将棋マガジン1995年4月号、三浦弘行四段(当時)の第53期順位戦〔対 岡崎洋四段〕自戦記「全力を尽くしたい」より。
12月13日に行われた順位戦を紹介します。
この日はちょうど棋聖戦第1局と重なっていました。
棋聖戦では、今回私は運良く準決勝まで行く事が出来ました。
やっぱりここまで来ると、難しい事は分かっていても、何とかタイトル初挑戦を果たしたかったのですが、まだ力不足でした。
A図(対 島朗八段)で▲1四香と指したのが悪手でした。
ここでは▲2二桂成△同銀に▲4四銀と指すのが詰めろで、はっきり私の勝ち筋でした。
この将棋は最後私が間違えて負けてしまいましたが、たとえ勝っていたとしても、次に控えているのが谷川先生なので、やはり挑戦は難しかったと思います。
しかし、もしかしたらこの日は順位戦ではなく棋聖戦を戦っていたのかもしれないと思うと、対局前に少し寂しい気持ちもしました。が、この順位戦も大事なので、また前向きに頑張っていきたいと思います。
(以下略)
* * * * *
「やっぱりここまで来ると、難しい事は分かっていても、何とかタイトル初挑戦を果たしたかったのですが、まだ力不足でした」
「しかし、もしかしたらこの日は順位戦ではなく棋聖戦を戦っていたのかもしれないと思うと、対局前に少し寂しい気持ちもしました」
三浦弘行四段(当時)の言葉から溢れ出る、意地らしさと切なさ。
* * * * *
「死んだ子の年を数える」という言葉があるが、どうしても数えたくなってしまうこともある。
昔、仕事で少し関わっていたテレビ番組があった。
4月から9月までの2クールの予定だったけれども、視聴率が悪く、6月で打ち切りとなってしまった。
秋の気配が出てくる9月24日、「ああ、今日はあの番組が続いていたとしたら、最終回の日だったんだなあ」と思いながら、どんどん感傷的になっていった記憶がある。
* * * * *
棋聖戦が年に2回行われていたのがこの1994年度下期までで、1995年度から年1回の開催となる。
そして、最初の年1回になった棋聖戦、三浦弘行五段が勝ち上がり、挑戦者となる。
将棋マガジン1995年8月号、駒野茂さんの「第66期棋聖戦 挑戦者に三浦弘行五段」より。
大熱戦の末に、森下卓八段を下して初の挑戦権を得た三浦弘行五段に五番勝負を前にしての心境、近況を語ってもらった。
―出身地は群馬県群馬郡群馬町。最近、埼玉の方に引っ越しして、独り暮らしをしているという話を耳にしたのですが?
三浦「父の仕事の関係で、それまで使っていたアパートが空いたのです。それなら住んでみようかなぁと思いまして。実家と半々くらいですね」
―アパートでの食事は?
三浦「外食と自炊を交互に。おかずはある物で済ませます」
―ある物?どんな料理を作るんですか?
三浦「ご飯を炊くだけです。おかずは母が1週間に一度ここに来て、作ってくれる。それを保存しておくのです」
―対局以外の日常は?
三浦「空気が悪いところはどうしてもいやなので、ほとんど家にいます。散歩する以外はあまり外出はしません」
―家にいる時はほとんど将棋の勉強ですか?
三浦「テレビでプロ野球の観戦の他は…そうですね、なるべく盤に向かうようにしています」
―すごい勉強量ですね。主にどんなことを?
三浦「特に何をというものはありません。その日にやりたいことをします。ただ、よし!勉強しようと思って盤に向かうことがあるのですが、こういう時はあまり効率がよくないですね。効果が薄い。まっ、何もしないよりはましですけど。部屋でボーッとしている時、あるいは寝ている時に、局面が頭に浮かんでくることがあるのですが、これは調子のいい証拠。自分の状態を知る一つの目安になります。バイオリズムとでもいうのでしょうか、そうした調子の波が前もって分かればいいですね。そうすれば、それに合わせて対局をつけてもらえるのに(笑)」
―初めてのタイトル戦。どのような気分ですか?
三浦「タイトル戦の記録係を務めた時は、温泉に入れて、おいしい物が食べられたという感じですが、今度はどうでしょうか。やはり対局者として行くとなると……」
―戦型は?
三浦「ケースバイケースです。振り飛車穴熊を指すかどうかは決めていません」
―檜舞台でのいでたちは?
