内藤國雄九段「逆転の悪手はあっても逆転の妙手はあり得ない。あらかじめ潜んでいる妙手を見つけて勝つ。それは逆転ではなく、順当勝ちというべきだ」

将棋世界1997年6月号、内藤國雄九段の第55期名人戦第1局〔谷川浩司竜王-羽生善治名人〕「女神を迷わせた熱戦より」。

将棋世界1997年6月号より、撮影は弦巻勝さん。

将棋世界1997年6月号より、撮影は弦巻勝さん。

 幸運の女神は誰にも公平に微笑みかけるもので、本人がそれに気がつくかつかないかの違いなんだという考え方もある。

 もしそうだとすれば、羽生は女神の微笑みに極めて敏感。いやそれではまだ足りなくて、女神がどこにいても引っ張ってきて掴んで離さないという強引さがあるとみるべきかも知れない。そうでなければ、七冠制覇など出来っこないと。

 ただ、逆転という言葉には用心する必要がある。以前、次の一手問題に「逆転の妙手」を、という依頼をよく受けた。

 逆転というのは一般受けがして使いたくなる言葉である。しかし実際には、逆転の悪手はあっても逆転の妙手はあり得ない。

 あらかじめ潜んでいる妙手を見つけて勝つ。それは逆転ではなく、順当勝ちというべきだ。

 逆転勝ちといわれているものの何割かについて、羽生名人はそう思っていない可能性がある。

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 A図から△4五銀▲4一角△3二角と進み、竜王が長考に入った。

 3二に桂でなく角を打ったのが受けの勝負手で、△6七桂があるから先手も油断できない。控え室では寄ってたかって△3二角以下▲2三桂成△同玉▲6三角成△6七桂▲同金寄△同歩成▲1五桂(B図)で先手の勝ち筋という結論を出した。

 B図から(1)△1四玉は▲6七金△6五飛▲2三銀。(2)△3三玉は▲2三金△同角▲同桂成△同玉▲4一馬△3二桂▲6七金。勝ちは間違いなくてもなんとなく野暮ったいので、谷川竜王ならもっときれいな勝ち方をするかも知れないという思いもあった。

 竜王は長考の末▲6三角成とした。

 名人はやはり△6七桂と打った。▲同金寄△同歩成▲同金△6五飛―。ここで▲2三桂成から▲1五桂とすれば、ほぼB図と同じようなことになる。

 やっぱりさっきの手順に戻るんだ。「▲4一銀は△6七飛成で先手が負けるから」と話し合っているところへ▲4一銀(C図)が映し出されて控え室の検討陣は大騒ぎとなった。

「谷川さんのことだから、我々の気がつかない詰み筋を発見しているのかも知れない」

 すぐに全員の研究がはじまったが、やはり結論はかわらない。

(C図から△6七飛成に▲3二銀成△同玉▲4一角△3一玉▲2三桂不成△2二玉▲3二金△1二玉▲1一桂成△同玉▲2二金△同玉▲2四飛は△3一玉で。他にも惜しいところまでいく手順はあるが何れも詰まない)

 しばらくして羽生が席を立つ姿をモニターテレビが映し出す。勝ちと知り、それが間違っていないかどうかを冷静に確かめるために手洗いに立ったのだ、と誰もが思った。形勢はずっと苦しかった。そして「逆転の妙手」を放ったわけでもないのに、勝利の女神が不意に現れ、羽生の肩によりかかったのである。

「羽生善治、神様が愛した青年」という本も出たが、なんという運の強さよ!私は感嘆の念に打たれた。

 谷川も席を立った。谷川は己が読みの錯覚に気づいたに違いない。一瞬にして勝利から敗北への転落。これが分かったときの落胆。冷や汗が全身に流れたであろう。

 一方は美酒を味わうため、一方は諦めのために席を立つ。この対照的な違いに私はいささか感傷的になった。

 しかしこの想像は半分しか当たっていなかった。この後奇妙なことが起こったのである。

 席に戻った羽生はなんと△6七飛成とは別の手を指したのである。一瞬の勝機は「これで去った」。

 局後「▲4一銀で負けたと思いました」と語ったことから分かるように、名人は勝利に気づかなかった。

 両者が席を立ったのは、ともに敗北を自認するためであったのだ。

 せっかく、向こうから近寄ってきた幸運の女神を袖にしてしまう。羽生にしてそういうことが起こるとは。谷川にすれば、いったんは離れていった女神がまた戻ってきた。

 この1勝は実に大きいと思う。

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何か不運なことがあった時、「エネルギー保存の法則」ということで、この分を埋め合わせる良い事が将来起きるはずだ、と前向きに考えていたのだけれども、

