深浦康市四段(当時)「サッカーで光が射してきた」

将棋マガジン1993年10月号、高橋呉郎さんの「形のメモ帳 深浦康市 健全なる”地方派”青年」より。

全日本プロ将棋トーナメント表彰式にて。近代将棋1993年8月号より、撮影は弦巻勝さん。

大勝負翌日のぶつかり稽古

 3月末の某日、将棋会館近くのそば屋で、昼食をとっていると、高橋道雄九段と深浦康市四段がはいってきた。たまたま私の前の席が空いて、ご両所と相席になった。

 くつろいだ服装から対局でないことは、ひと目でわかる。「きょうは?」と訊いたら、高橋が「ちょっと勉強を」と答えた。将棋会館の一室で、ぶつかり稽古をしてきたらしい。最近はVSと称する一対一の申し合いが、研究会よりも盛んになっているそうだ。

 深浦の顔を見ながら、ふと思い出した。たしか前日、全日本プロトーナメント決勝五番勝負の第1局で、深浦は米長邦雄現名人に負かされたはずだった。

「あなた、たいへんな勝負の最中でしょう」と思わず訊いたら、

「はいそうです」

 こちらが、いささか拍子抜けするほど、いともにこやかに答えた。前日は、心身ともにクタクタに疲れたはずなのに、もう翌日は稽古をする。研究熱心という以前に、タフなものよ、と感心した。

 高橋との申し合いは、五番勝負の日程が決まってから承知したものだろう。大勝負の初舞台に舞い上がってしまうどころか、生活のペースを崩さない。米長や中原は、こういう連中を相手にするのだから、たいへんだなと思った。

 これは深浦にかぎらない。20代の棋士に共通する傾向といっていい。

 福沢諭吉の「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」という言葉は、終戦直後にNHKラジオで有名になった。番組名は忘れたけれど、民主主義を啓蒙する連続番組の冒頭に毎回、この言葉が出てきた。

 ラジオは音さえ出れば、一家総出で聴いた時代である。電波はNHKの第一放送しかなかったから、そんな啓蒙番組でも、聴取率は軽く50%を超えていたにちがいない。私は小学生だったが、しぜんに「天は人の上に……」を格言のごとくにおぼえた。

 戦後の民主主義教育は、福沢諭吉が唖然とするほど平等主義を蔓延させた。なんでも平等を求めるのは、ただの嫉妬にすぎないが、平等主義には歓迎すべき面もある。

 近年、四段になったばかりの若手棋士が、名人クラスの大物を負かすようになったのは、平等主義が一役買っているような気がする。この連中は、生まれたときから、人間は、みな平等である、と教えられて育った。

 もちろん、彼らは名人位の権威を否定したりしない。最高位についた棋士を尊敬しているけれど、見えざる力におののいて、対局のさいに、必要以上に緊張したり、物怖じすることがない。その意味では、カリスマ性が通用しない世代ということもできる。

 むかしは、そうはいかなかった。まあ、考えてもごらんなさい。たとえば、升田幸三元名人の最盛期に、四段や五段の若手が対局したら、どうなるか。

 盤の前に坐っただけでも、風圧を感じるはずだ。「わしと平手で指すのは10年早い」といわれているような威圧感に圧倒されて、実力の十分の一も出せないのではないかと思う。

 おまけに当時は棋戦も少なかった。四、五段クラスが公式戦で、トップ棋士と対局する場は、ごくかぎられていた。対局するだけでも光栄の至りだった。

 大内延介九段は、五段で王将リーグに参加して、升田元名人と対戦する機会に恵まれた。その心境を、こんなふうにいっていた。

「升田先生の将棋はずっと勉強してたんですよ。その先生と対等に指せるというんで、もう感激しちゃいましたね。前の晩は興奮して、一睡もできなかった。いざ、対局になったら、自分がなにを指しているのかわからない。ぜんぜん将棋にならなかったですね」

