「将棋の名人になる人には奇跡が起こっているような気がします」

近代将棋1985年3月号、「名棋士と語ろう 大内延介九段の巻」より。聞き手は小杉英夫さん、金子猛雄さん。

小杉 大内さんは週刊誌に、木村十四世名人が揮毫した「書」について尋ねたけれども、うまい具合にはぐらかされてしまった、という内容のエッセイを書いておられましたね。

大内 ええ。

小杉 私も木村名人に、他の教員と3人で揮毫をお願いしたことがありまして。その文字が今はっきり憶い出せないのですが、難しかった……。

大内 難しいのですよ、木村名人のは。名人は中国の歴史などをお調べになっているから、故事にならった言葉などが出てきましてね。おっしゃられたことはその通りで、私が質問しても答えてくれなかった。読めないのですよ。(笑)私の木村名人の思い出といいますと、まず小学校4,5年の時ですが、将棋大会に優勝して頭を撫でられて、「頑張りなさい」と言われました。それが強烈な印象ですね。もう一つ、私が奨励会の時に、引退された名人と二上七段(当時)の対局があって記録係を務めたのですが、その折に「君は誰の弟子だ」と訊かれました。「土居先生です」と答えたのですが、そしたら「人様に自分の師匠を言うときは、土居です、でいい」と怒られた。ですから誉められたことと怒られたことがありまして。(笑)江戸っ子でしてね、しゃべる口調が私と似てます。

小杉 共通していますよ。

大内 歯切れがいいですね。江戸っ子らしく見栄っ張りで、その見栄っ張りのところが現在の将棋界の土台になっていると思います。例えば相撲も桝を持っていたりしてね。収入を全部将棋の社会的格上げのために費やしたのでしょう。僕は非常に尊敬しています。

(中略)

金子 大内先生の修行時代に辛かったことというと、どのようなことでしたか。

大内『僕は楽天的な方で、それほど辛かった思い出はないのですが、強いて言えば三段から四段になる時です。3年ちょっとかかりましたね。現在よりもはるかに厳しい予備クラス制度というのがありましたから。これは東京と大阪のそれぞれの奨励会で三段リーグを行い、優勝者同士の決戦によって勝者が一人だけ四段になれるものでした。例えば11勝1敗の成績をあげても、12連勝の人がいればその年は駄目だというわけで、実に過酷な制度です。その頃は、将棋連盟というのは随分みみっちい制度を作るな、と思ってましたよ。つまり、才能があって強い人はどんどん上がれる制度にするのが本当で、こんなことではいまに将棋界が滅びてしまう、というわけです。で、六段になって奨励会幹事になった時、亡くなった山田道美さんと二人で改革しました。9勝3敗とか12勝4敗とか、7割5分以上の勝率をあげれば昇級しても不思議ではなかろうとの考えのもとにね。それで今、奨励会員が百何十人にもなりました。僕らの時は2、30人でしたよ。ピラミッド形というか、三角形の底辺の拡がりが大きければ大きいほど、その社会は脚光を浴びるのですから。

(中略)

金子 昭和50年の名人戦では大内先生が中原名人に挑戦されて、最後、新名人誕生間違いなし、という局面になりましたね。それを落としてしまったわけですが、時間が経った現在の感想はどのようでしょうか。

大内 あれから人生が狂っちゃいましたよ。(笑)運命論者ではないのですが、人生というのははじめから決まっているのではないか、との気持ちにあの頃なりましたよ。ゴルフで言えば、目をつぶっても入る10センチのパットをその時に限って失敗したわけで、こういうのは実力とか何とかではない別の何かの作用ではないか。こう思ってちょっとぞっとしました。

小杉 関根十三世名人以降、木村、塚田、升田、大山、中原、加藤、谷川、各氏それぞれはじめから名人になることが決まっていた……。

大内 そう、運命的にね。雷電為右衛門があれほど強くても横綱になれなかった……。

(中略)

大内 名人の交代劇というのは、結果から見るといとも簡単に行われたようでも、内容は実にドラマチックですよ。大山さんが中原さんに奪られた時も、精密機械と言われた大山さんが終盤でとんでもない錯覚をしていました。あの大山さんが、と考えると、将棋の技術では割り出せないものを感じます。またそのシリーズでは、最後の二番、何故か中原さんが普段指さない振り飛車をやった。

