二上達也九段を偲ぶ

将棋ペンクラブ会報2007年春号、二上達也九段(当時・将棋ペンクラブ名誉会長)と作家の高田宏さん(当時・将棋ペンクラブ会長)の新春対談より。

文字起こしは私が担当しました。編集前のバージョンなので多少冗長になっている部分があるかもしれませんが、お二人の話がほとんど全て盛り込まれているバージョンでもあります。

=6人兄弟の末っ子=

高田 二上さんと私は同じ昭和7年生まれなんですよね。二上さんは早生まれだから、学年は一つ上ということになりますが。終戦の日はいかがされていましたか?

二上 当時、ラジオのある家は少なかったのですが、家にはあったので「謹んで聞きなさい」と言われて玉音放送を聞きました。聞き取りづらかっし、言葉も難しかったので「最後まで頑張れ」という内容かと思っていました。周りにいた人達は結構喜んでいましたね。

高田 私は、陸軍幼年学校に入ろうと思っていたのですが、試験日の前に終戦になってしまいました。あの日は海洋訓練(潜水海底歩行)があったのですが、12時に着くように家に帰れと言われて、ラジオの前に直立不動になって聞きました。終戦の頃はすでに将棋を指されていましたか?

二上 はい。仲間同士でやっていました。あの頃は、はさみ将棋でも山崩しでもない本将棋のできることが自慢になりましたからね。函館に将棋会所がありまして、ここは駅前旅館もやっていたのですが、主人が海産物のブローカーで、東京や大阪へ海産物を持っていった帰りに、色々な物を仕入れてくるんですね。それが将棋大会の景品になったりしていました。

高田 ご実家は網元をなさっていたんですよね。

二上 ええ、でもせっかく財をなしたのにインフレでパーになりました。とは言え、生活は楽でしたが。

高田 ご兄弟は?

二上 8人兄弟の末っ子です。姉が6人で一番上の姉とは23歳、途中の兄とは17歳離れています。兄は保護者的な存在で当人も意識していました。

高田 それだけ女性に囲まれてお育ちになられていかがでした?その後、女性には頭が上がらないほうになるのか、似たような意味で、本当のフェミニストになられるのではないかと思うのですが。

二上 どうでしょうかね。とにかく可愛がられたということは自覚していますね。もっとも、私がお袋に可愛がられるのを見て、兄弟でやきもちを焼いていたのか、特に歳の近い姉にはいじめられたという覚えがあります。

高田 弟ばかり可愛がられて。

二上 母親にいつもべったりくっついている感じですからね。

高田 少々悪さをしても怒られない。

二上 そうですね。怒られた記憶はないですね、

高田 お母様はおいくつで。

二上 私はお袋が41か42のときに産まれたのですが、40そこそこで亡くなりました。

高田 やはり、優しい、美しい母親というのがずっとそのままですよね。皺皺になったお母さんなんて想像ができない。

二上 ええ。 

高田 母親像というのは小説家にも結構あるんですよ。若いうちに母親を亡くした作家は女性、特に母親に対して、若くて美しいイメージをずっと持っていますからね。女性に対する尊崇の念というか、もう女神ですね。谷崎潤一郎などがいい例です。僕の母親は84まで生きまして、老いたる母を見ていますから、若いときの母はイメージできない。ある意味では二上さんのように、若いうちのお母さんがそのままずっと胸の中に生きておられるのはうらやましいです。今、お姉さまがたは?

二上 一番上の姉と兄が亡くなりましたが、あとは元気です。

高田 一番下のお姉さまでも76か77ですか。二上家は長生きのご家系かもしれませんね。記録更新で百歳いってください。

二上 我々だと盤寿(81歳)、まずそれを目標にして、それをクリアしたら次の段階で、じゃあいこうかと。

高田 やはり81を欠かすわけにはいきませんね。将棋人として。

二上 理想的なのは81歳で将棋の日にお亡くなりになった木村名人ですね。

=大山、升田、加藤(一)=

高田 木村名人のお名前が出たところで、何人かの棋士についての、二上さんのとっておきのエピソードを教えていただければと思います。まずは升田さんから。二上さんは対升田戦29勝23敗1持将棋と大きく勝ち越しておられるんですね。

