2019年を振り返る(多く読まれた記事)

2019年、トップページ以外で多く読まれた記事TOP50。

  1. 羽生善治五段(当時)「大学には、たぶん行ってないでしょう。5年後の目標はA級八段です。タイトルは、取れればいいけど、そううまくいかないかもしれません」
  2. 「もう投げるから羽生君を呼んできてよ」
  3. 「皆の頭に浮かぶ人物、口には出さねど”あの男”。そう、他に誰がいるというのか」……神と呼ばれた伝説の匿名ネット棋士
  4. 米長邦雄王将(当時)「先崎は、アイツはもう破門にしようかと思っていたんだが、オレと一緒に脱いだんでやめにしたよ」
  5. 羽生善治五段(当時)の「将棋史上に残る一手」
  6. 「羽生君は、このクラスを免除して、上に行ってもらうべきでしょう」
  7. 羽生善治五段(当時)「申し訳ないなあ、これじゃ先が思いやられるなあという気持ちです」
  8. 谷川浩司名人(当時)「シロウトさんをいじめて、どないしまんのや」
  9. 「棋士が続々天童へつめかける。羽生の骨を拾ってやる、と言うのが先崎五段らだ」
  10. 「先崎君、この間、中原名人のボトルを飲んで”大山が飲みました”ってマジックで書いたのよ」
  11. 谷川浩司名人(当時)「脇さんの歌を聞いても二人の仲が壊れなかったのだから、今後の夫婦生活もきっとうまく行くと思います」
  12. 村山聖四段(当時)「オッまだ残っていたか、顔がニヤけてきて押さえるのに大変でした」
  13. 昔から奨励会内で語りつがれてきた嘘のような本当の話
  14. 「性格は将棋同様温厚かつ真面目で皆に好かれている。しかし、その童顔からは想像もつかないようなオジンクサイ話し方が数少ない欠点の一つか」
  15. 森内俊之四段(当時)「羽生君はついているんだから、たまには負けた方がいいですよ。あんまり勝つと嫌われますよ(笑)」
  16. 中原誠名人に圧勝した羽生善治四段(当時)
  17. 羽生善治竜王(当時)「今、将棋界で一番横歩取りを知っているのは誰かと聞かれたら、僕はためらわず『中川大輔』と答えるだろう」
  18. 谷川浩司名人(当時)「みんな”先輩を立てる”とか何とか言っておきながら、ひどいですよねェ」
  19. 「羽生は、勝負のオニだ」
  20. 谷川浩司九段の歯に衣着せぬ棋譜解説
  21. 羽生善治新竜王「竜王になって大変なことになりました。重さに耐えられるかどうか…」
  22. 谷川浩司名人(当時)「どうも性格で、このような派手な手を発見すると、どうしても盤上に表したくなるのである」
  23. 米長邦雄九段「この手は第一感、無理である。なぜならば後手が手堅く手堅く、先手からの攻めを封じようとしているところを、何が何でもつぶそうという、その精神が良くない。▲3五歩は悪手である」
  24. 羽生善治五段(当時)「遂にここまで来た。棋王戦、棋聖戦では準決勝で負けて悔しい思いをしたので、そんな感じだ。僕にとっては初めての挑戦者決定戦」