金子 私もよく憶えておりますが、最終局は定跡書に書いてある通りの形になりましたね。私達アマチュアから言えば、中原さんは居飛車で勝てなくて、たまたま振り飛車にしたら勝った、との感じを持ちました。

大内 そうそう。得意な居飛車を止めて振り飛車で名人戦を戦う、というのはちょっと考えられないでしょ。非常に無欲で、今回は勉強させていただくという気持ちで指していたのだと想うのですが、それによって大山さんが転んでしまった。しかも大錯覚で。これは将棋界の奇跡ではないでしょうか。宗教の方を見れば、空海にしろ日蓮にしろ、キリスト、釈迦にしろ、皆奇跡で人を救ったり国を動かしたりしています。同様に、将棋の名人になる人には奇跡が起こっているような気がします。

(中略)

小杉 木村名人の読書好きは有名ですね。一方、大山名人や中原名人はその道一筋ではないでしょうか。

大内 そういうところがありますね。その一筋が偉さですよ。宗教で言えば、煩悩を断ち切って修行にひたすら邁進するわけです。すべて煩悩との闘いでしょうが、これに打ち勝つのが大変なことで、打ち勝った人がその道で一流になっていますね。その点僕は落伍者です。

金子 そんなことはありませんよ。ところで、ゴルフの集中力も将棋のそれも突き詰めれば同じことではないでしょうか。

大内 似てる部分もありますが、将棋とゴルフは異質なものでしょうね。ゴルフの集中力は一時的なものですが、将棋はトータルなものですし、それにゴルフの明るさに較べて将棋は陰湿ですよ。

金子 ゴルフも集中している状態だと、長いパットが入ったりします。局面に埋没している時に好手を発見するみたいで……。

大内 もちろん共通する部分はあります。僕も山に登りますが、山はもっと将棋に似ていますよ。登っている時には様々な雑念が頭を掠めて行きます。頭の中に去来することを考えながら登って行くわけで、そこに昔の修験者が山に登るということの哲学もあったのではないでしょうか。ゴルフに哲学はありませんね。逆に何も考えさせないスポーツがゴルフのわけで、そこにゴルフの良さがある。将棋では、専門家なら局面を一目見てパッとわかるのですが、そこでいろんなことを考え、大長考して悪手を指すことがある。ノータイムで好手を指すのがゴルフの世界で、長考してポカをするのが将棋。

(中略)

大内 集中力という物事を煎じ詰めるようなイメージですが、本当は「無」という状態だと思います。相撲取りが大技を放って勝った後アナウンサーに、あそこでどうしましたか、とインタビューを受けて、いやあ、何も覚えていません、と答えることがよくありますが、あれですね。これは身体に備わっているものが、いざという時に出てくるわけで、普段の生活や修行によるものです。人間的なことは別にして、こと将棋ということでは、こういうことをずうっとやり遂げている大山さんや中原さん、若手では田中寅彦君みたいな行き方が一番素晴らしいのでしょうね。その点僕は野次馬で駄目なのですよ。

(中略)

金子 最近穴熊はどうですか。

大内 少ないですよ。西村さん、剱持さん、また居飛車穴熊では田中寅ちゃんとか、大勢穴熊をする人が出て来ましたから。こうなっては他のことをした方がいい。(笑)ただ、僕は穴熊が好きでやったわけではありません。以前は振り飛車は大野(故人・九段)の専売特許でした。そこに松田(九段)流ツノ銀中飛車が出て、あとの人はまず居飛車しか指しませんでした。腰掛け銀が全盛の時代でね。そんな時、大山、升田両名人が振り飛車をやり出した。強い人がやるから振り飛車の勝率が上がります。そうなると、それに対抗して居飛車の新戦法が登場してきました。5七銀左とか玉頭位取りとかね。で、玉頭位取りは美濃囲いに強いことが判って来まして、今度は振り飛車側が穴熊という新対策を採用するようになった。技術の進歩というのはこのように相対的なものです。そして振り飛車穴熊を居飛車が負かそうと、左美濃とか居飛車穴熊が出て来た。今はそういう時代です。

