀

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真部九段、小林宏七段、高橋呉郎さんの3人が登場するエピソード。

真部一男八段(当時)の深夜の憂鬱

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小林宏七段インタビュー。師匠・真部九段に初めて会った時の思い出「オーラに圧倒されて、勝てなかった」【師匠との思い出・小林宏七段インタビュー vol.1】(日本将棋連盟)

(vol.4まであります)