将棋世界1993年8月号、神谷広志六段(当時)の「東西奨励会成績」より。
滝、松浦の名物幹事からバトンタッチされて8月で4年になる。厳しい神谷と甘い大野、二人でアメムチコンビなどと某誌に書かれたこともあったが、実際には私の方がより甘い人間で(自分にも他人にも)アメアメコンビであったと思う。
もちろん遅刻や不戦敗、または記録係等の仕事の無断欠席などには罰を与えたりもしたが、強制的に休会させるということはついに一度もなかった。
奨励会員にとって対局の場を奪われるのは何よりも辛いことで、それだけは避けようという大野と私の方針だった。
幹事を引き受ける前、二人でよ~く話し合って決めたことの一つで、その時決めたことを4年間まがりなりにも通せたことは一応満足している。
と、ここまでの書き方で大体おわかりと思うが、我々もこの8月いっぱいで幹事を交替する。
後任は元王将のN七段と昨年暮れに富士山で有名になったK五段(別に名前を隠す程でもないが)。
桂馬のN、香車のK(あくまでイメージだけ)と、桂馬2枚だった我々よりバランス良く仕事をしてくれるのではないかと思っている。
(以下略)
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近代将棋1993年9月号、棋士インタビュー「神谷広志六段 三段リーグは力持ち」より。
神谷さんのデータを調べるために将棋年鑑を見ていて思わず笑ってしまった。
血液型を問う項目に(1992年版)、「独創的といわれるB型。B型、変わるもんじゃないから毎年毎年聞くんじゃねえ。雲竜型。血液型というものはこの世に存在しない」。
私の健康法「したいことをする。言いたいことを言う」。
インタビューの日は奨励会の例会日で昼休みにお願いした。記者室でお会いしたので外へ出るつもりでいたら、ここでもいいような素振りが感じられたので、ちょっと外へ出ませんかと誘うと、「(会館)下へ行きますか…」と言う。
多くの棋士をインタビューしたが、人がたくさん出入りする記者室で、という人は皆無で、下のレストランでさえ関係者に会うので避ける人が多い。
レストランには一般客に混じって奨励会員もたくさん食事にきていたが、神谷さんは平気である。神経が太いのか肝が坐っているのか、人の評判など頓着しないようだ。神経の細かい人が多い業界では、珍しい男っぽい匂いがする人だ。
奨励会幹事は何年やりました?
「4年です。もうすぐ次の人にバトンタッチしますけど」
幹事役はどうやって決まるのですか。
「特に決まりはないようですが、だいたい前に人が指名して決まるようですね。ぼくのときは前の滝さん松浦さんから大野さん(八一雄五段)に話があって、大野さんがぼくと一緒ならやってもいいと言ったので決まったのです」
大野さんはどうしてあなたを?
「ふふ。ぼくが…その、割合ずけずけものを言うから、やりやすいんじゃないかと思われたのかもしれませんね」
奨励会員を抱える幹事は、あちこちから苦情が持ち込まれたり、場合によっては連盟幹部からお叱りを受けることもあろう。そういう時の用心棒役に神谷さんが指名された、ということかな。
「ふふふ。まあ、どうでしょうね。こわもての印象があるんでしょうか。
でも、口の悪い人は、腹がきれいで優しい心の持ち主だと言いますよ。
「…。そう、ですか…」
一瞬照れたような表情が見えたような気もしたが、真顔でなにか考えたようでもあった。1秒以内の出来事だった。
幹事の仕事は主にどのような。
「まず、朝来て、手合をつけます。それから苦情受け付けとか、注意、旅行の予定を立てたり…」
さきほどから苦情という話が出て来ますが、どういうところからどのような。
「たとえば連盟職員から。内容ですか、まあ、あいさつや、うるさいとか。とにかくいろいろ細かいことですが」
悩みや相談を受けるということは。
「ないですね。だいたい、15、6になったら自分で判断できるんですから、相談なんかする必要ない」
でも、奨励会の中にいると自分の位置が分からなくて、判断に迷うということもあるのでは。
「いや、分かっています。自分が一番分かっているはずですよ。ただ、分かっているのに、ずるずる決断を延ばしていることはあるでしょうけど」
注意はしないのですか。
「一度くらいはしますよ。遅刻などは。でも生活が乱れているよと言っても、聞くような奴は最初からやらないし、言ってもしようがないのはね…。結局、自分です。それしかない。痛い目を見れば分かるでしょ」
(中略)
親御さんからは相談ないですか。
「一度、父母の会をやってその時はありましたが、その後はやっていません」
奨励会は年間20人ほどの入会者があるが、四段になれるのは4人だけ。厳しいという意見もありますが。
「悪評もあるでしょう。でも三段リーグのおかげで質はぐんと上がりました」
今日の若手ブームの根源でしょうね。四段になって降級点取った人はまだいないでしょう。
「まだ、いないはずです。今の三段は強いですよ。ぼくも研究会やっていて、勝てないもの。深浦クラスがまだ三段にはいますから」
どうして上がれないんです。
「チャンスを逃しているからね」
そういえば、神谷さんの好きなことばは、チャンスは一度でいい、でしたね。
「ぼくもここ一番に弱いんですよ。昇級を何度も逃している。奨励会時代なんか10回は逃している。四段になってもC2は一発だったけど、そのあとは最終戦で逃したり、次点だったり」
(中略)
三段リーグでチャンスを逃して、せっかく力があっても精神的に腐っちゃうとダメでしょね。立ち直るのが難しい。
「元へ戻らないから腐るというんでしょう(笑い)。名前は出さないけどぼくから見ても強い人がいる。チャンスをものにしてほしいね」
奨励会に入ってきた子でモノになるかならないか、分かりますか?