「幸運の女神は誰にも公平に微笑みかけるもので、本人がそれに気がつくかつかないかの違いなんだという考え方もある」

の言葉を聞くと、とたんに不安になってきてしまう。

まあ、仕方がない。

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「逆転というのは一般受けがして使いたくなる言葉である。しかし実際には、逆転の悪手はあっても逆転の妙手はあり得ない。あらかじめ潜んでいる妙手を見つけて勝つ。それは逆転ではなく、順当勝ちというべきだ」

目から鱗が落ちるような話。

正しい手(絶妙手)を指して逆転したように見えたのなら、それはもともと形勢が良かったということ。

こちらがどのような手を指そうが、相手が間違った応手をして逆転する場合のみが「逆転」ということになる。

そういう意味では、コンピュータソフトが示す評価値は、たしかにこの考え方に沿っている。

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「逆転勝ちといわれているものの何割かについて、羽生名人はそう思っていない可能性がある」

優れた大局観と読む力を持っていれば、誰もが気付いていないことに気付いているということだ。

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「両者が席を立ったのは、ともに敗北を自認するためであったのだ」

後からしか分かることのできない、ドラマチックな出来事。

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「この1勝は実に大きいと思う」

谷川浩司竜王(当時)は、4勝2敗で名人位を奪取することになる。まさしく非常に大きな1勝となった。

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この一局についての米長邦雄九段の見方。

近代将棋1997年6月号、米長邦雄九段の「米長さわやか流対談、この一局」より(聞き手は福本和生さん)。

 局後、この▲4一銀についてコメントがありました。谷川は、詰めろだと思った、という感想です。立会人の内藤國雄九段は、それは詰めろではないのではないか、というのが第一感だった、という。

 問題は▲4一銀に対する羽生の応手である。もしもここで自玉に詰みがないのなら、△6七飛成と金を取れば谷川玉は絶体絶命で勝ち、それで羽生の勝利が確定する。自玉に詰みがあるのなら△6三飛と馬を払って受けにまわるのが自然である。

(中略)

 ここで羽生は1時間40分の残り時間がある。もし詰みがないのなら△6七飛成で勝つ。わかりやすい。しかし、羽生は15分の少考で△6三飛と馬を取った。羽生は詰まされると即断したのでしょう。

 私の研究では羽生玉に詰みはありません。

(中略)

 羽生は谷川の直感を信じたのでしょう。△6三飛と馬を取った。▲4一銀の局面で私は対局場の控え室に電話をしました。毎日新聞の担当者に、そこで一番将棋のしっかりした人を呼んでもらいたいと頼んだのです。電話口に出てきたのが立会人の内藤九段です。

米長「内藤さん、テレビで拝見していますが、きょうは若々しいですね。30代の青年のような印象ですよ」

内藤「それはヨネさん、ありがとう。ところで、いま銀打ったところなんや。これは本当に詰めろなんだろうか。私の力では詰まないと思う。しかし、羽生はすぐに△6三飛と馬のほうを取った。谷川は1分で▲4一銀と打っている。ということは、やっぱり詰みがあるとしか思えない。絶妙な手順があって羽生玉は詰むのか―。それなら私は将棋が弱いことになる。しかし、私の第一感は詰まないである。羽生と谷川のほうが、私より弱いのかどうか、それを自問しているところなんや、ハハハ…」

米長「内藤さん、私も調べてみますが、羽生と谷川のほうが我々よりも強いはずです」

 こんなやりとりがあって私は調べてみた。内藤九段の直感のほうが正しかった。詰みはありません。ここにおいて57歳の内藤九段の直感のほうが、羽生の直感より正鵠を射ていた。

