先崎学五段(当時)渾身の観戦記「偉大なる虚像」(後編)

将棋世界1991年7月号、先崎学五段の第49期名人戦〔中原誠名人-米長邦雄九段〕第3局観戦記「偉大なる虚像」より。

 博多には一行より早くついた。誰も居ないかと思ったが、別便で来たらしく師匠が居た。毎日新聞の美人記者の取材を受けていて御機嫌だった。

 「おっ与五郎か、丁度良かった。近くに藤の綺麗な寺があるんだ。行こう」

(米長先生は僕のことを与五郎と呼ぶ)

 藤棚は、奇妙な生き物のように鮮やかだった。寺の人が説明してくれた。

 「こちらの藤の匂いを嗅ぐとお金持ちになると言われております。また、向こうのご本尊をおまいりすると長生きをすると言われております」

 「長者と長寿か。与五郎は、金持ちになるのと長生きをするのとでは、どっちがいいんだ」

 「まあ、どっちも僕には縁が無さそうですね」

 「・・・そうか、それでいいんだ。人にはそれぞれ生き方ってものがあるからな」

 このようなことを言われたのははじめてである。本当に良い師匠についたと思った。このときばかりは、強い中原名人がちょっぴり憎く感じた。

 第3局の敗因は、事実上は4図、表向きの敗因は5図ということになるだろう。

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(※△6五桂では、先に△7六歩と打つべき。本譜と同じく▲6八銀ならば△6五歩と突いて▲7三歩成、△8六飛▲8七歩△8一飛とすすみ、先手陣の8筋の歩が8七(本譜は8六)ということになる。この差はデカかった)

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(※ノータイムで打った△8八歩が悪手。△6七銀と打ち込む一手だった。▲同銀は△同歩成▲同金△6六歩▲7七金寄△7五歩▲同金△6七歩成▲同金△8六飛でハマる。で、攻め合うしかないが、それならば大変だった)

 しかし、僕は、表面上に出ることのない師の真価は、二日目の朝、なにげなく指された△5四銀(6図)ではないかと一人秘かに思っている。

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 封じ手の△2三歩というのが、ノータイムでも打てる盤上この一手にもかかわらず、あえて73分も考えて封じたのは、これも当然の▲1五角に対する応手をゆっくり考えたかったからに違いない。

 △5四銀のかわりに△8六歩と突く、▲同歩の一手に△8八歩▲同金を効かして△6五歩と突く(参考図)。何故これでいけないのか。

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 △5四銀と上がったために▲4二歩から▲5二歩の手筋を食ってしまった。にもかかわらず、この△5四銀が印象に残ったのは僕にはとても指せそうにない、ぬるいお嬢さんの手のように映るからだ。

 かつて、プロアマの角落ち戦があった頃、アマチュアのトップに角を引けるAクラスは大山、中原、米長、加藤(一)の四人であった。他の人でアマに勝ち越した者はいない筈だ。事実この四人は別格であった。そして、四者に共通しているのが、この△5四銀の柔らかいぬくもりのある感触だった。

 しかし僕にはこの手はとても指せない。

 だからC2に甘んじているんだろう。情けない。

 感想戦は、森、羽生、神吉、先崎という陽性の人間が集まったからか、軽口も飛び出て、賑やかな雰囲気で行われ、タイトル戦にしては珍しく、2時間近く続けられたが、例によって名人は全く本音を言わずに読み筋を隠していたので、盤上において出た結論らしい結論は4図と5図のあたりについてだけだった。1図の感想戦を見た人が、師匠の表情があまりに捌けているので驚いていた。

   

名人戦になるとメロメロになってしまう師匠も、こと順位戦になると実に強い。

 昭和47年にA級に入ってから、落ちたことはもとより、負けたら落ちるという一局すら指したことがない。これ、凄いことである。普通ではない。ナミじゃない。これが、真の実力なのだ。

 師匠は、人間を才能型と努力型に分ければ典型的な努力型である。若い頃の1日6時間の猛勉強は有名だが、僕が内弟子の頃も、よく鞄の中や書斎に『詰むや詰まざるや』や『詰将棋パラダイス』を見つけたものだ。弟子の前で将棋を見たり、棋譜を並べたりするときは、常に正座で目は怪しい光を発していた。