三浦「挑戦者に決まってからすぐに和服の注文をしました。第1局に間に合うと思いますが、全局和服で通します」
―五番勝負に向けての抱負を。
三浦「前夜祭とか、いろいろといつもと違うことがあるので、ペースを崩さずに行きたいです。タイトル戦というのを意識しないで」
* * * * *
「大熱戦の末に、森下卓八段を下して初の挑戦権を得た三浦弘行五段」
挑戦者決定戦は、千日手が2回続き、指し直し局が午前1時10分の終局という大熱戦。
3局とも、三浦五段が振り飛車穴熊、森下八段が居飛車銀冠で、意地と意地の激突だった。
* * * * *
「テレビでプロ野球の観戦の他は…そうですね、なるべく盤に向かうようにしています」
三浦五段が毎日10時間、将棋盤の前に座っているということが明らかになるのは、もう少し経ってからのこと。
* * * * *
「前夜祭とか、いろいろといつもと違うことがあるので、ペースを崩さずに行きたいです。タイトル戦というのを意識しないで」の他に、三浦五段は「羽生棋聖の胸を借りるつもりで臨みます。とにかく3連敗だけはしないように…」と語っている。
とても謙虚な、三浦五段らしい抱負。
* * * * *
「ご飯を炊くだけです。おかずは母が1週間に一度ここに来て、作ってくれる。それを保存しておくのです」
三浦九段のお母様のインタビューもある。
近代将棋1995年8月号、大矢順正さんの「棋界こぼれ話 若武者三浦弘行五段の素顔」より。
羽生善治棋聖への挑戦者となった三浦弘行五段は、切れ長な目が鋭く、普段は寡黙で一見、ニヒルな若武者を彷彿させる。はやり研究会を拒否し勝負師は孤独であるべきを旨としているふしが伺える。異能棋士の一人で、その信条がタイトル戦の金的を得たのだろう。
三浦は、一体どんな環境に育ったのか興味を持った。
将棋年鑑には群馬県生まれと記されてきるが、これは母親の実家である。
現在の生活拠点は、小学生まで育った埼玉県鴻巣市の郊外に住んでいる。
中学生からは、母親の実家のある群馬県群馬郡群馬町で過ごした。
群馬郡は榛名山の裾野に広がる里で、地名は上野(こうずけ)国のころの中央部が馬の産地であったことに由来している。県名はこの郡部を取ったものである。
何か群馬が3つも重なるとすごく田舎でないかと錯覚しそうだが、三浦の育った群馬町は前橋市と高崎市に隣接し県の中心部なのである。
とはいっても榛名山、赤城山の麓とあって自然環境には恵まれている。
(中略)
三浦が中学生になると、母親の真知子さんの実家のある群馬町に越したが、鴻巣の家はアパートに改築し、父親はそこから東京に勤務していた。
三浦は、小学生時代は鴻巣に住んだわけだが、家の前にはこんもりとした小松原神社の森がある。
その境内が三浦少年の遊び場であったという。(写真はその境内で撮影)
が、三浦少年は友達と好んで一緒に遊ぶタイプではなかったという。どちらかというと家にこもってプラモデルや絵を書いていたらしい。
オタク少年かといえば、そうでもない。師匠の西村一義八段は「最初のころは、よく冗談を言ったりよく話す子でした」と言っている。
「将棋を始めてから人が変わったようです。毎日が将棋三昧で独りで黙々と勉強している感じになりました」というのは母、真知子さん。
三浦が四段になると東京に少しでも近い方を選んだのか、群馬の家から鴻巣の家に父と住む方が多くなった。
その父がこの春、仙台市に転勤になったことで現在はアパート形式になった鴻巣の自宅で独り住まいしている。
二階の六畳間にはパソコンがあり三浦の勉強部屋となっている。
母、真知子さんは、学生時代は県大会にも出場経験のある卓球選手だ。
三浦の小学生時代にはPTAの仲間と卓球同好会で楽しんでいた。その仲間との交流は今も続き、土曜、日曜には群馬の町から鴻巣に通って卓球練習している。
その際に、群馬で採れた新鮮野菜を持参して三浦の一週間分の野菜料理を作り冷蔵庫に入れていく。
「対局の前日に、卓球仲間と家で宴会をして弘行に後で怒られたこともあるんですよ。対局前は神経質になっているんですね。棋士は…」と真知子さん。
羽生棋聖に挑戦が決まって喜んだのは三浦弘行五段とお父さん、慌てたのは母・真知子さん。
なにしろタイトル戦となれば、先ず和服を用意しなくてはならないからだ。
そんなに時間がない。が、運良く卓球仲間に和服屋さんが居た。
「おめでたい話。ここは一つ頑張って間に合わせましょう」
対局の一週間前に三着が三浦家に届いた。そこからがまた大変。着付けを自分で出来るまでの特訓は無理。試着はしたもののトイレのときはどうするのか、うまくできるのか心配。さすがに詳細は聞けなかったがスッタモンダのトイレ特訓をしたのではないかと推察する。
(以下略)
* * * * *
群馬県群馬郡群馬町は高崎市と合併して、現在は高崎市となっている。
* * * * *
それにしても、和服の準備およびメンテナンスはいろいろと大変だ。
Googleで検索してみると、男性が和服の場合のトイレでどうすれば良いのかの解説があった。
→男性初めての着物、疑問にお答えします☆袴を着たらトイレはどうする?肌着は何を着る?(山本呉服店 京都店)
慣れれば問題はないのだろうが、慣れるまでが試練となりそう。
* * * * *
「群馬で採れた新鮮野菜を持参して三浦の一週間分の野菜料理を作り冷蔵庫に入れていく」
一週間分の野菜料理、どのようなメニューなのか気になるところ。
三浦九段は、藤井聡太二冠とは逆に、キノコ(ナメコを除く)が大好物。
キノコがたくさん入った料理だったことは間違いないかもしれない。
* * * * *
「対局の前日に、卓球仲間と家で宴会をして弘行に後で怒られたこともあるんですよ」
以前のブログ記事「授業中に詰将棋解いていれば同じことですからね」(翌年の将棋世界での三浦五段インタビュー)に、
-対局の前日にお母様が家で宴会やって、それで三浦先生が怒られたって話を読みましたが。
「ああ、ありましたねえ(笑)。ちょっと怒った記憶はありますけど」
という箇所があるが、その元になったのが、この大矢さんの記事。
お母様の、このおおらかさがとても良い雰囲気だ。
* * * * *
三浦五段にとって初めてのタイトル戦挑戦、この年は3連敗するが翌年再度挑戦して、羽生善治七冠から棋聖位を奪取することになる。