杉本昌隆四段「相振り飛車は将棋の純文学」

将棋世界1995年9月号、故・池崎和記さんの「昨日の夢、明日の夢」より「杉本昌隆四段 四間飛車の無印良品からブランド品へ」。

普及も棋士の仕事

 杉本の師匠は故・板谷進九段である。

 僕は8年前、週刊将棋の企画で約10ヵ月間、板谷と一緒に仕事をしたことがある。板谷がアマチュアの人と駒落ちを指し、僕が観戦記を書いた。

 仕事が終わると夕食をごちそうになった。そのとき板谷がよく話していたのは芹沢博文と杉本のことで、二人のことをとても気にかけていた。芹沢は入院していた。杉本は二段で、なかなかトンネルを抜けきれずにいた。

 その年の暮れ、芹沢は51歳で亡くなり、あとを追うように板谷も2ヵ月後、48歳の若さで亡くなった。告別式の日、杉本のゆがんだ顔と大粒の涙を見た。杉本が四段になったのは、それから2年7ヵ月後の1990年10月である。

―板谷先生の普及に対する意欲はすごかったですね。全国を精力的に回っておられたでしょう。

杉本「すごいハードスケジュールで……。頼まれた仕事は全部やる、というのが師匠の主義だったと思うんです」

―前に小林さんに手帳を見せてもらったことがあるんですよ。対局の他に研究会はある、稽古はある、全国で審判の仕事はあるわで、何ヵ月も先まで予定がぎっしり詰まっているんです。僕が「これはすごい」と言ったら、「いや、師匠はもっとすごかった」と言われました。

杉本「いまの小林八段は、師匠と同じくらい普及の仕事に力を入れていると思いますけど。棋士がトーナメントで好成績を挙げてタイトルを目指すというのは当たり前のことですけど、それ以外に棋士はレッスンもやって将棋界を盛り立てないといけないと僕は思うんですよ」

―個人ができる範囲でね。将棋もいいかげん、他もいいかげん、というのが一番困る。

杉本「羽生さんなんか見てると、あれだけ対局やって、コマーシャルにも出る、対談もやる、テレビの講座もやると。すごいことだと思います。僕たちが「対局で忙しい」とか「普及は将棋の負担になる」と言うのは理由にならない。だから僕もできる範囲で何でもやるようにしているんです」

―羽生さんはあれだけ盤外の仕事をやって、なおかつ将棋も勝ってる。彼の前ではどんな言い訳も通用しませんよ。

杉本「僕は普及の仕事が対局の支障になるとは思っていないんです。僕の勉強時間が足りないのかもしれないけど、起きている時間全部、将棋の勉強ばかりしているわけではないでしょう。例えば一日のうち2時間稽古に当てるとか、あるいは2時間原稿を書いたとしても、それで差し支えがあるとは思わないです」

―勉強ばかりやってると弊害もありますよ、きっと。だから、たまには気分転換も必要です。

杉本「いまの僕の状況がそうなんですけど、例えば毎日連盟にいると、それに慣れちゃうときがあるんです。たまに行くと新鮮で「名古屋から来たんだから、このまま何もナシで帰るわけにはいかないな」と思って、意地でも一個ぐらい何か勉強して帰ろうと思うんですよね。新しい気持ちでいられる、ということが大きいと思うんです」

少しずつ前進したい

 杉本の勉強時間は1ヵ月に100時間だそうだ。これは家で将棋盤に向かって一人で研究している時間で、これ以外に奨励会員との研究会がある。

 将棋マガジンのインタビュー(1994年7月号)で杉本は「将来は昇段もしたいし、タイトルも取りたい。でも、いまはまだ無理ですから、一番、一番、勝っていくこと」と答えている。

―これは現在もそうですか。

杉本「まったく同じで……。でも棋士で昇段やタイトルを望まない人がいるわけはないので、本当はそういう発言は好きじゃないんですけどね。いまの目標は一日一日に魂を込めることです」

―魂を込める?

杉本「将棋で魂を込めた一手、とか言うでしょう。その延長で、将棋以外でもそうありたいと。例えば1年前を振り返ってみると、一日一日がいまと変わらないことがあるんですよ」

―自分を変えていきたいということですか。あるいは進歩と言うべきかな。

杉本「ええ、少しずつでもいいから、やはり何らかの形で前進していかなければいけないと思うんですよ。将棋は当然として、それ以外のことでも」

―自分の生き方を反省したんだ。

杉本「そうですね。このままズルズルと年を取ってはいけないな、と思って」

―耳が痛い(笑)。人間、なかなか進歩しませんね。というより時間がたてば人間は成長するという考え方が、そもそも錯覚ではないかと僕は思うことがある。

杉本「ああ、なるほど(苦笑い)」

―年を取ると世間智がついてくるし、生き方の要領みたいなものもわかってくるでしょう。それを人間の幅が広がったと言うなら、僕はそうですかと答えるしかないけど、しかし例えば若いときの一途な思いというのは逆に退化しているかもしれない。だから年を取ったからって別にエライわけじゃないですよ。