 が、人前では、絶対に自分の努力を認めようとしない。林葉と僕の前では真面目に厳しくしていても、一人でも”お客さん”が入るとたとえそれが同業者でもがらりと声から何から全く変わってしまう。目は笑い、軽口を飛ばし出す。

 こういうことを知らないファンや評論家は「米長は遊び過ぎだ」式の論調を展開するが、それは師匠の実像を知らないからである。このことに限らず、師匠は、その実像と世間で知られている虚像が離れすぎているのではないかと思うことがある。

 とにかく後四番頑張って欲しい。

 今はただそれだけである。

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この名人戦第3局では、立会人が森けい二九段、副立会人が羽生善治棋王(当時)だった。

羽生善治棋王(当時)が副立会人の名人戦の夜

また、先崎学五段(当時)と神吉宏充五段(当時)が、NHKBS放送の担当。

神吉五段が一日目の夜にビール瓶のように大きな海老を6本食べた時でもある。

神吉宏充五段(当時)と先崎学五段(当時)、22年前の「大丸別荘」での夜

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先崎学五段(当時)は、この観戦記を書いた1991年5月から、1年間の休筆宣言をしている。

以前のこのブログでの記事「過激な編集企画」で引用した部分に、その半年後のことが書かれている。

再掲。

将棋世界1992年1月号、先崎学五段(当時)の「先チャンにおまかせ」より。

 それは突然のことだった。某月某日、とある酒場にて、本誌新編集長のヨシオ氏と飲んでいたときのことだった。

 「先チャン、新年号から原稿書かない」

 なかば予想していた言葉だが、いざ言われてみると対応に困った。というのも、僕は、今年の5月、1年間の休筆宣言をしていたからだ。

 「でも、1年間・・・」

 「わかっとる、わかっとる」

 ヨシオ氏、身を乗り出して、角栄調になった。

 「事情はわかっとる。しかし、もう半年は過ぎた。人の噂も75日、君が休筆のことを書かなければ、誰も思い出さん。え~世の中なんてそんなもんじゃ。五十歩百歩というやろ。四捨五入とも。それにな、じつは、秘策の企画があるんや」

(以下略)

どういう事情があったのかはわからない。

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一方、近代将棋1991年8月号、炬口勝弘さんの第14回若獅子戦2回戦〔佐藤康光五段-先崎学五段戦〕観戦記「千駄ヶ谷世紀末青春伝」より。

 後日、この一文を草するために、先崎五段に会ったら、なぜか坊主頭になっていた。理由を訊いても「ええまあ、夏ですから」なんて口を濁してニヤニヤしているばかりだったが、果たしてその真相は?

 それは、後で分かったことだが、師匠米長九段を斬った(?)名人戦観戦記「偉大なる虚像」(将棋世界7月号)の一文が原因の一つだったようだ。明晰な分析と豊かな情感が立ちのぼる名文だ。早すぎる自叙伝といった趣もあり、内弟子時代の知られざるエピソードも交えて、師匠への愛憎を本音で綴った比類なき傑作だった。これほどのものは近来まれだし、以後も出ないだろうとさえ思わせるほどだが、それ故に、書かれた側にはひっかかる部分があったのだろう。カットされた部分はもっと過激だったとの噂も聞いた。

 ともあれ、文章・活字というのはむずかしい。

 我らが先ちゃんには、本職で頑張ってもらいたいのは勿論だが、いつまでも、歯に衣着せず、ズバリ核心をつくペンと口舌でも楽しませてもらいたいといった気持ちも捨てがたい。今は複雑な心境である。

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先崎五段が坊主になった理由の全貌は明らかではないが、休筆宣言という事実と照らし合わせてみると、いろいろなことがあったのだろうと想像できる。

そのような諸事情があったとしても、この先崎五段の観戦記が素晴らしいものであることには変わりはない。

”米長邦雄”という棋士を愛し、かつ内弟子生活を送った一番弟子としての魂の叫び、そして”棋士・米長邦雄”への応援歌。