賞金1,600万円のつかい道

 そうはいっても、深浦が鈍感というわけではない。まったくの無印から、決勝戦まで勝ち上がって、無我夢中というのが実情だろう。

 新入りの四段だから、全日本プロには、0.5回戦から参加した。決勝進出までに、7回勝った。どこで負けてもおかしくなかった。勝てば強い人に当たるので、それだけを楽しみに対局にのぞんだという。

 この棋戦は優勝賞金が1,600万円。対局料も途中から倍々ゲームで高くなる。ベスト8に残ったあたりで、深浦は、ふだんの月収の何倍も稼いでいた。それだけでも充分すぎるほどで、高望みをしなかった。気づいたら、決勝まで上がっていたということらしい。

 しかし、そこまでくれば、欲が出てくるのではないか。相手は格違いの強豪であっても、もしかしたら勝てそうだ、と思ったんじゃないか。そんな質問をしてみたが、まったく手応えはなかった。深浦がいうには、

「勝てそうだなんて、とんでもない。負けて、もともとですし、米長先生に教えていただくことしか考えませんでした」

 最終局で、勝ちが見えたとき、1,600万円がちらつかなかったか。

「それはなかったですね。だから、フルエルということもなかったみたいです」

 20歳そこそこで、棋戦に優勝するような棋士は、みんなこんなものかもしれないが、それにしても、しっかりしている。フルエもないし、自分から踊りだすこともない。

 最終局に敗れた米長は、「勝負というより、研究合戦みたいな感じでした」と感想をもらしている(「週刊将棋」)。米長のほうが、まじめに付き合って、逆に、深浦の土俵で相撲を取らされたようなものだろう。

 この五番勝負で、深浦は初めて和服を着た。月並みに和服の感想を訊いたら、予想外の答えが返ってきた。

「和服はいいですねえ。いかにも戦っているという感じがします。もともと、ぼくは背広を着て、ネクタイを締めるのが、あまり好きじゃないもんですから。ただ、残念ながら、まだひとりで和服の着付けができないんです。いずれおぼえなければ、と思っています」

 賞金の使い道も、特筆するほどの話はない。深浦が中心となって旗揚げした、将棋連盟サッカー部がユニホームを新調することになっていたので、その半額を引き受けた。

 自分からすすんで酒を飲んだことがないくらいだから、仲間を引き連れて、ドンチャン騒ぎをするはずがない。

 服装には無関心なほうだから、高い背広を作ったわけでもない。いま住んでいるワンルームマンションより、もっと広いマンションに引っ越す気もないそうだ。

 堅実そのものといっていいが、深浦と同年代の棋士なら、だれでも同じようにするのではないかと思う。このへんが、同じ若者でも、遊ぶために大学にはいったような、アンポンタンどもとは大違いなんですね。

 だから、深浦に現代若手棋士像の典型を見ることができる。また、深浦が地方出身であることも、見逃せない。

 この10年来、地方出身者は旗色がわるい。注目を浴びた若手棋士群は、ほとんど都市出身者で占められている。つまり、自宅通学組が圧倒的に多い。谷川浩司然り。羽生善治然り。なにやら、有名大学の合格者分布に似てきたみたいで、さみしい感じがする。

 都会派優位の将棋界にあって、深浦は異色の棋士といえる。見た目の派手さこそないけれど、都会派青年にはない芯の強さがある。

小学生時代のライバル

 昭和47年、長崎県佐世保生まれ。実家は市役所の近くで小料理屋を営んでいる。

 内気な子どもだったので、父君が、なにか趣味をもたせようと、小学校1年のときに将棋を教えた。半年も経たないうちに、アマ1、2級の父君を負かすほどに上達したが、ひたすら将棋に熱中したわけでもなかった。

 4年生になって、必修のクラブ活動で将棋部にはいった。いまどき、将棋部のある小学校というのもめずらしい。深浦にとっては、まことに幸運だった。しかも、クラブで一級上の野田君というライバルにめぐり合った。