  25. 先崎学四段(当時)「森内にとっての羽生は、昔は太陽であった。この世界、四段と初段は社長とヒラの様なものである。あまりの輝きと口惜しさでとても直視できない」
  26. 大山康晴十五世名人「ただ、今、七つのタイトルを六人で分け合っていますよね。これは、おもしろいかもしれんけれど、あまり好ましい傾向ではないと思いますよ」
  27. 谷川浩司王位(当時)「ひどい将棋を指して、申し訳ありません。それ、詰まないんです」
  28. 羽生善治五段(当時)「防戦一方で諦めの悪い僕もさすがに負けを覚悟しました」
  29. 二上達也九段「羽生将棋の分析を編集部から依頼され何気なく引き受けたものの、よく考えれば分かっちゃいないことを書かねばならないのだから無茶なはなしだ」
  30. 「彼は強いですね。5年後ぐらいには八段になりますかね」「甘いです。タイトルをとる棋士になるでしょう」
  31. 大山康晴十五世名人「それは簡単ですよ。いま直ぐやめなさい」
  32. 「村山君が詰まない、と言っています」
  33. 二上達也九段「羽生君に訊くと、テレビも見ない、マンガ雑誌も読まない。トイレに入るにも将棋の本を持って入る……これで強くならなきゃ、おかしい(笑)」
  34. 升田幸三実力制第四代名人「おっと、こんなこと教えちゃいかん。今ので実力四段が五段になってしまう」
  35. 羽生善治四段(当時)の「タイトルホルダーに挑戦」
  36. 羽生善治竜王(当時)「あの新鮮な気分は失われてしまったような気がする」
  37. 「大盤解説の会場をのぞくと、いつもの七分くらいしかお客さんがいない」
  38. 森内俊之四段(当時)「新四段の奢りでしょ」
  39. 先崎学八段(当時)「すべてはふたりが変えたのだ。あの時から将棋界は変わっていったのだった」
  40. 「羽生が気持ちよさそうに将棋を調べている。満点の答案をさっさと出して、校庭で遊んでいるようなものだ」
  41. 「羽生四段のほうは、秀才タイプにありがちな老け顔といっていい。それにくらべると、森内四段は、まだ腕白小僧の面影を残している」
  42. 村山聖五段(当時)「この一局だけは勝ちたかった」
  43. 谷川浩司名人(当時)「我ながらエキサイトしやすい性格なんだと思いました。かなりあつくなっているのが自分でも分かりましたからね」
  44. 林葉直子女流名人(当時)「奨励会旅行に参加して」
  45. 浦野真彦六段(当時)「今期、羽生、村山と当たっていた私はまず2敗は計算していた」
  46. 村山聖新四段(当時)「僕の師匠の森信雄先生は世界一の師匠だと思っています」
  47. 羽生善治前竜王(当時)「最近、若手棋士がグループでスキーに行ったりしています」
  48. 50年前は珍しくなかった棋士同士の喧嘩
  49. 「彼が名人になるのはむずかしいんちゃうか、正直いってそう思ってます。とはいえ、私が名人になる可能性よりは強いでしょう(笑)」
  50. 村山聖四段(当時)「親以上ですから」

