大沢在昌「新宿鮫 風化水脈」

10年振りに開けたダンボール箱の中には、大沢在昌さんの「新宿鮫 風化水脈」も入っていた。

買った記憶はあった。440頁もあるハードカバー本だったので、気力が充実している時に読み始めようと思いながらそのままになって、ダンボール箱へと姿を消した本だった。

大沢在昌さんはハードボイルド作家だが、走らなあかん、夜明けまで (講談社文庫)(坂田三吉と一字違いの東京の会社員坂田勇吉は、大阪出張の際に一度訪ねてみたかった関西将棋会館の将棋博物館へ行くが、展示物を見ている最中に極秘資料が入った鞄を盗まれる。極道たちの手から取り戻そうとするうちにヤクザ同士のメンツをかけた争いに巻きこまれ、次々襲ってくる過酷な状況に涙をふり払って立ち向かう)や、共著の棋翁戦てんまつ記など、将棋に関係する著作もある。

この「新宿鮫 風化水脈」は、新宿鮫シリーズの八作目。

読み始めたら、物語にどんどん惹きこまれ、2日で読み終えてしまった。

それぞれの登場人物が背負っている人生、それが交錯しあって生まれてくるドラマ。

読んでいる途中で胸が熱くなるシーンが多く、終盤は涙なしでは読むことができなかったほど。

新宿鮫シリーズは大沢在昌さんが大ブレイクした作品でハードボイルド色が強いのだが、この第八作は、それまでの新宿鮫シリーズとは雰囲気が異なる。

(本の内容紹介 Amazonより)

新宿署の刑事・鮫島は新宿で真壁と出会った。かつて殺人傷害事件で鮫島に自首した藤野組組員。出所したての真壁は待っていた女・雪絵と暮していた。だが真壁が命がけで殺そうとした男・王は、藤野組と組む中国人組織のボスとなっていた。やくざの生き方にこだわる爆発寸前の真壁と、幸せを希う雪絵。一方、高級車窃盗団を追う鮫島は、張り込み先で老人・大江と知り合う。街の片隅で孤独に生きる大江に秘密の匂いを嗅ぐ鮫島。捜査を続ける鮫島は、事件と藤野組の関わりを掴む。さらに潜入した古家で意外な発見を―。すべての糸はやがて一点で凝集する。過去に縛られた様々な思いが、街を流れる時の中で交錯する。心打つ、感動の第八作。

思い入れをしたくなるような魅力ある登場人物と、迫真の会話。

何といっても、真壁がいい。

物語の伏線のごく一部を紹介したい。

かつての殺人傷害事件は、みかじめ料での中国人組織とのトラブルで藤野組組員が刺されたことが原因だった。

単身、中国人組織の事務所へ乗り込んだ真壁は、刺した男の身柄を引き渡すよう迫った。これからのことについて、とやかくいう気はないし、身柄さえ引き渡してくれれば中国人組織の女や従業員にも手出ししないといった。

しかし中国人組織はこれを拒む。真壁がいう。

あんたらの気持ちもわかる。だがこちらも新宿でやくざの看板を掲げている以上、仲間に怪我を負わされて、はいそうですかと引っ込むわけにはいかないんだ。

結果として、中国人組織の首領は撃たれて死亡、NO.2(王)は喉を撃たれて重体。真壁は手下に刺され重傷を負いながら新宿署へ自首する。

後日の鮫島と真壁の会話。

「そういや、あんたは自分の怪我を自傷だといい張って、中国人たちを立件させなかったからな」

「カチこんだのは俺です。連中はアタマを守ろうとしただけだ。それでくらっちゃあ、かわいそうでしょう」

刑事・鮫島と藤野組組員・真壁は、心の底でお互いを認め合っている。

ある日、真壁が一緒に住む銀座でホステスをやっている雪絵に、新宿で小料理屋を営む雪絵の母に挨拶をしたいという。

「おとなしい格好してく。わかんないようにな。一度挨拶したいんだ」

雪絵はそっと息を吸いこんだ。

「礼をいいたい。あんたの娘に、すごく世話になったって……」

「やめよ。そんなのいうことないよ」

「じゃ、会うだけ。それでも駄目か。お前が駄目っていうなら、いかない」

雪絵は黙っていた。真壁の気持ちが嬉しく、そして母親の反応が恐かった。どんなに堅気を装っても、母親は真壁がやくざだと見抜くだろう。何というだろうか。

でも自分はこの人と生きていく、と決めた。結婚を夢見たり、仕事をやめてこの人に養ってもらいたい、とは願っていない。でもこの人とは一生、つきあっていく。

「いいよ」

雪絵はいった。

次の土曜日、雪絵の母は、会っただけで真壁がやくざだと見抜いてしまう。

会話の間、表面上は笑顔を見せていたが、心は冷えている。

二人がエレベータの前に立つと、母は訊ねた。

「これからどこいくの?」

「ご飯食べて、映画でもみようかな」

「いいわね、あたし何年も、そんなことしてないわ」

笑いながら、母はいった。真壁が母をふりかえった。

「今度、ごいっしょさせて下さい」

母は驚いたように真壁を見つめた。真壁の顔は真剣だった。

「三人で食事して、映画みに、いかせて下さい」

しかし、雪絵の母は遠慮した。

この後いろいろあるが、愛する娘のため、雪絵の母は真壁に足を洗ってくれるよう懇願することになる。

雪絵の母と真壁と雪絵のそのシーンは圧巻で、本当に泣けてくる。

もっと心打つ場面は他にあるのだが、伏線の部分だけでも大いに読みごたえがある。

この三人と、鮫島が追っている事件の糸が微妙に絡まってくる。

そして、想像しえないような収束。

エンターテインメント性豊かな、極上の人間ドラマだと思う。

風化水脈 新宿鮫VIII (光文社文庫) 風化水脈 新宿鮫VIII (光文社文庫)
価格:¥ 980(税込)
発売日:2006-03-14

—–

なお、ほぼ日刊イトイ新聞 には、今年の2月から新宿鮫の最新刊「絆回廊 新宿鮫X」が公開されている。

毎週金曜日に何ページかずつ追加される週刊連載の形態。

まだ途中だが、新宿鮫シリーズを読んだことがない方が見ても楽しめると思う。

絆回廊 新宿鮫X