有吉道夫九段インタビュー

有吉道夫九段が2022年9月27日にお亡くなりになられました。享年87歳でした。

謹んでご冥福をお祈りいたします。

有吉九段を偲んで、1993年のインタビュー記事を振り返ります。

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近代将棋1993年2月号、「棋士インタビュー 有吉道夫九段の巻 人の一生は一つしかない」より。

大山十五世名人が生前に、「私の陰に隠れて目立たないが有吉はあの歳(57歳)でA級はたいしたものなんだ」と言った。A級復帰して3期経た有吉九段に登場していただいた。

NHK衛星放送に生出演中、スタジオにお伺いした。視界の神吉五段との軽妙なやりとりが終わってエンディング。

「お疲れさまあ」の声で控え室に入ってくる。このあとの予定が直ぐ大阪にあるので羽田まで同行取材することにした。

車は高速道路に上がり、話は自然に大山名人のことに・・・。

大山名人にお会いする前はケチで狸的だというイメージを持っていたのですが実像はずいぶん違いましたが・・・。

「そうですね。先生は決してケチではないです。いつでもお金をたくさん持っていて使う時はさっと出す。私らにも小遣いくれたり、気配りをする人でした。ただ無駄を嫌いましたので、やたらにばらまくような使い方を嫌いました。そのへんが東京ふうの考え方とは違います。それとお酒を飲みに行ったり、皆を引きつれて歩くようなこともしませんでしたから、誤解される部分があったでしょう」

日本の社会では力のある人は、周りの者を飲みに連れていき食事に連れていくのを、期待されているような面がある。それをしないと、ケチだと言われかねない。(選挙に金がかかる風土というのはこういう風習からも来ているのだろう)

大山名人はお酒を飲まない分麻雀が好きだった。それも大金を賭けるのではなく皆がキズつかない範囲が好みだった。

「私にも碁と麻雀だけは覚えておけといわれました。おかげで人と付き合うのに役立っています」

(中略)

車は羽田空港に滑り込んだ。搭乗手続きをしたあと1時間ほどある。

「さてどこかに入りましょう。あそこが空いてますね」

和風レストランにすたすた入って行き

「ええと。ビールでいいですか。生ビール二つとなにかおつまみ願います」

九段はあまり飲まない人だと伺っていたので意表を突かれた。

「お酒はパーティーなどで付き合いで少し飲みます。家ではブランデーとかワインを少し飲みます」

ワインはお一人だと飲みきれないのでは?

「ええ。空気を抜くものがありまして、あれ便利ですよ。ワインの持ちがいいですから」

呑ん平じゃワインなんかすぐ開けちゃうだろうが、こうやって楽しむ方法もあるのだ。ところで有吉九段が大山名人に入門したころのお話をお願いしよう。

「私の父親は国鉄の管理部から交通公社に行った人なんですが、子供には進学させるつもりでして、私は進学コースに入っていました。医者にさせたかったようです。将棋はその父に教わり学校でやったり近所のご隠居のところで指していたのですが、けっこう勝ちました。当時の中学では修身とか歴史は敗戦直後のせいか教える先生がいない。それで全部自習です。私は喧嘩が強かったせいか後の席にいましていつも将棋指してた。ある時妙に教室が静かなのでひょういと顔を上げると先生が睨んでいるじゃないですか(笑い)。軍隊帰りの先生で、窓から放り出されてね、盤駒は没収、放課後まで晒し者でした。でも盤駒が惜しくて私は悪うございましたと職員室に行ってちゃんと取り返してきましたよ。相棒は逃げちゃって、いきませんでしたけど(笑い)」

少年時代の悪さは男にとっては自慢の種、楽しそうにビールで息をつく。

「・・・父が仕事で佐渡へ団体を連れて行った時にお客さんに私のことを自慢したら、家へ一度寄越しなさいという方がいて、岡山へ戻ってから連れていかれました。その方は大山後援会の幹事長で三段でした。当時岡山には三段は一人。今だと五段、六段という感じでしょう。それで二枚落ちで三番指して全部負け、後は初段の人と二番やってこれも二番負け、ショックで落ち込みました(笑い)。でもその方が筋がいいとおっしゃってその後通うようになったんです」

将棋に凝った人に話を聞くと、ほとんどが二枚落ちでやられそこから本格的な将棋修行に入っていく。二枚落ちは見た目ほど離れていない手合いで、それを知らない下手は勝ちにくい。

「それで中学二年の秋祭りの時に西阿知の大山先生宅へ連れて行ってもらった。当時先生は名人になる少し前でしたが、大有名人で岡山には月のうち三分の一くらいしかおられなくて超多忙でした。だから会えたことはたいへんなこと。そこでさっそく一局二枚落ちを指していただき、勝たせてもらいました。あとで入門してはどうかとその方からお話があったのですが、私はもう嬉しくなっちゃってねぇ(笑い)ホイホイでしたよ」