 深浦君は野田君に勝てなかった。ライバルに勝ちたい一心で道場に通った。深浦は自分でも「負けず嫌いなんです」と認めている。

 野田君のほうも、深浦君を意識したらしく、同じ道場にくるようになった。実力はほぼ拮抗していた同士が、同じペースで上達した。両者の対決は決着がつかないまま、野田君は中学に進級すると、将棋をやめてしまった。格好のライバルを失ったが、もう深浦君の将棋熱は醒めなかった。深浦はこういっている。

「いま考えると、野田君というライバルに出会ったのが、大きかったですね。野田君がいなかったら、案外ふつうの小学生で終わっていたかもしれません。自分でいうのもヘンですけど、学校の成績は抜群によかったんです」

 この年、長崎県の小学生名人になった。小学校を終えるころには、アマ四、五段はあった。すでに地元将棋界の星だった。プロを目指したらどうか、という話も出はじめた。

 卒業と同時に、将棋連盟佐世保支部長の紹介で、上京して花村元司九段の門をたたいた。花村門下の森下卓七段が、四段に昇段したばかりのころだった。

 まず森下と、つづいて大先生と一局ずつ平手で教えてもらった。そのときの印象を森下はこういっている。

「おとなしくて、まじめで……才気煥発とか、気が強そうだとか、そんな感じはしなかったですね。コツコツ努力を積み重ねて、着実に強くなるタイプなのではないでしょうか」

 2局の試験将棋で、入門が決まった。さすがに花村は深浦の素質を見抜いたらしい。そのメガネに狂いはなかったにしても、われわれ門外漢から見ると、なんとも恐ろしい世界である。たった2局、将棋を指しただけで、少年の人生が決まってしまう可能性がある。あとは本人の努力しだいとはいっても、後戻りをするのがむずかしい道を歩ませることに変わりはない。

 もっとも、深浦には、ある程度、保険がかかっていた。実家は自営業で、おまけに深浦は長男ときている。いざというとき、やり直しをするのに都合がいい。花村にしても、そんな保険がかかっているのを見越して、入門を認めたようにも思える。

 両親も長男の奨励会入りに反対しなかった。深浦も「快く送り出してくれた両親に感謝してます」といっている。さらにつづけて、

「ぼく自身は、奨励会がどんなところか聞いてはいましたが、将棋を指せるなら、どこでもいいやというくらいに思っていました」

 6級で奨励会に入会した。中学を卒業するまでは、埼玉県大宮市の母方の親戚に下宿させてもらった。奨励会時代は、親のスネをかじったが、親にとっては、たいへんな投資である。

 学生なら、いくら遊んでも、卒業さえして就職してしまえば、豊作、不作のちがいはあっても、収穫ゼロということはない。将棋の場合は、四段になれば、投資はバブルになって消える。それ以前に、地方の子どもは、親に資力がなければ、奨励会にはいれないという問題もある。都市出身者が将棋界の大勢を占めつつある一因は、このへんにある。

サッカーで光が射してきた

 深浦が入門して、ほぼ1年後に花村九段は亡くなったが、師匠が元気なころ、30局ほど教えてもらった。とうてい勝てるはずもなかったが、たまにはアメをしゃぶらせてくれたそうだ。1年間、6級で足踏みをした深浦は、こんな思い出を語っている。

「あるとき、”学校の授業は、なにが得意か”と師匠に訊かれたんです。音楽の成績がよかったので、そう答えたら、”それはいい。将棋もリズム感が大切なんだ”といわれました。なんでもいいから、ぼくに自信をつけさせようと思われたんでしょうね」

 中学を卒業して、浦和に近い蕨市のアパートで、ひとり暮らしをはじめた。それまでは、親戚の家とはいえ、やはり気苦労も多かった。

「早く自由の身になって、将棋漬けの毎日を送りたいとおもっていたので、すごくうれしかったですね」

 しかし、まだ自立はできなかった―

「5万円くらい仕送りを受けて、それがだいたい部屋代でしたね。あとは記録とか、道場のアルバイトなどで、なんとか生活はできました」

 森下のアパートに行って、よく将棋を指した。この兄弟子は北九州市出身で、早くから将来を嘱望されていた。まじめもまじめ、勉強するのに、こんなありがたい兄弟子もいない。