二上 升田さんとは割に指しやすいというのか、勝負に関しては相性が良かったです。

升田さんは言うことはキツイんですが根は気が優しいんですね。対照的なのが大山さんですね。当時の升田さんの腰掛銀とかね。同じ腰掛銀でも私は飛車先を交換する腰掛銀が得意だったんですが升田さんは角換わり腰掛銀が得意。私が先手番のことが多かったですから、得意な指し方ができるんですよ。先手のときはほとんど作戦勝ちになりました。また升田さんもそのように指してくれるんですね。

高田 升田さんから見れば、何と指しにくい相手だと思われたんじゃないですか。

二上 むしろ、どんと向かって来いというような、受けて立つ感じだったのかもしれません。

高田 対升田戦、第一戦は覚えておられます?

二上 内容は覚えていませんが、最初勝ったんですね。最初勝つと、何か指しやすいと感じるようになるものです。

高田 そうすると星勘定としては、どんどん勝ち星が先行されたんですか。

二上 そうですね。やはりこちらは上り坂にあるわけですし、当時の流行の指し方をより多く吸収していますから。それを升田さんが受けて立つ。

高田 いなしたりはしないんですね。相撲でいえば突き出しという感じですか。

二上 そうですね。

高田 升田さんは二上さんよりも14歳年長、年長者としては闘志を燃やしにくいということもありますかね。

二上 そうでしょうね。頑張れるのは10歳違いまででしょうね。それ以上になるとちょっと駄目だなという感じになります。

高田 対升田戦、そんなにいい成績の方は大山さん以外でいらっしゃいませんよね。

二上 その半面で、大山さんには酷い目にあったんです。

高田 大山さんとのタイトル戦をなんと20回も戦っておられるんですね。これもすごいことだと思いますが。

二上 大山さんも最初は対戦成績良かったんですよ。でも途中から、こいつには油断できないと思ったんでしょうね。だから、ことさら私とやるときは力を入れてきました。心理的なもので、全くこっちのやっていることをやればいいと、コツを読み取られてしまったんですよね。前の日の麻雀で、相手がやろうといえば私も逃げないほうですから、ところが、前の日の麻雀の結果が将棋に影響するんですね。私の師匠の渡辺東一先生は麻雀が好きだけど弱いんですが、大山さんが麻雀に引っ張り込んで、当然大山さんが勝って渡辺先生が負けます。ところが大山さんはお金を取らないんですね。私が払うわけではないのですが、何となく引け目を感じてしまうんですね。

高田 でも最初のうちはそうでもなくて、大山さんからタイトルを奪取されたのは割と早い時期だったんですね。対大山タイトル戦の2回目くらいですか。

二上 はい。内容的にもずっといいんですよね。番勝負でもはじめ2局くらい続けて勝つんですね。こっちも甘いのかなあ、もうこれはいただきと思ってしまうんですね。ところがどっこい…

高田 そうか、2連勝4連敗というのがいくつかあるんですね。

二上 精神的な弱点をつかまれてしまったんですね。それから、大山さんは健啖家ですし、私は酒飲みで、酒を飲んで休むというのが私のペースなのですが、大山さんが「あなたは飲めるんだから飲みなさい」と言って酒をどんどん注いでくれるんですね。しかも大山さんは、夕食が済んだのにステーキを注文して目の前でどんどん食べるんですね。見ているだけで嫌になってしまうんですね。

高田 それはちょっとこたえますよね。

二上 こっちはマイペースで酒を飲みたいのに後半はマイペースじゃなくなっちゃうんですよね。

高田 大山さんの最盛期に二上さんはぶつかられたんですね。

二上 はい、反面それで鍛えられたというのはありますね。だからAクラスに27年いれた、これだけが私の自慢です。今だってAクラス20年も頑張れる人はいないでしょう。

高田 その大山さんがいらしたから二上さんがそうなれたとも言えるけれど、歴史に「たられば」はないというけれど、大山さんがいらっしゃらなかったら、二上さんが大山さんの場所を占めておられた可能性は非常にあると考えてみると、楽しいというか、ちょっとそれが残念だともいえるけれど。

二上 どうでしょうね、自分で甘いところがあると思っているわけですから。

高田 それから、ご本読んでいて面白いのは、加藤一二三さんと百局近く対戦なさって、これはわずかに勝ち越していると。加藤さんとは9学年違うんですね。大山さんとも9学年。若手に勝ち越すのはすごいですよね。

二上 加藤さんの場合には当時の若手で最新鋭ですね。こっちも血気盛んな頃だから「この若造め」という思いもありましたから。

高田 記憶に残る対局は?

