谷川浩司竜王(当時)「指したあと駒を押さえつける得意の『羽生手つき』が出た」

近代将棋1991年4月号、谷川浩司竜王(当時)の第16期棋王戦五番勝負第1局〔南芳一棋王-羽生善治前竜王〕「南、羽生戦をみる」より。

棋王戦第1局。将棋世界1991年4月号より。撮影は弦巻勝さん。

 重苦しかった空模様は、新幹線が京都に着く頃、雨となった。

 タクシーから京都の街を眺めながら、両対局者の苦しい胸の内を想像する。

 タイトル保持者。南芳一棋王。

 毎年冬場になると調子を上げる南棋王だが、今年はどうか。1988年春の初タイトル棋聖以来常に何かのタイトルを持っている実力者。しかし、今年は大変な相手を挑戦者に迎えてしまった。

 並行して行われている、米長王将との七番勝負も、現在1勝2敗。苦戦を強いられている。

 挑戦者、羽生善治前竜王。

 向かう所敵なしの勢いで竜王まで昇りつめたものの、今期は思わぬ壁に当たった。

 竜王戦はご存知の通り。昇級の方も1年間お預け。前竜王の肩書を自分の力で変えられるのは、この棋王戦がラストチャンスなのである。

 3時頃、ホテルに到着。直ちに対局場となっている茶寮に向かう。ここは、昨年名人戦第1局が行われたところである。

 ちょうど、羽生前竜王の考慮中だったが、3時45分に中断して、場所をホールに移す、とのこと。

 本局は、公開で行われるのである。

(中略)

 和室からゴールドホールの舞台に場所を移して、いよいよ、一昨年の竜王戦に続いて二度目の、タイトル戦公開対局である。

 羽生前竜王にとっては二度目だし、南棋王も、気にならなかった、との感想を残している。

 二日制のタイトル戦のように初手から63手目までを並べ直し、対局再開。この間の中断約25分は、どちらに有利に働いただろうか。

(中略)

 本譜の順は後手危うい、というのが控え室の見方だったが、羽生前竜王はこれで自信があったようである。

 △2三同玉は、指したあと駒を押さえつける得意の「羽生手つき」が出た。

(中略)

 終局が近くなったので、私は対局場の方へ足を運んだ。ファンの皆さんも、息をこらして対局者の着手を注目している。

 記録係の秒読みも、緊迫感を高める。

 南棋王としても、△6四歩辺りで投了したかったと思うが、きょうは最後まで指さなければいけない。つらい時間だった。

 △9一香で南棋王が頭を下げる。盛大な拍手が起こるのを聞きながら、これからは「ライブ」でなければ、と強く感じた。

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近代将棋同じ号、池崎和記さんの「福島村日記」より。

某月某日

 京都へ。宝ヶ池プリンスホテルで棋王戦第1局を観戦する。南棋王と羽生前竜王。ゴールデンカードとあって、大盤解説場と控え室には大勢の棋士が集まった。木村義徳八段(立会人)、桐山九段(大盤解説)、淡路八段、田丸七段、森信雄五段、中田章道五段、浦野六段、村山五段、阿部五段、中尾五段、林葉女流王将…。取材陣も、本誌から谷川浩司竜王、将棋世界から島七段、そして週刊将棋記者、NHK衛星放送スタッフと超豪華。勝負は終盤、南さんが寄せを誤り、羽生さんの逆転勝ち。大熱戦だった。取材者としてやや残念だったのは、感想戦がわずか10分で終わったことだ。終局が午後9時18分と遅く、また直後に打ち上げパーティが控えていたので、仕方がなかったのだが、新聞用に全10譜でまとめなければならない私は、これからが大変。観戦記はどう書いてもいい、というのが私の持論だが、それでも指し手の部分に関してだけは、最低限、押さえるべきところは押さえなければいけないと思っているので大変なのだ。

(中略)

 打ち上げのとき、島さんが谷川竜王と私に「テーマがダブらないようにしましょうよ。みんなが同じことを書いても仕方がないですから」と言う。もっともな意見だが、アルコールがまわって、結局、私たちは事前協議をしなかった。しかしテーマはたぶん、ダブらないと思う。書き手が違えばおのずと表現も違ってくるのだから。

(以下略)

近代将棋同じ号より、控え室の模様。

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「前竜王の肩書を自分の力で変えられるのは、この棋王戦がラストチャンスなのである」

この時の羽生善治前竜王は、B級2組なので名人戦は出場できないとして、棋聖戦、王位戦、王座戦とも、勝ち残っていない状態だった。

竜王戦は1組ランキング戦 1回戦で敗れて、出場者決定戦(裏街道)を待つタイミング。

この観戦記が書かれた時点ではまだ(前竜王の肩書を自分の力で変える)チャンスは竜王戦で残っていたわけで、谷川浩司竜王(当時)が「この棋王戦がラストチャンスなのである」と書いたのは、勘違いだったのか、あるいは竜王戦で挑戦者になったとしても、絶対に返り討ちにしてやるという強い思いだったのか、どちらかは分からない。

どちらにしても、羽生前竜王はこの後、出場者決定戦でも敗れて、竜王戦では2組に降級してしまう。

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「指したあと駒を押さえつける得意の『羽生手つき』が出た」

これは、指したあと、指で駒をグリグリと盤に押し付けるという、今の羽生九段のスタイルそのままなのだろう。

『羽生手つき』、なかなかインパクトのある言葉だ。

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「しかしテーマはたぶん、ダブらないと思う。書き手が違えばおのずと表現も違ってくるのだから」

これは本当にそう思う。