 

それでは皆様、よいお年を。

 

谷川浩司竜王(当時)「中原名人の前では……」

将棋世界1991年2月号のグラビア「第4回駒音コンサート」より。撮影は炬口勝弘さん。

 12月11日、東京虎ノ門のイイノホールで第4回駒音コンサートが行われた。今までは、オーケストラをバックに棋士達が自慢のノドを競い合うという趣向であったが、我が将棋連盟はそれではあきたらずに、とうとうオーケストラのタクトを振るという暴挙!?に出たのである。振ったのは棋界でも有名なクラシック通 中原名人と青野八段。もっとも、どんな棒にもピタリとついていくプロの凄さを再認識させたという噂もありましたが…。とはいえ、年に一日の歩と譜の祭典、何とも楽しい一日でした。

* * * * *

場内からブラボーの嵐。プロも本気で絶賛した佐藤のバイオリン

* * * * *

林葉、中井コンビは「待つわ」をデュエット、何を?

* * * * *

「おゆき」で挑んだ石田、いつでもどこでも爆笑の渦

* * * * *

繊細な指先にタクトがよく似合う。写真で見る分には、本物の指揮者みたいな中原

* * * * *

後半疲れて、乱れてしまった青野。しかし、実に気持ち良さそうな表情だ

* * * * *

谷川の選んだ曲は浜田省吾の「もうひとつの土曜日」。楽団側の大将、山本直純さんから「もうひとつのタイトルでは」とツッコまれ「中原名人の前では……」の答えに場内大爆笑となった

* * * * *

新曲「ああ雪列車~浪花ふたりづれ」を披露した内藤、美しい歌声に観客は酔いしれた

* * * * *

一番上の写真は、最近の佐藤康光九段の写真だと言われても信じてしまいそう。

* * * * *

オーケストラの指揮者は燕尾服あるいはタキシードが定番なので、スーツにネクタイの姿は、微妙な違和感があって、なかなか新鮮な感じがする。

* * * * *

谷川浩司竜王(当時)の「中原名人の前では……」が絶妙だ。

* * * * *

今日は「紅白歌合戦」がある日。

裏番組に「棋界歌合戦」、元日は「棋士格付けチェック」のような番組があっても面白いと思う。

 

「谷川さんでしょう?!あちらは羽生さん?!まさかこんなところでお目にかかるとは思いませんでした」

近代将棋1991年1月号、炬口勝弘さんのフォトエッセイ「ライン下り」より。

 翌日はライン下りを楽しんだ。

 羽生、谷川の両対局者も、昨晩までの熱戦などまるでなかったかのように、その表情は晴々としていた。

 ヨーロッパでの初タイトル戦、ドイツのフランクフルトでの竜王戦第1局が終わった翌日、両雄は、立ち会いを務めた二上、大内両九段や読売新聞の関係者らと一緒に、ワインの町、リューデスハイムへとバスで向かった。

 船が出るまで、しばらく街中を散策した。美しい街で、つぐみ横丁と呼ばれる通りなどは両側にみやげ物店や、洒落たカフェなどが並んでいて、ちょっと東京の竹下通りのような感じだった。

 汽船場では、日本からのツアー客と出会った。

「谷川さんでしょう?!あちらは羽生さん?!まさかこんなところでお目にかかるとはおもいませんでした」

 将棋ファンはもとより、そうではないご婦人方からも、両雄は何度も一緒にカメラに収まるのをせがまれていたが、すでに仕事を終え、気分はすっかり物見遊山の二人は、気軽に応じていたものだった。(それにしても、第1局を落としながらも、終始にこやかだった羽生竜王というのは凄いと思った。まあ、第1局だからよかったのかもしれないが……)

 ドイツの父なる川といわれるライン川。源をスイスの山奥のザンクトゴッタルドに発し、フランスとドイツの国境を流れてドイツに入り、北はオランダのロッテルダムから北海へと流れ出す全長1.320キロの悠大な国際河川だが、その半分以上がドイツを流れているせいで、ラインといえばドイツ、ドイツといえばラインのイメージが強い。

 レストランやデッキのある豪華客船で、その川を下った。

船上の両対局者。(近代将棋同じ号、撮影は炬口勝弘さん)

 美しい古城が山の上に次々と現れては消える。川の中にも城があった。最初、遠くから見ると、ポッカリと船が浮かんでいるように思えたが、近づくと、それは城で、中洲の中に立っていた。

 ホテルになっている城もあった。船上でワインやビールを飲みながら、そんな景色を眺めていたのだったが、そんなホテルに何日か泊まってボーとしていることができたら最高だなとも思った。

 黄色く色づいたぶどう畑が美しかった。

 船が、ローレライの岩に近づくと、かの懐かしいローレライの歌が船内に鳴り響いた。ハイネの詩にフリードリッヒ・ズルヒヤーが曲をつけた歌である。岩の上には、ドイツの国旗が、日を浴びてはためいていた。

ローレライの岩の前の羽生善治竜王(当時)(近代将棋同じ号、撮影は炬口勝弘さん)

 ザンクト・ゴアルスハウゼンで下船した。約2時間の船旅だった。河畔ののどかな街はあおの木立の姿形など、ちょっと北海道を思わせた。そこで昼食を済ませた後は、バスでローレライまで引き返し、こんどは丘の上からライン川の眺望を楽しんだ。