二上 千日手模様で手を変えて負けた対局ですね。もともと千日手は大嫌いなんですが、手を変えても勝てるとちょっと甘く考えたんですね、ところが加藤さんにきっちりと受けられて。

高田 ほとんど千日手はないですか。

二上 意識して千日手にしたのは升田さんとの名人挑戦がかかった一戦だけです。その頃、名人戦の挑戦者にだけはなったことがなかったんですね。それで千日手でもいいやと。

高田 二上さんの性格とか好みからいうと、あまり千日手にはしたくなかったんですね。

二上 ええ。まだその頃は千日手に対して批判的な人も多かったですし。

高田 それ以外に加藤さんとの思い出の対局はありますか。

二上 京都新聞の肝いりで、南口門下になって間もなかった頃の加藤さんとのお好み対局があったんですね。まだ加藤さんは学生服姿でした。そういう場面だとこちらも気が楽だし、接待されてお酒も飲めるし。

=理事、会長時代=

高田 連盟の理事として、そして会長としての時代について色々おうかがいしたいと思いますが。会長は14年なさっておられるんですよね。

二上 これも妙な意地なんですが、大山さんが会長12年務めているので、それ以上務めようという。理事選挙については、今は立候補方式になりましたが、昔は互選方式でした。互選方式だとA級棋士を役員にしたがるわけなんですが、山田道美さんが「将棋を頑張りたいから辞退させてくれ」と言って辞退したんですね。私も山田さんが辞退できるのだから自分も大丈夫だろうと思って辞退しようとしかけたんです。そうしたら、雰囲気でわかるものなのか、加藤治郎先生がやってきて大きな声で「お前ダメだよ」と。

高田 理事の期間も相当長いですよね。

二上 その頃は、私も稼ぎ頭の頃ですから。当時は賞金制ではないので、Aクラスにいて、九段戦、王将戦、王位戦、全部のリーグ戦に入っていて、懐がいいからついつい人に奢るというか、またそれを当てにして集まるのがいるんですね。芹沢さんなんかその最たるものでした。脇が甘いんですね。

高田 会長になられた時はまだ現役でいらっしゃったんですよね。

二上 現役生活40年というのに意味があるんですね。将棋の駒が40枚ですから。こじつけですけれども。

高田 でも、そこでスパッと引退なさって。

二上 もう羽生が出てきて、本音言いますと、羽生と順位戦指したくなかったんですね。順位戦だと本場所、他の棋戦では何回かやっていますが、本場所で負かされてはかなわないですから。

高田 40年で潔く引退されて、引退というのは難しいですね。野球選手もそうですが、ボロボロになっても続けるというのもひとつの生き方だけれども、スパッとお辞めになるというのは美学ですものね。奥様にはご相談はされましたか。

二上 相談というより、辞めるよと言っただけです。

高田 奥様はどうおっしゃいました。

二上 「あ、そう」でした

高田 奥様の胸の内を察するに、ホッとされる面もあるのではないですか。厳しい勝負の世界だけの何十年でいらしたわけですからね。やはり大事な勝負に負けてお帰りになったら機嫌が良くないでしょうから。

二上 そういうところを見せたくないという部分もありますよね。

高田 腫れ物に触るような。

二上 そうだと思いますね。いかにも負けたというのは見せたくありませんから、かえって元気なところを見せたりして。

高田 それはきっと、奥様は気が付いていたでしょうね。

二上 最近わかったんですが、新聞で将棋に関係することをよく読んでいるんですね。将棋のこと、ここに出てるよなんて。

高田 現役時代は口に出されなかったんですね。お互いが素知らぬ振りをするすごく素敵なご夫妻という感じがしますよ。お子様がたも、そういうご両親を見て育たれたんでしょうからね。

