「新・対局日誌」の河口俊彦七段の師匠は故・小堀清一九段。
小堀清一九段は金子金五郎九段門下で「腰掛銀の小堀」と言われていた。 戦後の第一次腰掛銀ブームの火付け役は小堀九段だった。
今日は、羽生善治四冠と小堀九段のエピソード。
その前に、升田幸三実力制第4代名人が小堀九段を語っている文から。
升田幸三著「三間飛車の指南」より。
将棋界には腰掛銀おじさんという人がおる。小堀八段というて、この人は相手がどう指そうと自分は腰掛銀しか絶対に指さん。
振飛車に腰掛銀は、彼にいわせれば極く当然のことなのである。
(中略)
小堀八段の件で思い出したが、小堀さんの対局を見ておって、相手に5筋の位を取られておって、腰掛銀にできん局面であったが、後手番で△5四歩▲同歩△同銀と出て、次に△5三歩と打って腰掛銀にしたのには、私もアキレて物がいえなんだ。
そのくらい小堀八段という人は、腰掛銀が好きなのである。
普通はどう考えたって、好んで交換した歩を銀の尻に打つヤツはおらんから。
升田流の最大級の賛辞。
そして、ここからが今日の本題。将棋世界1998年6月号、河口俊彦七段「新・対局日誌」より。
(太字が河口七段の文章)
そうして、対局日誌に書かなかった話が出たので、ここに書き誌しておく。
羽生四冠が四段でデビューした年、私の師、小堀九段は羽生四段と順位戦で対戦した。小堀先生は平成8年83歳で亡くなったが、昭和62年、74歳まで現役を続けた。信じられないような話だが、年の差、60歳という対戦があったのである。
戦いは小堀先生お得意の「腰掛銀」となり、終始羽生少年が有利に進んだ。しかし老雄小堀九段は頑張り、一分将棋になるまで粘った。やがて羽生四段も一分将棋になり、長手数の戦いが延々とつづいたが、午前1時すぎに勝負が終わり、羽生四段が勝った。
実を言うと、その日は対局日誌の取材日で私は対局の有様を見ていた。終わったときもいたが、内容が一方的なので取り上げなかった。それどころか、感想戦も見て見ぬふりをして帰った。
このときの記録係が勝又四段で、先日聞いたのだが、感想戦は朝までつづき、8時ごろ掃除のおばさんが来るまで小堀先生は盤から離れなかったそうだ。羽生少年もついにたまらず、盤の前で寝てしまった。
今、書いていて恥ずかしくなる。そんな師を見つめることが出来なかったのがなさけない。今さらながら、よく付き合ってくれた、と羽生四冠に感謝するのだが、こういうエピソードを知ると、大棋士になる人は、子供のときから違う、と思いませんか。
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蛇足だが、この対局が行われたのは1986年8月25日。
羽生四段が通う高校は、まだ夏休みの時期だった。