 そして再び乗船したリューデスハイムに引き返し、今度はロープウェーで丘の上の展望台、ニューダヴァルトに登った。そこには1871年のドイツ統一を記念して建てられたゲルマニアの女神の巨大な記念碑がそびえ立っていたが、それより、途中の景色がすばらしかった。しかも、二人乗りのゴンドラに、なんと谷川王位と向かい合ってだった。

ゴンドラの上の谷川浩司二冠(当時)(近代将棋同じ号、撮影は炬口勝弘さん)

 ゴンドラは黄色い海のようなぶどう畑をゆっくりと登っていく。遠くにライン川が日を浴びて逆光の中でキラキラと輝いている。谷川王位も、コートのポケットからカメラを出して(当然そのカメラは、兄上の勤めるリコーのものだ)パチリパチリとシャッターを押していた。

 まるで夢を見ているような光景だった。

通訳の女性から「ドイツ式の挨拶を教わり大いにテレる王位」とキャプションがついている。(近代将棋同じ号、撮影は炬口勝弘さん)

 翌日は、みな帰国の途についた。

 しかし、せっかく来たのだからと、僕はたった一人でベルリンへ向かった。そしてオランダ・フランス・イギリスと回って1ヵ月ぶりに祖国へ戻ったら、なんと竜王戦はもう4局目。しかも羽生竜王が0-3でカド番を迎えて戦っていた。想像さえできない事態だった。間もなく第5局も始まる。一矢を報いた羽生、この後どう戦うか、谷川、一気に決めてしまうのか。

* * * * *

谷川浩司二冠、羽生善治竜王、二上達也会長。下方の川はライン川。(将棋世界1991年1月号、撮影は弦巻勝さん)
ぶどう畑を横断するリフトから手を振る羽生善治竜王。一緒に乗っているのは、師匠の二上達也会長。(将棋世界1991年1月号、撮影は弦巻勝さん)
リューデスハイムの丘にて。(将棋世界1991年1月号、撮影は弦巻勝さん)

* * * * *

対局の翌日のライン下り。

竜王戦初の海外対局だったということもあるが、写真を見ていると、このような思い出作りも良いものだなと、強く感じさせられる。

* * * * *

昔、ライン川を航行してローレライ付近を通りかかると、岩の上から少女の歌声が聴こえてきて、そのあまりの美しさに舵を取るのも忘れてしまい、船は水没してしまう。これがローレライ伝説。

実際に、昔のローレライ付近は川幅が狭くて流れが速く、更には水面下に多くの岩もあって、多くの船が事故に遭ったという。(現在は川幅が広げられている)

Wikipediaの記述によると、ローレライ伝説にはいくつかのバリエーションがあり、「多くの話に共通するモチーフとしては、ローレライとは不実な恋人に絶望してライン川に身を投げた乙女であり、水の精となった彼女の声は漁師を誘惑し、破滅へと導くというものである」だという。

普通に考えると、その場所で自殺した女性が強力な地縛霊となり、通りかかる船に害を及ぼすという、まさに心霊スポット的な話になるわけだが、それを妖精伝説として作り上げるところが、さすがヨーロッパだ。

* * * * *

この時の谷川浩司二冠(当時)による紀行文。

谷川浩司王位(当時)の不思議な味の紀行文

 

2019年12月将棋関連新刊書籍

2019年12月の将棋関連新刊書籍。

〔1月以降の新刊〕

 

有吉道夫八段(当時)「大山先生には名人位をずっとつづけていただきたい。自分は神社の狛犬です。攻めて来る敵をバッタバッタとやっつけます」

将棋世界1991年1月号、井口昭夫さんの「名人の譜 大山康晴」より。

 有吉九段も強烈だ。昭和43年春、倉敷市鶴形公園に大山の恩師木見金治郎の記念碑が建ったとき、パーティーの席上、有吉は「大山先生には名人位をずっとつづけていただきたい。自分は神社の狛犬です。攻めて来る敵をバッタバッタとやっつけます」と発言した。