(中略)

 ここで私が申し上げたいのは、将棋界のゴールデンカードである羽生対谷川、これはすばらしい組み合わせではあるけれど、かつての木村義雄対花田長太郎、大山康晴対升田幸三、それに中原がいて、米長もいて、加藤一二三もいて、そういう世代の争いに比べて現代の将棋が序盤の構想力、中盤の読み筋、終盤の正確さにおいて、レベルアップしたということは考えにくい。

 将棋というものは人間同士の戦いであって、悪手を指した数の多いほうが負けて、勝ちを失うのである。そのレベルでずーっと戦っているにすぎない。と、私は思っています。

 決して今の将棋が、天才集団が現れ、画期的な序盤作戦でいままでのものがついえさった、中盤の読み筋は正確無比、終盤は絶対に間違えない、このような誤解、錯覚、お世辞はもういいかげんにやめてもらいたい。

 ただ、できれば羽生と谷川の両者が正直に全てを公表して「やはり米長はボケている」と寄稿してもらえれば最高ですね(笑)。

(以下略)

谷川竜王が▲4一銀を打ち込んだ瞬間。将棋世界1997年6月号より、撮影は弦巻勝さん。

▲4一銀を見た羽生名人が考え込む。将棋世界1997年6月号より、撮影は弦巻勝さん。

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「将棋というものは人間同士の戦いであって、悪手を指した数の多いほうが負けて、勝ちを失うのである。そのレベルでずーっと戦っているにすぎない。と、私は思っています」

これは、過去から未来に至るまで、将棋が持ち続ける普遍的な性質だと思う。

「決して今の将棋が、天才集団が現れ、画期的な序盤作戦でいままでのものがついえさった、中盤の読み筋は正確無比、終盤は絶対に間違えない、このような誤解、錯覚、お世辞はもういいかげんにやめてもらいたい」

そのような傾向があったとしても、そこまで絶対的なものではない、ということなのだろう。

米長九段の矜持、胸の内が率直に語られている。

「ただ、できれば羽生と谷川の両者が正直に全てを公表して『やはり米長はボケている』と寄稿してもらえれば最高ですね(笑)」

最後にバランスを取るところが米長流。

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「谷川さんのことだから、我々の気がつかない詰み筋を発見しているのかも知れない」

▲4一銀(C図)は、多くの棋士の頭を悩ませた。

思いがけないところにまで影響が出ている。

佐藤康光八段(当時)の災難

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最後に、谷川浩司竜王・名人(当時)が語る▲4一銀の真実。

将棋世界1997年8月号、谷川浩司竜王・名人の第55期名人戦第6局〔対 羽生善治名人〕自戦解説「辛抱が実を結ぶ」より。

―第1局の▲4一銀の局面が随分話題になりましたが、どの時点で読み間違いに気がついたのですか。

谷川 その前の▲4一角に△3二角と合わされる手を軽視していて、焦ってちゃんと読めなくなってしまったんですね。

 読みの中では、▲4一銀は形で詰めろだと判断して、▲6三角成や▲4一銀を指してしまった後で、ひょっとしたら詰まないんじゃないかということに気がついたんです。ただ、読んでみて詰みがないのが分かるのが怖かったので、読まないようにというか、半分開き直って……。

 それで、羽生さんが結局△6三飛と指したので、ああやっぱり詰むんだと思って(笑)、私も羽生さんを信用してしまったところがあったんですが。

 随分話題になったんですが、そのことを考えると、勝ちはしたものの、さすがに気が滅入るので、できるだけ忘れるようにしていました。

 ただ、第1局に関しての反省は、あの将棋はしっかり勝ち切らなければいけなかったということです。

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「ひょっとしたら詰まないんじゃないかということに気がついたんです。ただ、読んでみて詰みがないのが分かるのが怖かったので、読まないようにというか、半分開き直って……。それで、羽生さんが結局△6三飛と指したので、ああやっぱり詰むんだと思って(笑)」

対局者同士、お互いに信頼感が高ければ高いほど、内藤國雄九段が言及している「女神を迷わすようなこと」が起きやすいのかもしれない。