「うーん。モノになるのはちょっと分からないけど、ダメなほうはすぐ分かりますね(笑い)。ダメというのは極端だけど、ちょっとしんどいかなというのは」
どこで見ますか。
「態度というか人柄というか…」
将棋以前の人間の出来具合かな。ところで入った時はよくとも、その後イカンというのもありますか。
「ありますよ。どっかで乱れちゃう。反対に大化けするのも中にはいます」
才能プラス努力、真面目さですか。
「なかなかいちがいに言えないのが難しいところでね」
真面目だけでも上がれないし。この世界ではギャンブル好きが多いですが。
「ぼくは競馬くらいしかやりませんが。ギャンブルは遊びとしか思っていませんね。ギャンブルやっているのと将棋ばかりやっているの比べたら、そりゃ将棋ばかりのほうがいいに決まっています」
気分転換にいいとか、勝負勘を養うのにいいという人もいますね。
「気分転換はあるでしょうが、勝負勘うんぬんは先輩のワナ(笑い)じゃないでしょうか」
(中略)
ところで年鑑に住みたい場所に、白鳥座とか愛読書に「COSMOS」とありましたが、宇宙に興味あるんですか。
「分からないのに読んでる。空間の向こうはなにもないとか。ブラックホールに吸い込まれてみたいなんて思ったり…。ところでぼくの大好きなのは「天空の城ラピュタ」(宮崎駿のアニメ)の中に出てくるシータという少女なんだ。これがとってもいい。トトロなんかは自然破壊とかテーマがあるでしょ。でもこれはそんなものなくて自然でいいんですよ」
あの、空中に浮かんだ城に古い樹木がからんでいる、あのアニメですか。
「そう。あれ、500回は見ています。買ったテープもテレビから採ったのも、もうぼろぼろになるまで見たよ」
馬でも好きなのいるんじゃないですか。
「ダンシングブレーブ。史上最強の馬だろうね。これが今日本に来ている。イギリスの馬だけど病気して、安く手に入れた。これが8億2千万。タダみたい」
こども、できましたか。
「生まれたばかりくらい。60頭は種付けするらしい。そうしたら、その子が活躍し、また孫がというふうになるでしょう。それが競馬の楽しいところ。馬券だけ買う人はどこが面白いんでしょうね」
口の悪い人は腹がきれいで優しい、という通説は合っていたようだ。
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「厳しい神谷と甘い大野、二人でアメムチコンビなどと某誌に書かれたこともあったが、実際には私の方がより甘い人間で(自分にも他人にも)アメアメコンビであったと思う」
奨励会幹事の二人。
昭和の刑事ドラマの取調室でよく出てきた、武闘派刑事と「田舎の親御さんが心配しているぞ。カツ丼でも食べるか?」の人情派刑事の組み合わせのようなイメージだ。
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「後任は元王将のN七段と昨年暮れに富士山で有名になったK五段(別に名前を隠す程でもないが)」
もちろん、N七段は中村修七段(当時)でK五段は小林宏五段(当時)。
「桂馬のN、香車のK(あくまでイメージだけ)と、桂馬2枚だった我々よりバランス良く仕事をしてくれるのではないかと思っている」
ユルいと桂馬、厳しさがあると香車。
たしかに「ユルイ」「厳しい」という形容詞に最もピッタリする駒をそれぞれ選べ、と言われたら、そうなると思う。
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「いや、分かっています。自分が一番分かっているはずですよ。ただ、分かっているのに、ずるずる決断を延ばしていることはあるでしょうけど」
奨励会に限らず、仕事、恋愛、いろいろな局面でこのようなことは起きてくる。
リアルタイムではそうでもないが、後から考えると、辛い期間であったことが実感できるものだ。
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「うーん。モノになるのはちょっと分からないけど、ダメなほうはすぐ分かりますね(笑い)。ダメというのは極端だけど、ちょっとしんどいかなというのは」
この話とは関係がないが、私は「美味しい米」は分からないけれども「美味しくない米」はすぐ分かる。(見ただけで分かるのなら凄いが、もちろん食べてみてのこと)
そのことを思い出した。
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「ところでぼくの大好きなのは『天空の城ラピュタ』の中に出てくるシータという少女なんだ」
後年、神谷広志六段(当時)は、数々のスタジオジブリ作品についてそれぞれ論評している。
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この頃、神谷六段はテレホンカード収集にも熱中していた。
→とても優しい羽生善治竜王(当時)と神谷広志六段(当時)の趣味
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「口の悪い人は腹がきれいで優しい、という通説は合っていたようだ」
口は悪いが腹がきれいで優しい、がそのまま体現されている神谷六段の文章がある。