金子 穴熊はしなくても、やはり振り飛車が多いですか。

大内 多いですね。一つ大野先生の言葉で、印象深いものがあります。僕が記録係を務めていた時に聞いたのですが、俺は振り飛車だと思われているが矢倉だってやるよ、しかし家を出る時に”大野流三間飛車で勝ってください”とのファンレターを読むと、どうも居飛車はできん、とね。これはすごいプロ根性です。感動しましたよ。僕が飛車を振る理由の中には、大野先生に続く振り飛車党がいなければ駄目だ、との気持ちもだいぶあるのです。僕だって矢倉も他の戦法もできますよ。(笑)それと、修行時代に松田先生に一番よく教わりましたから、これも大きな要素ですね。

(以下略)

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対談をしたい希望の棋士名を書いて読者が対談応募をする企画。

小杉さんは元小学校校長、金子さんは繭生糸問屋を経営。

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大内延介九段が奨励会時代に「人様に自分の師匠を言うときは、土居です、でいい」と木村義雄十四世名人に叱られたことは、4月7日のブログ記事でも取り上げている。

木村義雄十四世名人「酒が好きで、女が好きで、バクチが好きなら、最低でも八段になれる」

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「六段になって奨励会幹事になった時、亡くなった山田道美さんと二人で改革しました。9勝3敗とか12勝4敗とか、7割5分以上の勝率をあげれば昇級しても不思議ではなかろうとの考えのもとにね」

この対談は、現在の三段リーグの制度(1987年度から)ができる前のこと。

本当は、この大内・山田方式が続けば良かったのだろうが、奨励会員の人数が増えるとともに四段昇段者が更に増えることが予想され、財政面から三段リーグに変わったのだと考えられる。

(大内・山田方式だった時代の四段昇段者の人数)

  • 1974年度 3人
  • 1975年度 8人
  • 1976年度 7人
  • 1977年度 1人
  • 1978年度 4人
  • 1979年度 4人
  • 1980年度 8人
  • 1981年度 5人
  • 1982年度 5人
  • 1983年度 4人
  • 1984年度 6人
  • 1985年度 6人
  • 1986年度 7人(5月の森内俊之四段を入れると8人)

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「ゴルフで言えば、目をつぶっても入る10センチのパットをその時に限って失敗したわけで、こういうのは実力とか何とかではない別の何かの作用ではないか。こう思ってちょっとぞっとしました」

ゴルフの世界で「オーガスタには魔物がいる」という言葉があるように、「名人戦には魔物がいる」ということができるのだろう。

「将棋の名人になる人には奇跡が起こっているような気がします」

名人に挑戦した棋士だからこその実感。

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振り飛車名人・大野源一九段は、戦前は居飛車を中心に指していた。居飛車で八段になっている。

戦後、持ち時間が短縮されたのを機会に、序盤に時間を使わなくて済む振り飛車を指すようになった。

江戸時代以来、振り飛車は受けに徹して相手が間違うのを待つ消極的な戦法だったが、大野九段は独自の工夫を加えて「攻める振り飛車」を確立した。

「”大野流三間飛車で勝ってください”とのファンレターを読むと、どうも居飛車はできん」

中学生の時、地元紙は最強者決定戦(棋王戦の前身)を掲載していた。

待ちに待った大野八段(当時)が紙面に登場した時のこと。

大野八段先手(後手は板谷進七段・当時)で、▲7六歩△3四歩▲6六歩△4二玉

すると大野八段はなんと▲2六歩。

板谷七段が振り飛車と決め打ちして△4二玉と早く上がったのが、大野八段の反骨精神を燃え上がらせたのだろう。急遽居飛車にしたのだった。

大野ファンである私は、全身から血の気が引くような感じがした。

まあ、この対局を大野八段が勝てば、次は振り飛車にしてくれるだろう、と思って毎日観戦記を見ていたのだが、結果は大野八段の負け……

かなり落ち込んだ思い出がある。

”大野流三間飛車で勝ってください”というファンレターを出す人の気持ちが本当によくわかる。