杉本「洋酒のコマーシャルで『時は流れない、それは積み重なる』というのがあるでしょう。僕はあれが気に入ってて、座右の銘にしようかなと思ってます(笑)」

―サントリーのクレストのコピー。

杉本「何らかの形で積み重ねていくような生き方をしたいと思っているんです」

―そうした気持ちを持つことが大事ですよ。年を取ると得るものも多いけど、失うものも多いですからね。

杉本「ウーン。映画のタイトルじゃないけど、「今を生きる」と(笑)」

―お互いにね。いま一番やりたいことは何ですか。

杉本「冗談半分ですけど、そろそろ結婚したいです」

―相手がいるんですか。

杉本「いやいや、残念ながら。前に神崎さんの家に行って「ああ、結婚もいいな」と思ったことがあります。そう思った数少ない例ですけど(笑)」

相振り飛車は純文学だ

 杉本はいま相振り飛車の本を執筆中とか。相振り飛車の本は最近では珍しい。というより相振り飛車の本自体が、これまであまり出ていない。

―相振りはアマ間でよく指されているから、売れるかもしれませんね。

杉本「僕は相振りはものすごく奥が深い戦法だと思うんです。ある意味では矢倉より奥が深くて、あれこそ将棋の純文学じゃないかと思います」

―ほー。相振りは単調だからやらないと言う棋士もいますが。

杉本「そうなんですかね。相振りもすごく細かいですよ。相振りの定義というのは、お互いが飛車を振った瞬間だと思うんですけど、その前から駆け引きが始まっているわけで」

―ああ、3手目に端歩を突いたりとか、立ち上がりから駆け引きがありますね。

杉本「場合によっては相振りにせずに形勢をリードする指し方もあるし、振る場所も向かい飛車から三間、四間、中飛車とあるでしょう。僕は初め、それをパターン化して書こうかと思ったけど、とても無理だと気づきました」

―二枚金もあれば穴熊、金矢倉、美濃囲いもある。それから銀が5七に上がる形と6七に上がる形がありますね。

杉本「棒銀のような形もありますよ。だから、あんなに奥の深い戦法はないですよ。僕はタイトル戦で相振りを見てみたいです。例えば谷川-羽生で相振りになったら、いい将棋が出るんじゃないかと思うんですが」

―いまのプロで相振りを研究している人は、ほとんどいないんじゃないですか。

杉本「お互いの同意がないと相振りにはならないですからね。振り飛車をやる人は基本的に玉の堅い将棋が好きだから、振り飛車党同士が対戦すると、片方が居飛車を持って穴熊にするというケースもかなり多いですね」

―そうですね。

杉本「イビアナは振り飛車党の隠れた得意戦法(笑)。そういう面があるから、また相振りが少なくなるんですよ」

―杉本さんの相振りの経験は。

杉本「そんなに多くはないです。公式戦で20局ぐらい。奨励会時代はむしろ嫌いでした。でも香落ち上手になると振らなきゃ仕方がないでしょう。そのときに下手が振り飛車だと相振りになるわけで、苦手といっても仕方がないので、多少なりとも研究するようになり、一通りの形は覚えたつもりです。研究してもわからない部分がたくさんありますけど」

(中略)

 四間飛車の本格正統派は、モノの考え方も本格正統派のようである。

 喫茶店での2時間半のインタビューが終わると、杉本は照れ笑いを浮かべながら「いまはまだ四間飛車の無印良品でいいですけど、いずれはブランド品になりたいですねェ」と言った。

 うまいことを言うものだ。よし、今月のタイトルはこれにしよう。

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「仕事が終わると夕食をごちそうになった。そのとき板谷がよく話していたのは芹沢博文と杉本のことで、二人のことをとても気にかけていた。芹沢は入院していた。杉本は二段で、なかなかトンネルを抜けきれずにいた」

杉本昌隆八段の師匠・板谷進九段のエピソード。

杉本八段が今も師匠を強く思う気持ちは、このようなところにも通じているのだと思う。

東海の若大将

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「一日一日に魂を込めることです」

「例えば1年前を振り返ってみると、一日一日がいまと変わらないことがあるんですよ」

魂を毎日込めるのは難しいとしても、気持ちだけでもこのように思っていれば、良い影響が出そうな感じがしてくる。

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「洋酒のコマーシャルで『時は流れない、それは積み重なる』というのがあるでしょう。僕はあれが気に入ってて、座右の銘にしようかなと思ってます(笑)」

「何らかの形で積み重ねていくような生き方をしたいと思っているんです」

杉本八段自身もそうだし、藤井聡太少年を育む環境をつくったこと、弟子の藤井聡太二冠の活躍、すべてがこの言葉の通りの展開になっている。

このテレビ広告は次のもの。

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「僕は相振りはものすごく奥が深い戦法だと思うんです。ある意味では矢倉より奥が深くて、あれこそ将棋の純文学じゃないかと思います」

相振り飛車は、本当に悩ましい。

私は振り飛車党だが、相手が飛車を振ってくると、「自分が大好きな振り飛車を相手にだけやらせてたまるか」と、こちらも飛車を振る。

先手、後手、どちらだろうが、相手が振り飛車なら相振り飛車になってしまう。

相振り飛車は戦い方が難しいし、相居飛車のような神経の使い方をしてしまうので、とにかく疲れる。

左右反転させれば相居飛車のようだけれども、相居飛車の世界ともまた違う。

たしかに、相振り飛車には純文学のような濃厚な雰囲気が漂う。

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「イビアナは振り飛車党の隠れた得意戦法(笑)。そういう面があるから、また相振りが少なくなるんですよ」

そうだったのか……と、今になって初めて知る事実。

自分は振り飛車党だから、それならこれから対抗形になったら居飛車穴熊をどんどん指してみよう、と一瞬思ったのだが、このインタビューの後に出現した藤井システム、ゴキゲン中飛車などの対策も覚えなければならないことに気付き、愕然とした。