強手、驚手、恐手

とても絶妙手には見えない絶妙手が連発する。

1998年将棋ペンクラブ大賞観戦記部門大賞の、甘竹潤二さんの観戦記[1997年A級順位戦、加藤一二三九段(先)-中原誠永世十段]より。

最終選考会では「加藤一二三という風変わりな棋士の挙動が目に浮かぶように書かれている」と評価された作品。

加藤一二三九段の挙動?と、中終盤のゾクッとする3手を中心に紹介したい。

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相変わらずせわしげに駒を並べ、力いっぱい▲7六歩と打ちつける加藤。いつものようにネクタイは座ぶとんにつくほど長く垂らしている。

一方の中原は駒を一枚一枚ていねいに並べ、▲7六歩を見て悠然と扇子で風を送り、メガネをふき、外の景色に目をやって、どこまでも自然体。

(中略)

ここで中原が動かなくなり、夕食休憩に入った。メニューは聞きそびれたが、たぶん加藤は十八番のうな重だったんだろうな。

再開十分前に対局室に入ると、中原が横になって休んでいた。やがて起きあがり、加藤が小走りにやってきて対局再開。

(中略)

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加藤の残り時間が1時間を切り、記録係が60から1までが記された用紙を用意するとまもなく、加藤が「あと何分ですか」と連発し始めた。用紙を見れば時間は分かるのだが、これが加藤が気合が入った何よりの証拠なのだ。

飛車取り。▲5六飛△9七歩成を予想し、「これで大変だと思っていた」という中原。

ところが加藤が指したのは、相手の香車に飛車をぶつける▲8六飛(!)。強烈なカウンターパンチだった。

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▲8六飛に対し、△同香は▲9四馬と飛車を取られてだめ。また△9七歩成は▲8三馬△同歩▲同飛成で敗勢。気になるのは△8四香打だが、

▲8二馬△8六香▲8三馬と飛車を殺せばいい。陣形の薄い後手は飛車を手にされたり、成られたりしてはひとたまりもないのだ。

でももっと驚いたのは中原の次の一手と、その表情だった。局後、「うっかりしていた」と言っていたはずの中原がまるで「そんな手、とっくに読んでいましたよ」とでも言いたげに、ノータイムで△8一香と打ちつけたのだ。

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▲8六飛が強手なら△8一香は”驚手”とでも言おうか。▲8三馬を防いだ手といえばそれまでだが、歩の真下に香を打つなんて見たことがない。控室では、「私なんて百年たっても思いつかない」とのけぞった棋士もいたほど。

ところがこの対策が意外に難しい。たとえば▲6三金は△4一玉▲6四金△9七歩成ではっきりしない。

ンッ、ンッ?すわり直す控室。事実、加藤も「意表を突かれた」と言う。だがここで加藤は△8一香の”驚手”を上回る”恐手”をひねり出した。▲8四金。今度は相手の香の頭に金を打ったのだ。

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いま、控室に戻ってきたばかりの棋士が「どうして8一に香がいるの?」とけげんな顔をしている。△8一香はわずか一手前の手なのに想像もつかないのだろう。

だが加藤はそれを上回る▲8四金のタダ捨てを用意していた。駒台にある貴重な金を捨ててまで、飛車を取ろうという狙いで、これさえ手に入れれば薄い後手陣はひとたまりもない。

▲8四金とたたきつけた加藤はどうだと言わんばかりに中原の顔を見つめ、やがて小走りに部屋を出ていった。すると残された中原は小声でこうつぶやいたのである。

「そうかよ」

ふてくされた感じではなく、マイッタなという口調だった。対局者は一方が席を立った途端に、ついホンネをもらすことが多い。事実、局後の感想戦ではこんな会話が交わされた。

中原「びっくりした。それにしても▲8四金とはガンコな手だね」(笑い)

加藤「ウーン、やっぱりここは決めにいかなくちゃね、ええ、アハッ、ホホホホホ」

どうしても飛車をくださいと言われたら、そうするしかない。△8四同香から金を捨てての飛車交換が実現したが、この局面では同じ飛車でも価値が違いすぎた。

(中略)

加藤が▲9六馬を考慮中に、ちょっと面白いことがあった。将棋の対局では通常、残り10分になったときに記録係が「何分から秒を読みますか」と尋ねるのが慣習になっているのだが、まだ残り25分もある加藤が突然、「(次から)秒を読んでください」と頼んだのだ。

「えっ、秒を……読むんですか」と記録係。「ええ」と涼しい顔で加藤。後で聞いたら、「残り25分で秒読みしたのは記録係になって初めて」だそうである。

「30秒、残り24分です」するとそれを聞いた中原が「残り24分だって。アハハ」と思わず笑い出してしまったのだ。

目の前の将棋は、敗色濃厚。いつ投げてもおかしくない。そんな深刻な状況でも、つい笑ってしまう。そんなちゃめけが重苦しい対局室の雰囲気を一瞬なごませた。でも加藤だけは一人、澄ました顔で「あと何分」を連発していたけど。

万策尽きた中原が投了したのは、それから間もなくのことだった。これで加藤は3連勝。単独トップに立った。恐ろしい57歳である。

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甘竹さんは「受賞のことば」で、次のように書かれている。

「中原-加藤戦は観戦記者にとっては実にありがたい組合せである。中原永世十段の楽観たっぷりのコメントは面白いし、加藤九段に至ってはもう一挙一動がネタの宝庫である」。