 勝負の上では師弟といえども、倒すべき相手ではあるが、気持の上でこれほどつながった例は少ないと思われる。大山が将棋連盟会長時代、有吉は関西本部長として、強力にバックアップした。

 名人位についた、その瞬間から、大山にとって防衛への戦略が重要な課題となった。

 当時は腰掛け銀全盛時代だった。現在も復古調でこの戦法が大流行しているので割合、なじみのある言葉になっている。当時の強豪は今以上に殆ど腰掛け銀を採用していた。

 大山は自分の将棋を考え直してみた。85%は合格、残る15%が不満だった。その最大の理由は決断の鈍い点であった。名人と言われても15%に改善の余地がある。それなら、工夫によっては更に勝つことができる。そこに大山は着眼した。

 当時、升田幸三とともに塚田正夫が強敵と目された。ところが塚田は対大野源一戦ではパッとしなかった。大野流振り飛車に二枚腰の塚田戦法が通じないところがある。大山は意識して振り飛車的感覚を居飛車ながら自分の将棋に持ち込んだ。これで対塚田戦の勝率がよくなった。

 もう一人の敵、兄弟子升田に対してはどうしたか。

 升田には内弟子時代から指導を受けた。強さは見に染みて知っているが、また彼の正確も見抜いていた。大山は対升田戦ではガムシャラに勝とうというのでなく、下手に出ながら自分のペースを守って指した。これも成功した。

(以下略)

* * * * *

将棋世界1973年4月号より。棋聖位獲得後、自宅にて。

* * * * *

師匠に対局で勝つことを恩返しと呼ぶケースが多いが、それを本当に恩返しと言って良いのかどうかは意見の分かれるところ。

ところが、有吉道夫八段(当時)の「大山先生には名人位をずっとつづけていただきたい。自分は神社の狛犬です。攻めて来る敵をバッタバッタとやっつけます」は、これぞ究極の恩返し、と言うことができるだろう。

大山神社の狛犬となって、大山名人の名人位を脅かしに来る者を、その前に自分がバッタバッタとやっつける。

火の玉流と呼ばれる有吉九段らしい、師匠を慕う思いだ。

* * * * *

この翌年、有吉八段(当時)が名人戦の挑戦者となる。

たしかに、名人位を狙って攻めて来る敵をバッタバッタとやっつけた結果が出た形だ。

直接対決となれば、師匠と弟子の関係を超越した1対1の勝負師同士の戦い。4勝3敗で大山名人が防衛することになる。

* * * * *

「当時、升田幸三とともに塚田正夫が強敵と目された。ところが塚田は対大野源一戦ではパッとしなかった。大野流振り飛車に二枚腰の塚田戦法が通じないところがある。大山は意識して振り飛車的感覚を居飛車ながら自分の将棋に持ち込んだ。これで対塚田戦の勝率がよくなった」

塚田正夫名誉十段と大野源一九段の振り飛車については、大山十五世名人が語っている講座がある。

近代将棋1983年1月号、大山康晴十五世名人の連載講座「居飛車か振り飛車か」より。聞き手は前田祐司六段(当時)。

前田 第18期(1958年度)A級順位戦からの一局です。

大山 この一戦まで塚田(正夫九段)さんは3連勝で、私はたしか1勝1敗だったはずです。これは負けられない一戦でした。

前田 当時の新聞の観戦記には「名人戦以来、大山は21番指して、うち20番が振り飛車。すっかり大野のお株を奪ってしまった」とあります。

大山 そうね。当時はほとんど振り飛車の将棋を指していましたね。

(中略)

大山 塚田さんは、対振り飛車の成績があまりよくなかった。というのは大野さんの全盛期によく大野さんと戦ったためです。

(以下略)

* * * * *

塚田名誉十段の対振り飛車の戦績が良くない理由がわかるようなわからないような。

対大野九段戦の戦績が悪かったということは確実に言えることなのだろう。