二上 子供は皆独立してやっています。女女男男で皆50過ぎになったかな。孫は一人います。昔から一姫二太郎といいますが、やはり女の子のほうが育てやすいですね。しかし女が二人だと男も欲しいなということになって。

高田 一姫二太郎×2ですね。お子様4人というのはいいですよね。

二上 はじめは子供をつくるなら、野球のチームが作れる9人がいいなと思っていたんですが、初め女の子でしたので野球を教えるのもどうかなと。

高田 野球がお好きなんですね。

二上 はい、立教大学に将棋の関係で友達がいまして、その頃の野球部が優勝候補で長島さんもいた時代です。立教に将棋部ができたころで、そのメンバーとは今でも付き合いがあります。

高田 話は戻りますが、連盟の会長、理事時代に一番ご苦労なさったことは何ですか。

二上 やはり名人戦問題ですね。朝日新聞が名人戦を持っていた頃で私が渉外担当の時です。その時は碁がからんでくるんですね。その年は名人戦の契約金が三千万から三千三百万に一割上がって円満に契約更新したのですが、後になって囲碁の名人戦を朝日が一億三千万でやることが判明したんです。その年は仕方がないけど、来年は将棋のほうも一億出してくれと頑張りました。それで先方からの回答が七千五百万でした。向こうは今までの倍以上出すんだから文句あるかみたいな態度なんです。でも碁に一億以上出しているわけですからね。もう一声あるとこっちも悩んだんですけれど。

高田 九千万と言われたら。

二上 そう、それだと悩む。これも後からわかったことなのですが、予算の出場所が部単位だったらしいですね。今は会社単位ですが。

高田 それで決裂して、やはり名人戦問題が一番の難題だったわけですね。棋士からは突き上げられ、新聞社の矢面に立つ。板挟みですね。

二上 当時の担当部長には気の毒なことをして、その後朝日を辞められました。ただ「コロンブスの卵みたいなもので、やってみれば後からわかりますよ」と言われましたが、こちらとしては実際の数字を示してもらわないことには判断のしようがありませんので。

高田 どういう意味なんでしょうね。

二上 よくわからないんですよ。

高田 他に大きな問題といいますと。

二上 加藤治郎会長時代の新会館建設のための募金活動ですね。募金活動には大山さんの力が必要なのですが、大山さんをどうやって説得するか、大山さんを担ぎ出すのには苦労しました。大山さんが理事会を非難するんですよ。あれがいるから駄目、これがいるから駄目と。それで理事会が総退陣したんです。さすがにそうなると大山さんも嫌だとは言えなくなるんですね。建設委員には大山、升田、塚田の三巨頭を入れないといけませんから、三人に集まっていただいて私がお願いしました。会長も引き受けてくれるようお願いしました。大山さんか升田さんが会長を引き受けるかなと思ったのですが、お互いに牽制しあって「うん」と言わないんですね。会長を誰がやるかすったもんだしている中で、塚田さんは正直なのか「僕はやらないとは言ってないよ」の一言で塚田会長に決まりました。

高田 どこで会談されたんですか。

二上 東中野の小料理屋でした。

高田 これは将棋界にとって非常に重要な会談だったんですね。三巨頭のお名前があれば募金活動も進めやすい。

二上 一番大山さんの力が大きいですね。岡山県の財界にも顔が広かったですし。

=師匠として=

高田 師匠として二上さん、羽生さんが出世頭ですが。

二上 羽生とは思い出らしい思いではないのですが、八王子に奨励会の初段までやった私の弟子がいたんですね。寿司屋さんをやっていますが、その弟子が小学生名人になった時の羽生を私の家に連れてきたんですね。