 深浦は昭和63年に三段に昇段したが、おりあしく三段リーグがはじまった直後だった。おかげで、半年間待たされた。ようやく参加した三段リーグでは、2~3勝の壁が破れず、4期を送った。

 奨励会を一気に駆け抜ける超エリートをべつにすれば、だれでも、三段リーグで挫折と紙一重の日々を味わう。もし、深浦の将棋に、いわゆる”泣き”が入っているとすれば、この時期に経験したものだろう。

 5期目を前にして、深浦は将棋以外に、きっかけになるものを求めた。たまたまサッカー雑誌を読んでいたら、埼玉県のチームがチームメイトを募集していた―

「それに応募したんです。相当に勇気が要りましたけど……。小学校のころから、見るのは、野球よりサッカーのほうが好きだったという程度なんです。浦和周辺の社会人のチームですけど、いまでも、ぼくがいちばんヘタなんですよ。でも、はいってよかったですね。月に2、3回、練習をして、いい気分転換になりました。社会人のいろんな人とお付き合いできるのも、楽しいですしね。ちょっと光が射してきたみたいで、将棋のほうとも、スムースにからみました」

 5期目のリーグで、最後は難産だったが、平成3年9月、四段に昇段した。サッカーのチームメイトも祝ってくれた。

 サッカーで光が射してきた―この健康な明るさが、なんともいいじゃないですか。

 深浦は、サッカーではシュートを決めるストライカーより、いいパスを出すゲームメーカーになりたいという。これも健全なる”地方派”の発想といえないこともない。

 秀才タイプの多い”都会派”の棋士にとって、深浦みたいなタイプが、いちばん苦手なんじゃないか。そんな気がしてきた。

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「むかしは、そうはいかなかった。まあ、考えてもごらんなさい。たとえば、升田幸三元名人の最盛期に、四段や五段の若手が対局したら、どうなるか」

升田幸三実力制第四代名人は、晩年になってもこのような迫力は衰えなかった。

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「深浦君は野田君に勝てなかった。ライバルに勝ちたい一心で道場に通った」

将棋に関して言えば、どのような段階においても、ライバルとの切磋琢磨が実力向上の特効薬となることがわかる。

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「森下のアパートに行って、よく将棋を指した。この兄弟子は北九州市出身で、早くから将来を嘱望されていた。まじめもまじめ、勉強するのに、こんなありがたい兄弟子もいない」

深浦康市九段は、入門したばかりの頃の兄弟子・森下卓四段(当時)との思い出を書いている。

深浦康市七段(当時)にとっての、将棋の世界に入らなければ会えなかったタイプの人

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「奨励会を一気に駆け抜ける超エリートをべつにすれば、だれでも、三段リーグで挫折と紙一重の日々を味わう。もし、深浦の将棋に、いわゆる”泣き”が入っているとすれば、この時期に経験したものだろう」

深浦九段は、C級2組からC級1組に上がるまでに6期かかっている。

森下卓八段(当時)は1998年に、「前期順位戦で、弟弟子の深浦君がC1に昇級した。六期目の春である。気が遠くなるほど永い日々だったと思う」と書いている。

地獄の次はまた地獄

高橋呉郎さんが書かれた”泣き”は、この後、更に積み重ねられることになる。

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「社会人のいろんな人とお付き合いできるのも、楽しいですしね。ちょっと光が射してきたみたいで、将棋のほうとも、スムースにからみました」

深浦九段とサッカーの関わりは、ここまで深かった。

将棋以外のことを将棋のプラスに働かせる、これはなかなかできないことだが、それを実現するところに、深浦九段の底力があるのだと思う。