ニッコリ笑ったその顔は少年時代のままのような邪気のない童顔だ。

「ところが父はびっくりしてね。そんなつもりで将棋を習わせたわけじゃない。そのころの将棋指しは職業という認識は誰もないですから。でも岡山は大山先生のおかげでまだイメージがいいほうでしたよ。時の管制知事(中央から派遣の)が大山後援会長でしたしね。それで私が駄々をこねるもんで父も困ってね。学校に相談に行った。そしたら校長が人の一生のことだというんで臨時の職員会議開いてくれた。ま、ここでも意見がいろいろ出て結論は出なかったようですが、後で聞いて嬉しかったですね。こんな例はないそうですね(笑い)」

子供にとっては学校中が注目するいわばスター扱いだから嬉しかったろう。

「そうそう、その校長先生とは後に岡山テレビの企画で対談しました。岡北中学の教室でしたが喜ばれて。ちょうど午後から水泳の木原光知子が来るので待ってて記念写真撮りました。教え子二人に囲まれて、もう思い残すことはない、言うて・・・」

中学の話は次々に出てきた。

「父も親戚も猛反対でしたがそれを見て母が、将来恨まれてもいかんからやらせようと言うてくれまして、卒業と同時に先生の内弟子にしていただきました」

当時の有吉の印象を大山名人は、筋はいいが非力な感じ、と評している。

「奨励会に入りましたがとうjは加藤一二三さんがライバルでした。年は5つ下でしたが入門が一緒、天才的な早指し早見えで、初段までは絶対勝てなかった」

入門はともに昭和26年3級で。初段は加藤27年、有吉28年、四段は加藤29年、有吉30年その後有吉も順調に昇級するが、加藤は超特急で八段へ昇る。

「ところがどういうわけか奨励会を出るころはけっこう加藤さんをカモにしていたんですよ。あのころは二上さんが若手の旗手でしてね。升田先生が若手を評した時に、二上・加藤の次が有吉だと言ったんです。加藤さんは先に言っちゃって私はコツコツ地道に歩いていたんですがそう言って下さったんです。私は五段で王将リーグに入って、芹沢さんとともに注目されたこともありました」

若いころの自慢話をして嫌味な人もいるしそれが微笑ましい人もいる。違いは意識して大きくみせようという人か、単純に自慢しているかだろう。有吉さんは微笑まし派の旗手かな・・・。

「あのころの加藤さんは18歳でA級、学生名人誕生かなんて書かれて。20歳で結婚でしょ。今の貴りえ騒動の次くらいびっくりさせたものです。ところが名人挑戦したが大山名人がこっぴどく叩いた。最後のほうはひどかった。なぶり殺しみたいな勝ち方で・・・。あれから一二三さん、長考派になったんでしょう。将棋が怖くなったんじゃないかな」

ところで有吉さんのライバルというと内藤九段を思い浮かべるんですが、奨励会時代はどうだったんですか」

「内藤さんは私より大分下で奨励会では対戦していません。ライバルと言われたのは彼が八段になってから。関西では八段が二人しかいなかったですから決勝とかで必ず当たるんです。それで記者の方が面白可笑しく書かれたんじゃないですか」

なるほど・・・。

「そうそう。ライバルといえば山田道美さん。彼とはよくやった。同じ六段で、徹夜で感想戦やった。負けず嫌いでね。どっちも譲らない。こっちの変化はどうだ、いやこれなら負けないとか」

山田さんは学究派と言われていましたが・・・。

「学究派というならむしろ加藤さんでしょうね。相手より盤上という感じの人ですから。山田さんは相手が嫌がる筋をついたり、かなり勝負師だと思います。あの人、薬が好きでビタミン剤なんかつねに持っていて、感想戦で疲れるとまあ一杯やりなさいという感じで薬くれるんですよ(笑い)」

当時はビタミン剤はかなりモダンな感じがしたものだ。山田さんは洋物好きだったようで、パン・バター・ミルクを好み、薬もそういう感覚だったのだろう。

「彼は私を刺激してガアガア言わせようとしていたのかも知れません。それで自分の波長に合わせ、なにかを得ていたのかな。感想戦も自分が勝つと丁寧な口を聞くんですが、負けると口汚くなる。まあ、いい時代でしたね」

(中略)

いつしか歩きながらしゃべっていたら搭乗ゲートに着いていた。

「あ、今日は時間なくてすいませんね。聞きたいことありましたらいつでも電話下さい。では・・・」

目一杯、時間ぎりぎりまで中身の濃い話をしてくれた。無駄な時間を嫌った名人の愛弟子らしいインタビューだった。

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将棋世界1973年3月号より。有吉棋聖誕生の時。