高田 直接教えることはあったんですか。

二上 いえ、直接は教えてないです。正月に年賀に来た時に指したことがあるくらいですね。

高田 お弟子さんの華々しい活躍は嬉しいものですよね。特に七冠の時とか。

二上 ええ、七冠になる前の年に七冠目前で負けているんですよね。不思議なものでそれがいい薬になったのだと思います。最初にすんなりなっちゃうと、そうは長く持たない。でも、もう七冠は出ないでしょうね。将棋指すだけならいいのですが、間に旅行日や催しがありますから大変です。

高田 羽生さんは早くから永世名人を取るだろうと言われて、まだ獲得には至っていませんが、これはいかがですか。

二上 それでいいんですよ。何でもかんでも目標を達成するのはいいことではありませんから。

高田 それはそうだと思いますよね。全部達成したら、それこそ燃え尽き症候群にならないとも限りませんものね。棋戦によって相性というものはありますか。

二上 ありますね。体調の具合もあるし精神的なものもあるし、それがうまい具合に合うといいんですね。私の場合は調子の波が3ヵ月毎に来るんです。その時にはまるといいんです。

=王将会=

高田 土曜日に王将会という教室を開かれていらっしゃるんですね。本気でアマチュアを負かしているという噂があるんですが。

二上 いえ、そんなことはないですよ。緩めていますよ。でもやっぱり自分で将棋が好きなんだな。

高田 やっぱり、負けるのが嫌いなんじゃないですか。

二上 そうそう、見え透いたことはできませんからね。

高田 察するに、アマチュアを指導なさって負けると、子供に負けたような嫌な気分がおありなのではないですか。

二上 とにかく負けるということは嫌なものですね。

高田 やっぱり勝負師なんですよ。

二上 僕が見ていて、羽生は負け方が上手です。相手の力量を測れるんですね。私は自分だけで目一杯ですから。

高田 手加減したつもりが相手を踏み潰していたということですね。

二上 王将会は今年で30年を迎えまして、記念の会を新年に催しました。

=酒と歌=

高田 酒は若い頃から飲まれたんですか?

二上 はい、渡辺先生の代稽古で恵比寿の日本麦酒(現サッポロビール)に行っていたんです。ビール会社なので将棋指しながらビールが出てくるんですね。今でいう生ビールです。これがうまいんですね。それで酒好きになりました。

高田 ビールは僕の大学生時代、一度も飲んでいませんよ。手が出ない。はるか雲の上のアルコールでね。焼酎やドブロクばかりでした。

二上 昔は酒屋さんの店頭で飲む人も多かったですね。おかずはそのへんの缶詰で。昔は新宿将棋センターのあるビルの1階がそういう酒屋でした。

高田 今は日本酒が中心ですか。

二上 今は、やっぱりビールですね。でも頂き物の洋酒が家に山ほどありまして、それを片付けなければならないんです。

高田 奥様もご一緒に。

二上 いや、飲まないですね。そういえば昔はウイスキーといえばハイボールで飲んでいました。あれはクラブなんですね。高いんだな、1杯千五百円でした。

高田 猛烈に収入が多かった頃ですよね。

二上 当時は対局料もその日に現金払いでしたから。

高田 酔っ払って落としたことはないですか。

二上 あります。

高田 それから、カラオケがお好きなんでしょう。

二上 カラオケにはちょっとうるさいです。

高田 お得意の曲を3曲あげていただけますか。

二上 まず「いい日旅立ち」です。

高田 山口百恵が歌って、鬼塚ちひろも歌って…

二上 あと谷村新司ですね。音楽関係の知人によると私の場合は谷村新司バージョンを歌うといいらしいのです。

高田 あとお好きな曲は。

二上 あと、自分の職業柄、石原裕次郎の「王将・夫婦駒」。「王将」は歌わないな。それから五輪真弓の「恋人よ」です。ところで、私は小唄の名取なんです。岩井延達という名で。「のぶたつ」なのですが「エンタツ」と言われたりしたり。「マイク二上」とも呼ばれていますが。

高田 マイクを離さないマイク二上のお話が出たところで、今日は本当に有り難うございました。

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高田宏さん(高田尚平六段のお父様でもある)が亡くなられたのが昨年の11月24日、そして二上達也九段が今年の11月1日。

二人のこの対談に同席できていたということだけでも、私にとっての心の財産となっている。